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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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顕現 - 6


「堤さん? どうしたんですか?」

 何が起きているのかわからない。優しい面と厳しい面が入れ替わることはあっても、理不尽な行動を取る人ではなかった。なのに、今の堤は明らかにおかしい。そして、いつもは睦希の部屋に入る習慣なのに、今夜は隣室の鍵を開ける。一度も訪ねたことがなかった堤の部屋だ。朝まで一緒に居てくれない堤が帰って行く、睦希には立ち入りが許されていない場所だと思っていた。

「あのっ、どうして今日は堤さんの部屋に?」

 愛する人の部屋なのに、言いようのない恐怖を感じた睦希は問い掛ける。

「君の部屋を汚したくない」

「え? どういう意味ですか?」

 ドアが開かれ、堤は睦希の身体を室内へと押し込む。靴を履いたまま部屋の中まで転がされ、手に持ったスマホやバッグが離れ、床の上を滑った。一拍遅れて室内の灯が点けられる。

 こんな時なのに、睦希の心にまず浮かんだのは靴のことだ。転がされた姿勢のまま慌てて脱いで手に持ち、部屋の中を見渡す。全く生活の匂いが感じられない空間が視界に映し出された。睦希の部屋と同じ間取りの、入ってすぐのキッチンにはテーブルも冷蔵庫も見当たらない。振り返って奥の居住用の部屋を確認したが、ベッドすらなかった。

 とても人が生活しているようには感じられない。混乱して視線を戻すと、堤はドアを後ろ手で閉め、玄関のたたきに立ったままじっと睦希を見つめていた。

「睦希。何も知らない君に信頼してもらえる時間は、これで終わりだ。小野寺さんから聞く前に、俺が自分で伝えるべきだと思ってる。これから話すことを、落ち着いて聞いてくれるか」

「……はい」

 何を語るつもりなのか、睦希には想像がつかない。それでも何か恐ろしい話が続くのだと本能的に察し、靴を持つ手が震えて横座りの腿に落ちた。

「君のご家族を殺害した犯人は、俺の父なんだ。そして俺もその場に連れて行かれていた。謝って済む話ではないが、本当に申し訳ないことをした。君たち家族の幸せを、父は全て破壊してしまったし、俺はそれを止められなかった。今まで隠していたことも、併せて謝罪したい」

 堤の告白は、まるで落雷のように睦希の身体を走り抜けた。だが、衝撃は受けても、どう捉えれば良いのか、感情が何も浮かんで来ない。言葉を失い、ただ黙って堤を見上げていると、少しずつ疑問が浮かび始めた。

「もしかして……私をクローゼットに隠して声を出すなと言ったのは、堤さんだったんですか?」

 何よりもまず知りたいのはそれだ。この答次第で、心の置き所を決められると、睦希は感じている。強張った表情で返事を待っていると、堤は僅かに口角を上げた。

「君はあんなに小さかったのに、言いつけを守って、最後まで耐えてくれたね。父に見つかることなく君の家を出た時には、本当にホッとした」

 返答を聞いて、睦希は安堵のあまり大きく息を吐いて身体の力を抜く。犯人の息子だった告白には衝撃を受けたが、それ以上に、救ってくれたことへの感謝が心を満たす。

「だから私に声を掛けたんですか?」

 次の疑問を問い掛ける。堤はまだ穏やかな表情のままで頷いた。

「何度も迷ったんだ。君の中で事件がもう終わっているのなら、俺は近づくべきじゃないって。それでも、俺たち二人だけがあの事件の生存者で、君は唯一人の助けられた人だ。俺にとってこの世の誰よりも重要な存在の君を、無関係な男に渡したくなかった。でも、騙して近づいたようなものだ。君に真実を告げる勇気が、今までなかった。本当に申し訳ない」

 静かな口調で告白を続けていた堤は、ここで寂しげに微笑む。睦希はそれを見た時、この事実を受け入れようと心が決まった。

「謝らないでください。そうか……堤さんが助けてくれたんですね。だから私は、最初に会った時から堤さんが気になったのかも。声もそうだし、堤さんと一緒にいると怖くないのは、助けてくれた人だったからなんですね」

 受け入れていると伝えるために、努めて明るく話す睦希だが、堤は何も答えず見つめるだけだ。小さな不安が睦希の胸中に生まれ、そして静かに広がった。

「あの……もしかして、これで私とは離れるつもりですか?」

 このまま去ってしまうのではないか。だからこの部屋には何も家具がないのだろうか。別離の不安に駆られ、睦希の声に緊張が走る。

「小野寺さんも気づいたようだよ。遅かれ早かれ、彼は答に辿り着くと思っていたし、辿り着いてほしかった。俺はその時まで君と一緒に居られれば、もう思い残すことはないと決めていたんだ」

「どうして離れないといけないんですか? 堤さんには何の罪もないし、それに私を助けてくれたじゃないですか。寛ちゃんが反対しても、私が説得します。別れるなんて言わないでください。堤さんが居なくなったら……私」

 離れたくない一心で、睦希は両手を床について四つん這いで堤に近づく。彼が立つ玄関先まで進むと、縋る表情で見上げた。

「このまま君の隣に居られない理由があるんだ。君が記憶をなくしたように、子どもだった俺も、事件の衝撃を受け止め切れずに心が壊れた。荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、人格が分裂してしまったんだ。今もまだ統合できていない」

 思ってもみなかった方向に話が転がり、睦希は双眸(そうぼう)を見開く。口調や呼び方が変わる堤の様子が脳裏に浮かび、心に落ちる感覚を覚えている。睦希の反応を確認した堤は、静かな声で先を続けた。

「君と接していたのは、俺と弟。君も性格が変わるって気づいてたんじゃないか?」

「気づいて……いえ、男の人だから、時々荒くなるのかなと思っただけでした。でも、それが私と離れる理由ですか? 私はどちらの堤さんも好きですし、それに、今もその病気で苦しんでいるのなら、私が支えます。私たちだけが生存者なんですよね? だったら助け合って生きていきたいです!」

 ずっと従順だった睦希が、初めて強い口調で訴える。堤は落ち着いた表情を動かすことなく聞いていたが、最後に小さく笑った。

「君はやさしいね」

 ゆっくりと両膝をつき、睦希と目線の高さを合わせる。そして堤はその笑みを消した。

「逃げろと約束したのを覚えているか? この身体の中には弟以外にも危険な男が入っているんだ。耐えられなかった精神が、父がやっていたことを受け入れる人格を生み出した。その人格は父の言いつけを守って、逃してしまった君を、ご家族の元に送ろうと今も探している。君の隣で眠った時の様に、いつか隙を突かれて、また外に出てしまうかもしれない。君との楽しい時間を終わらせて、俺は決着をつけないといけないんだ」

 隣で眠ってくれなかった理由を聞き、睦希はやっと彼の行動の意味を理解する。たった一度だけ見た、異質だった堤。あの時の違和感と恐怖が、睦希の心に蘇った。

「……決着って、何をするんですか?」

 動揺で睦希の視線は揺れる。堤は静かな目線で睦希を見つめているだけだ。重ねて尋ねようとしたタイミングで、緊急車両のサイレンが小さく聞こえ始める。堤は視線を上げた。

「君のナイトが到着したのかな。彼はいつも騒がしいね」

 こんな時なのに、冗談めいたいつもの口調だ。そして堤はその笑顔のまま立ち上がり、土足で部屋に足を踏み出す。なぜ靴を脱がないのかと睦希が目で追っていると、台所に進んで、引き出しから包丁を取り出す。調理道具が何一つないのに、包丁だけが存在しているのが異質だった。

「さよならだ。睦希」

 徐々に大きくなるサイレンの合間に堤は呟き、包丁を手にゆっくりと振り返った。


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