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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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顕現 - 5


 テスト期間が終わり、シフトに入りたがる学生が増えたので、睦希のバイトは早めに終わった。以前なら時給がよい深夜帯まで働きたいと主張していたが、堤が最優先になった今、あっさりと譲る。年度末が近づき、堤も仕事柄帰宅が遅い日も多かったが、時々定時に帰って来る時もある。

 家に向かって歩きながら、今日の予定を聞こうとバッグに入れたままにしていたスマホを取り出すと、寛生からの着信を告げる通知が、待ち受け画面に表示されていた。いつもはメッセージアプリでやり取りをしているので、意外に思いながら留守電を聞こうとしたところで、背後から堤の声が聞こえた。

「睦希。今帰りか? 早かったんだな」

 スマホの操作を止めた睦希は、そのタイミングの良さに嬉しそうに振り返った。

「堤さんも今日は早かったんですね。お帰りなさい」

 堤に向かって走り寄り、微笑みながら見上げた。

「もう夕飯は食べました? まだだったら一緒に食べませんか? 外食でもいいし、あと時間が掛かっても良ければ作りますよ」

「まだ食べてない。君は大学とバイトで疲れてるだろうからどこかに寄って行こう。スマホはいいのか? 途中だったんじゃないのか?」

「あ、はい。寛ちゃんから留守電が入ってて。電話で連絡が来るのは珍しいので、家で何かあったのかも。ちょっと留守電だけ聞……」

 聞いてもいいかと尋ねようとしたが、話の途中で堤の手が伸びてくる。そしてスマホを取り上げて彼のコートのポケットへと入れてしまった。

「俺と一緒にいる間は、保護者と言えども他の男のことは気にしてほしくないな」

「はい、ごめんなさい」

 時々見せてくれる独占欲らしき発言。嬉しい気持ちに包まれた睦希は、謝罪しながらも微笑んでいる。スマホは後で確認すればいいと判断し、意識はすぐに夕食の店選びへと流れた。

「何か食べたいものはありますか?」

「寒いからうどんはどう? もっとしっかりしたものの方がいいか?」

「いえ、温まりそうで、いいですね」

 堤が選んだメニューに異論など唱える筈もないが、うどんならば嬉しいと、二人は今来た道を駅に向かって戻ることにした。

 商店街にあるうどん専門店に入り、向かい合って席を取る。温かい湯気の向こうに見る堤が、いつもより楽しそうな表情を浮かべていることに睦希は気がついた。

「もしかして、うどんが好きなんですか?」

「バレた? ソウルフードってやつかな。俺が育ったのは群馬で、香川ほど有名じゃないけど、うどんが名物なんだ。ひもかわうどんっていうのがあって、それは平たくてこんなに幅があるんだよ」

 親指と人差し指で示された十五センチほどの幅が予想外で、睦希は驚く。

「えっ、そんなに太いうどんが! 食べてみたいです」

 口に入るとは思えない幅の食べ方を考えている様子を見て、堤は可笑しそうに微笑んだ。

「東京みたいに刺激や新しい物はないけど、穏やかに暮らすには良い所だよ。まだまだ人の情けがあって、隣に誰が住んでいるのかわからない都会とは違う世界だね」

 普段は自分のことをほとんど話さない堤が、今夜は口が滑らかだ。うどんが切っ掛けとなって会話が弾んだ。

 先に食べ終えた堤は満足そうな表情で箸を置く。

「ひもかわじゃなくても美味かった。人生最後の食事を選べるのなら、やっぱりうどんだな」

「もう決めてるって、さすがに早すぎませんか?」

「命はある日突然、終わりを迎える場合もあるからね」

 達観している言い方に睦希は急に寂しさを覚える。いつも堤は自らに関して淡白で、突き放しているようにさえ感じる時がある。それもあって、いつかふらっと居なくなってしまうのではないかと不安になる。睦希はこの先もずっと一緒に居てほしいと、心の中で願っていた。


 アパートに帰る道を並んで歩く。すっかり陽が落ちた二月の外気は頬を刺す冷たさだったが、食べたばかりの温かいうどんと、こうやって一緒に歩けることで、寒さはあまり感じない。睦希は幸せだった。

「小野寺さんとは、よく電話で話してるのか?」

「今日の昼間、久しぶりにお茶したんです。堤さんとも呑んだって聞きましたけど、また失礼な事を言われませんでしたか?」

「駅で待ち伏せされて、喫煙席で(いぶ)されながら取調べをされたかな」

 いつもの冗談っぽい話し方で、しかも喫煙席に連れて行かれたと知った睦希は笑みを浮かべる。

「睦希は? 今日は何を話したんだ?」

「今日は付き合いを止めろとは言われなくて、堤さんとの話とか聞いてくれて……」

「聞いてくれて。それから?」

「それから……えっと……それだけです」

 言い淀む反応に堤は無言だ。そしてその時、マナーモードが発する振動音が聞こえて来る。コートのポケットに入れたままの睦希のスマホか、それとも堤の物かはわからない。だが、静かな夜の住宅街に、その振動音はやけに大きく響き渡る。やがて留守電に転送されたのか、音が止まる。すっかり忘れていた寛生からの着信を思い出し、確認させてほしいと睦希は頼もうとしたが、先に堤が鋭い声を発した。

「君はまた俺に隠し事をするのか」

 突然二人を取り巻く空気が凍りつく。さっきまでの幸せで暖かい気持ちが吹っ飛び、一気に緊張感が高まった。

「ごめんなさい、隠したつもりはなくて、その……事件の話をしたんです。堤さんにこの話をするのは迷惑だと思って黙っていました。子どもの頃から見ている夢が、変わった話をしました」

「どんな風に? 彼に伝えた内容を、俺にも全て話してくれ」

 見下ろす堤の表情は一転して厳しい。睦希の唇は震えた。

「今まではずっと、真っ暗なクローゼットの中に隠れているだけの夢だったけど、この頃は、誰か男の人が私を抱えて中に入れて、絶対に声を出しては駄目だって言う夢に変わったと話しました。誰が隠してくれたのかわからなくて怖かったけど、寛ちゃんはお父さんだろうと言ってて、お父さんのことは何も覚えていないから、少しでも思い出せて嬉しかったし、安心しました。あと……」

「続けて」

「あと、堤さんの声は初めて聞いた時から好きって話して、夢の中でも堤さんの声で聞こえてくるのは、お父さんと声が似てるんじゃないかって聞きました。ごめんなさい、私、勝手に堤さんのことまで」

 話の続きを促す以外、ずっと無言な堤が怖い。恐れから途切れがちになる言葉をなんとか繋いで話し終えても、何の返事も返ってこない。否が応にも不安が増した。

 沈黙を守ったままアパートの前まで到着すると、再びマナーモードの振動が響き始める。頻繁すぎて、さすがに何か緊急事態が起きているとしか考えられない。

「堤さん、やっぱり一度スマホを……」

 返して欲しいと伸ばした手首が強く握られる。そして堤は逆の手をポケットに入れて睦希のスマホを取り出すと、顔に画面を掲げてロックを外した。

 睦希は驚きで言葉が出ない。今までも強引な行動をとることはあったが、ここまでではなかった。堤は睦希に鋭い視線を置いたまま、スマホを耳にあてる。寛生らしき声が何か話しているのが漏れ聞こえたので、留守電を勝手に再生しているのだろう。

 一通り聞き終えたのか、堤は微笑んでスマホを差し出す。それは今の張り詰めた空気の中にあってとても違和感のあるやさしい笑みだ。

「そうか。今日がXデーになったか」

 意味がわからない言葉が呟かれる中、睦希はスマホを受け取りながら堤を見上げる。彼の視線は睦希に注がれているのに、なぜかもっと遠くを見ているように感じられる。掛ける言葉が見つからず困惑していると、突然手首が引かれ、引きずるようにアパートの階段を上がった。


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