顕現 - 7
何度電話を掛けても睦希が出ない。東京への距離を縮めるにつれ、寛生の不安は増している。バイト先のコンビニにも電話を掛けたが、今日はもう帰ったと言う。遠藤に口止めをしなかったせいで、もしや堤も、狩谷と親子だと判明したと知ったのではないか。睦希の安否がとにかく気になった。
高速を降りた瞬間、迷わずサイレンを屋根に乗せて鳴らす。規律違反とか懲戒処分とか、そんなことは家族の危険の前ではどうでもいい。森にも状況を伝えると、すぐ駆けつけてくれると言う。どちらが先に到着するか、距離的に大差はないだろう。寛生はアクセルを踏み込んだ。
先に到着したのは寛生だった。外から見上げた睦希の部屋は暗かったが、隣の部屋に灯りがついている。そこを目掛けて階段を駆け上がった。
「堤! 堤っ、開けろ!」
玄関のドアを激しく叩きながら怒鳴る。サイレンの音が遠くに聞こえ始めたので、森ももうすぐ到着するだろう。だが、呑気に応援を待っている場合ではない。反応がないと見ると、体当たりの前に念のためドアノブを回してみた。
すると、鍵は掛かっていない。身体を横の壁に隠して靴先でドアを蹴って大きく開く。覗き込んだ視界に、床に仰向けに横たわった睦希と、その上に膝をついて覆いかぶさり包丁を手にしている堤の姿が飛び込んで来た。何よりもまず、視線はその刃に向かい、血痕がついていないと確認する。寛生はためらうことなく拳銃を抜いた。
「包丁を置け! 睦希っ、大丈夫かっ? 怪我はっ!?」
怒鳴りながら銃口を合わせると、堤はゆっくり振り返り、僅かに微笑む。その表情から、今は冷静な人格だろうと寛生は判断する。安全装置を外して少しずつドアの中へと身体を進めると、睦希の強張った声が響いた。
「寛ちゃん、だめっ! ち……っ!」
無事な様子に安堵した瞬間、堤の左手が口を塞ぎ、遮ってしまう。危害を加えようとしているのかと、寛生の背筋が凍りついた。
「おいっ、動くなっ!」
包丁を持つ手が動いたら発砲せざるを得ないのか。頭の中で展開をシミュレーションしながら、また一歩部屋の中へと足を進める。堤は落ち着いた様子で口を開いた。
「小野寺さんこそ、そこで止まってください。それ以上入って来たら睦希を刺します」
「わかった。わかったから。なぁ、包丁を置いて話をしよう」
殺人未遂の犯行現場にしてはやけに冷静な口調で、寛生は違和感を覚える。遠藤も森も、揃って堤は被害者だと認定した。睦希の安全確保が最優先ではあるが、なんとか堤も無傷で取り押さえたいと寛生の中では葛藤が起きている。
「なぁ、お前の話を聞いた。父親が誰なのか、そして今も病気なことも。お前もあの事件の被害者だと思っているし、睦希の命を救ってくれたことには本当に感謝してる。それなのに、なんで今こんなことになってるんだよ! 頼むから包丁を捨ててくれ!」
どう言えば刃物を収めてくれるのか、寛生は思いつく限りの言葉を必死に並べる。それでも堤の表情は変わることなく、どれも全く響いていない様子だ。まるで困った子どもを見るような薄い笑みを崩さなかった。
「十七年経った今でも、父が掛けた呪縛がまだ残ってるんです。六件目に生存者がいたことが報道されて、彼は怒り狂ってね。七件目から俺は外されました。その代わり、逃した睦希を殺してこい、できなければ代わりに殺すと脅されてるんです」
「何を言ってるんだ、狩谷はもう死んでるだろ?」
「病気の話も聞いたんですよね? 『俺』は父が死んだことで、その脅しはとっくに無効だと理解しています。でも、父の死を認めず、今でもまだ支配されている男も、この身体の中には居るんですよ」
これが解離性同一性障害かと、乏しい知識ながらも寛生の理解がようやく追いつく。
「だがそれなら、なぜその人格じゃなくて、お前が刃物を向けてるんだ。お前は睦希を助けたいんだろ? 飲み屋でアドバイスまでしてくれたじゃないか」
他の人格のことはわからないが、少なくともこの冷静な人格は、一貫して睦希を救おうとしていると感じられる。希望の糸を手繰り寄せるように説得を重ねる寛生の耳に、サイレンが徐々に大きくなって届き、森が近くまで到着していることを伝えていた。
「あのサイレンはお仲間ですか?」
耳を傾ける仕草を見せた堤から笑みが消える。そして、強い視線で寛生を真っ直ぐに見据えた。
「じゃあ、邪魔が入る前に終わらせましょう。小野寺さん、やってほしいことがあると伝えましたよね? 睦希か俺か、どちらかの命を選んでください。睦希が刺されて死ぬか、あなたが俺を殺すか。簡単な選択ですよね? あなたが発砲してやむなしの状況をセッティングしましたよ」
「はぁっ? 何を言ってるんだ、そんなことできるわけがない! し、お前が睦希を刺すとは思えない。おい、とにかく包丁を一旦置いてくれ。落ち着いて話し合おう」
堤の願いを寛生は一蹴する。だが堤には想定内の展開なのか、苦笑にも見える笑みが浮かんだ。
「これは脅しじゃないんですよ。父に支配されている息子の手で狂った儀式に使われるくらいなら、睦希は俺の手で殺します。それが嫌なら、この身体に入ってる全員を纏めて消してください」
自らの死を願う堤の目は強い。その時、押さえつけられている睦希が、呻き声を上げて踠き始める。刺される恐怖に怯えているのではなく、撃つなと訴えているのだと、寛生には伝わった。
「ふざけるなっ! 自殺したいのなら勝手に一人でやれっ!」
そんな話に乗れるわけがないと、強い口調で寛生は叫ぶ。一度睦希に視線を落とした堤は、すぐに寛生に向けて顔を上げた。
「あなたの覚悟は、良識より下なのか。その程度じゃ、いつかこの手が睦希を殺しますよ。俺が主導権を取れている今のうちに、さっさと殺してください」
堤はどこまで本気なのか。冷静なこの人格なら刺さないだろうと思う気持ちと、睦希を大切に思うからこそ一思いに終わらせようとする可能性を天秤に掛ける。寛生の心の中には激しい葛藤が起き、引き金に掛けた指を動かす決断はつかなかった。
包丁を持つ手だけを正確に狙う自信などない。何かを投げつけてその隙に飛び込むべきか。だが、もし包丁が落ちて睦希に刺さったら? 必死に考えている間にも、けたたましいサイレンとエンジンの音が、窓の外でその主張を終える。車のドアを慌ただしく開閉する音が聞こえ、時間切れを悟った堤の右手が挙がった。
「腰抜け。覚悟を決めさせてやる」
腕をいっぱいに伸ばした高さで止まった包丁が、突然振り下ろされるのが見える。その瞬間、寛生は考えるよりも先に、拳銃を床に置いて低い姿勢で頭から二人に向かって飛び込んだ。
「刺すなら俺を刺せっ!」
ほんの数歩の距離がやけに遠く感じる。進みたくても自由にならない夢の中に居るようだ。時間にすれば一秒にも満たないはずが、とてつもなく長く感じる。寛生の視界には、落胆した表情で包丁を遠くに投げ捨てる堤の動きが、まるでスローモーションのように映っていた。
「うおおおぉぉおっ!」
雄叫びを上げ、最後は両腕を広げて堤に向かってダイブする。腕の動きを封じるために抱きついて床の上に一緒に倒れ込むと、堤は抵抗せずに身体の力を抜いた。
「小野寺っ!」
背後から森の声が聞こえる。そして何人かの慌ただしい靴音が続き、数人の同僚たちが部屋の中へと走り込んでくる。
「大丈夫です! 確保! 床の拳銃、安全装置が外れてます!」
押さえつけたまま立て続けに叫ぶ。腕の中で脱力している堤が深い溜息を吐いた。
「せっかく合法的に俺を消すチャンスを作ってやったのに。身を挺してぶち壊して、誰も救えない正義感を振り翳して……満足か?」
呟く声が耳元に届く。両腕を押さえつけながら上体を起こして見下ろすと、堤は無表情に寛生を見上げていた。
「きっと後悔するぞ」
詰る言葉を無視して、堤の両腕を引いて起こす。そして森が差し出した手錠を掛けた。
「二十時三十六分、殺人未遂容疑で被疑者を緊急逮捕」
静かになった部屋の中に森の声が響く。他の課員が助け起こした睦希は、それを聞いて跳ねるように立ち上がる。
「待ってください! 違います、殺人未遂じゃないです!」
寛生は慌てて割って入った。
「睦希、まだ容疑なだけで、これから取調べをするから」
寛生から見ても、これを殺人未遂と認定するには無理がある。宥める声を掛けると、睦希は寛生に駆け寄った。
「寛ちゃんにも、お芝居だってわかったでしょ? 一度も殺そうとなんてしてないです。傷つけないから怖がらなくていい、何があっても動かないでいてくれって言われてたんです。ねぇ、堤さん、そうでしょ!」
続いて睦希は堤に縋り付く。堤も顔を向けて僅かに微笑み掛けたが、何も言葉は掛けない。否定しない姿に不安を覚えたのか、睦希はなおも続けた。
「死のうとしてたなんて……。堤さんには何の責任もないじゃないですか。だからお願い、一人で背負おうとしないでください」
悲痛な声は徐々に涙声へと変化して、頬を濡らしている。狩谷の息子だとわかっても、堤から離れる気配を全く見せない睦希に、寛生は不安を感じたが、今は黙って見守るに留めている。堤も睦希の泣き顔を見つめはしても、最後まで返事をすることはなく、代わりに寛生へと顔を向けた。
「逮捕なら連行ですよね? 行きましょう」
先に歩き出そうとする両側を森と二人で挟んでドアへと向かう。その背後を睦希の声が追い掛けた。
「堤さん! 私、待ってます。だから絶対に戻ってきてください!」
その声にも堤は反応しない。まるで聞こえていないかのように、瞬きひとつ見て取れない。パトカーの後部座席に身体を沈めても、無表情なままだった。




