惹逢 - 2
コンビニの自動ドアが開く。睦希がレジの中から視線を向けると、個人的に来店を楽しみにしている馴染み客の姿が見えた。数日に一度、仕事帰りであろうスーツ姿で食品を買っていく、スラリとした長身で顔立ちが整った男性だ。鶏そぼろ弁当と緑茶のペットボトルが本日の夕食らしい。
「温めますか?」
「はい、お願いします」
言葉遣いも丁寧で、やわらかくて印象的な低い声だ。強く惹きつけられる引力があり、特にこの声を聞くのが睦希は楽しみだ。寛生と同じくらいの年齢に見えるが、晩ご飯を一緒に食べる奥さんや彼女は居ないのだろうかと、いつも不思議に思っている。
「お待たせしました」
レンジで温めた弁当を差し出すと、この客はいつも視線を合わせて微笑む。その瞬間、睦希は動悸のような胸の痛みを覚えてしまう。この人にもっと近づきたいような、それでいて逆に、近づくべきではないと畏れも感じている。それをどう捉えればよいのかわからなかった。
数日後、バイトが終わった睦希が二階にある自宅アパートの廊下を進んでいると、自室のひとつ手前のドアの前に人が立っていて、扉を開けようとしていた。睦希が越して来たのは高校を卒業した二年半前。隣がいつから住んでいるのか定かではないが、東京の単身者用のアパートでは引っ越しの挨拶などもなくなっていて、今まで姿を見たことさえ一度もなかった。隣の住人はとても静かで、普段は存在を意識することもない。防音が良いとは思えない木造アパートなのに、テレビの音すら聞こえてこないのだ。
睦希の部屋はその先にある角部屋。その人に向かって歩きながらも、好奇心からさりげなく視線を向けた。
「あっ」
思わず声が漏れてしまう。静かな隣人は、バイト先のコンビニに立ち寄るあの長身の男だった。声に呼ばれて男の視線が睦希へと向かう。そして不思議そうな表情を浮かべた。
「あ、すみません。こんばんは。あの、私、そこのコンビニでバイトしてて、お客さんだったので、偶然に驚いて思わず声を出してしまいました」
いつもレジで目が合うとは言え、店員の顔など覚えていないだろう。慌てて理由を説明し、頭を下げて謝った。
「……あぁ、児童公園前のコンビニ? の人だよね」
男がマジマジと睦希を見つめ、納得した表情になる。一応、認識はしてくれていたらしい。
「そうです、いつもご来店ありがとうございます。お呼び止めしてすみませんでした」
もう一度深々と下げた顔を上げると、男はまだ睦希を見ている。そしてやわらかく微笑んだ。
「またお店に行くよ」
男はにこやかな笑みと共に扉の向こうに消えていく。おやすみなさいと挨拶を返した後、睦希も自分の部屋の鍵を開けた。
部屋に入るなり、玄関のドアに背を預けて溜息をつく。思いがけない偶然の出会いで、心臓がうるさく脈打っているのがわかる。感じが良い人だったことが嬉しくて、頬が熱を持ってしまっている。
二十歳を超えていても、睦希は今まで男女交際をしたことはない。告白をされたこともあったが、過去の事件と今でもまだ見る悪夢を思うと、恋愛はすべきではないと断って、それ以降もずっと異性を意識しないようにしてきた。それなのになぜか彼のことは気になってしまう。
(あの声。そう、声が好き)
低くやわらかい声。なぜか懐かしい気持ちになる。あの声をもっと聞きたいと、しばらく耳を澄ましていたが、残念ながら隣の部屋からはいつも通り何の音も聞こえては来なかった。
翌朝、部屋を出たタイミングで隣の部屋の表札を確認する。そこには『堤』と一文字だけが記されていた。まさかあの人が隣に住んでいたとは。それだけで嬉しい気持ちが湧き上がり、歩き出した後も顔が綻んでしまうのを止められなかった。
偶然言葉を交わしたことがキッカケとなったのか、その日以降、堤はレジで声を掛けてくるようになった。それは『こんばんは』だけだったり、『毎日よく頑張るね』など意味がある言葉だったりと様々だが、いつもやわらかく微笑みながら話し掛けてくる。それだけで睦希は幸せな気持ちになり、堤のことを何ひとつ知らないのに、どんどん惹かれていくのを自覚していた。
そもそもフリーなのかどうかもわからないし、年齢も離れている。そして特別な相手を作るべきではないと理性が止める一方で、今日も堤に話し掛けてもらいたい、声を聞きたいと願う気持ちを抑えられない。コンビニで働いている間、睦希は堤の来店を心待ちにしていた。




