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鵺の呼ぶ声  作者: 松岡織


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3/3

惹逢 - 3


 秋は駆け足だ。つい先日イチョウが色づき始めたと思ったら、あっと言う間に冬の寒さが訪れる。そして十一月になると、イルミネーションが早くも街を彩り始めた。睦希にとって、他の学生バイトが遊びたがるこの時期は稼ぎ時だ。バイトのシフトを多めに入れて忙しい日々を送っている。

「小野寺さん、今日はもう上がっていいよ」

 この頃の連勤を気遣い、夜の八時に店長が声を掛ける。さすがに疲れも溜まっていたので、睦希は素直に帰らせてもらう。ここ数日寒さが厳しい。バックヤードで制服を脱いだ後、今日は自炊をサボっておでんを買って帰ろうと具を選んでいた。

「おでん、買うの?」

 突然あの声がすぐ背後から聞こえる。バックヤードに下がっている間に来店したのか、堤がいるとは思っていなかった睦希は驚いて振り返った。

「あ、はい。……いらっしゃいませ」

 制服を脱いでいても、習慣で店員として話してしまう。堤は睦希の隣に立ち一緒におでんを覗き込んだ。

「真似しようかな。俺の分も見繕ってくれる? 昼が遅かったから三つくらいで」

「私が選ぶんですか? えっと、特に食べたい具や苦手なものはありますか?」

「食べられれば何でもいいよ」

 困惑と嬉しさの両面から睦希は緊張している。悩んだ末に、売上げ上位の大根と卵と竹輪を選ぶ。睦希が自らの分も選び終えるのを待ち、堤が両方の代金をまとめて支払ってしまう。慌てて断ったが、選んでくれたからと言って譲らなかった。

 客と店員だった関係が突然崩れてしまった。おでんを手に一緒にコンビニを出ながらも、睦希はどうしていいのかわからないでいる。

「すみません、ご馳走になってしまって」

 恐縮している睦希を見て、堤はたかがおでんだよと笑う。そして正面にある児童公園を指差した。

「あそこで食べていかないか? せっかく温かいのに冷めてしまう」

「は……い。えっと、はい。食べますか?」

 思ってもいなかった提案だ。今までは丁寧だった口調も今日は砕けていて、親しくない間柄なのに、一緒に食べようと誘われている。堤に淡い気持ちを抱きながらも、睦希は面食らっていた。

 ベンチに並んで座る。夜の児童公園は無人で、中央にある背の高い電灯が、遊具の影をやけに鋭利に地面に刻んでいる。現実感がなかった。箸を割って食べ始めても、熱くて冷ますのに忙しいのと、堤の事をよく知らないので何を話せばいいのかも分からず、睦希の心は落ち着かない。

「うん。初めて食べたけど、美味しいよ」

「そうですか、よかったです。冬はお弁当の代わりに時々いかがでしょうか」

 やはり店員として会話してしまう。大人の男性に対して何を話せばいいのか。迷いながらも、睦希は勇気を出して話題を振った。

「あの、堤さん……あ、表札でお名前を見ちゃったんですが……いつも帰りが遅いんですね。忙しいお仕事なんですか?」

「あぁ、俺も君の表札と、あとコンビニで名札も見たよ。小野寺さんだよね。仕事は時期によってかな。君は? 学生さん?」

「はい、大学の三年です」

 自分の名前を知ってくれていたこと、そして会話が成立したことが嬉しくて、よく見ないで竹輪を口に入れた瞬間、穴の中からだしが口の中に飛び込んで来る。

「あつっ!」

 慌てて竹輪を唇から離す。せっかく憧れの人と一緒にいるのにみっともない所を見せてしまったと、恥ずかしくて顔から火が出そうだ。

「すみません、行儀が悪くて」

 急いで謝ると、堤は微笑みながら睦希を見つめている。恥じ入る気持ちで視線を合わせていると、指先がゆっくりと顔に向かって伸びて来た。

「……堤さん?」

 何かが変わってしまった雰囲気に戸惑っていると、指先が唇に触れる。口元に付いただしを拭い、そのまま指は離れて堤の口へと戻って舌で舐め取っている。睦希はその行動に驚いてただ見つめるだけだ。何が起きているのか、理解が追いつかなかった。

「火傷するよ? 気をつけて」

 いつもの声が聞こえる。そして堤は硬直している睦希に顔を寄せて来る。今にも唇が触れ合いそうな距離でそれは一度止まった。

「逃げなくていいの?」

 睦希を惹きつける声が逃げ道を示したが、まるで呪文に掛けられたように動けなかった。

 ―― この声の言う通りにしないと、怖いことになる。

 正体のわからない呪縛が睦希を縛り付け、堤の世界に吸い込まれたように動けないままだ。抵抗しない様子を見て、堤は止めていた動作を再開して唇を重ねた。

 睦希はすっかり混乱していた。生まれて初めてキスをしている。しかも憧れていた相手と。そんな予兆はなかったし、心の準備もできていない。そして、この声。心の奥深くに閉じ込めた何かが揺さぶられている。

 堤は下唇を(ついば)む動きを何度か繰り返したが、浅くてやさしい口づけだ。しばらくするとそっと顔を離し、公園の灯の下で睦希の瞳を見つめた。

「怯えた顔をしてるよ。それに震えてる」

 何も言葉が出ない。指摘されて初めて、脚が痙攣したように小刻みに震えていると気づく。意識が動いたことで、止っていた呼吸をやっと取り戻し、睦希は身体の力を抜くことができた。

「君は俺に興味がありそうに見えたけど、もしかして勘違いだった?」

「……あ、私は」

 答えようとしても、何と答えればいいのか睦希の心は揺れる。一拍空ける時間を取ったあと、正直に今の気持ちを伝えようと決め、改めて顔を上げた。

「確かに堤さんのことが気になっていました。でも、おつきあいしたいとか、そういう具体的な気持ちではなくて、憧れです。その……今まで恋愛経験もなくて」

「え? もしかして、ファーストキスだった?」

 今の時代、男女共に高校で初体験まで済ませる層が多い中、二十歳を過ぎてのファーストキスはかなり遅いとわかっている。呆れられたと感じた睦希は、視線を外して俯く。しかしその懸念に反して、隣からは笑い声が聞こえてきた。

「困ったな、初々しい。中学生に手を出したような罪悪感を感じるよ。ごめんね、一生に一度のファーストキスだったのに」

「すみません、幼稚で。あの、でも……堤さんで嬉しかったです」

 どう答えるのが正解なのか、経験に乏しい睦希にはよくわからない。謝ってほしいのではないという思いから出た言葉だった。

「小野寺さん、君の下の名前は?」

 緩く微笑みながら眺める堤が問い掛ける。話題が変わったことに睦希は安堵した。

「むつきです。睦まじいの『むつ』と希望の『き』です」

「そう……とてもキレイな名前だね。漢字も素敵だ。ねぇ、君の睦という漢字に『事』を付けた『睦事』って言葉は知ってる?」

「むつごと? いえ、知らないです。どういう意味ですか?」

「セックスする時の語らいって意味だよ」

 予想外な単語が聞こえて、睦希は息を飲む。驚いて視線を向けたが、堤は冗談を言っているようには見えない。ここで初めて、この先の関係に誘われているのだと理解した。たった今、初めてのキスをしたばかりだ。いきなりの誘いに動揺し、目線が左右に落ち着かなく揺れる。その様子を愛でる表情で眺めていた堤は、睦希の手から器を取り上げてベンチの下に置き、そのまま動きを止めずに手を重ねた。

「睦希。ホテルに行こうか」

 心臓が痛いほど脈打っている。そして手首に乗せられた堤の手が、やけに重く感じられる。睦希は耐えられずに下を向いた。

「経験がなくて……その、怖いです。それに、まだ堤さんのこと、何も……」

 逃げ出したい気持ちが勝り否定的な言葉を重ねたが、堤は驚くような強さで手首を握る。その痛みにハッとして視線を上げると、さっきまでの穏やかな表情とは一変し、刺すように強い眼差しが見つめていた。

「俺の言うことには従わないといけないって、知ってる筈じゃないのか?」

 いきなり口調が変わり、睦希は言い様のない怖さを覚える。ついさっき感じた呪縛と同じ内容を、なぜ堤が告げるのか。初めて聞いた時から強く惹きつけられた声の持ち主。この人は一体何者なのか。睦希の中から強い警告が湧き上がる。いつもの悪夢の中に居るような感覚に包まれ、両脚が再び震え始めた。

 それなのに、この声の指示に従っていれば安全だと、心の深い所が堤を求めているのも自覚する。

「……はい」

 催眠術に掛けられたかのように承諾した睦希を見て、堤は掴んだままの腕を引き上げながらベンチから立ち上がった。


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