惹逢 - 1
真っ暗で何も見えない。
突然現れた恐ろしい怪物に見つからないよう、
私は息を潜めてクローゼットの中に隠れている。
絶対に声を出してはいけないと自分に言い聞かせ、
怪物の気配が消え去るまで震えていた。
目が醒めた時、小野寺睦希は汗だくだった。繰り返し見てしまう同じ悪夢。天井を見上げ、ここが自分のアパートだと確認しながら深呼吸を繰り返す。子どもの頃から何度経験しても、この夢に慣れることだけはどうしてもできない。
ようやく冷静さを取り戻し、ベッドの上で上体を起こす。外は夜明けを迎えたのか、カーテン越しに薄明かりが射している。暗闇を恐れて眠る時も点けたままにしているベッドサイドの灯りを消し、顔を洗うために洗面所へと向かう。意図して冷たい水で洗った顔を鏡で確認すると、まだ恐怖がこびり付いている。両手で頬を何度か軽く叩いて鏡に無理やり笑いかけると、ようやく表情が生き返る。いつもの精神状態を取り戻したと安堵の息をつき、洗面台に並べてある基礎化粧品へと手を伸ばす。ベッドに戻ってもまた同じ夢に引き戻されそうで、二度寝は諦めて、大学に向かうための朝の支度を始めた。
土曜の昼時、小野寺寛生は従兄妹の睦希と食事をするために待ち合わせ場所へと向かう。寛生は三十二歳で、睦希とは十一歳違いになる。従兄妹と言っても、幼い頃事件に巻き込まれて家族を失った睦希を、叔父にあたる寛生の父が引き取って一緒に育ったため、実質、年の離れた兄妹だ。だが寛生から見た睦希は、妹ではなく愛娘だった。目の中に入れても痛くないとはこういうことかと、普段は強面の寛生も、睦希の前でだけは穏やかな表情になる。
結婚までは実家にいるだろうと想定していたのに、睦希は大学入学と同時に奨学金を申請し、家族の反対を押し切って自立してしまった。警察署の刑事課で巡査部長として勤務している寛生は、せめて管轄区域内に住んでくれと条件をつけ、このように頻繁に様子を見に来ているのだ。
「寛ちゃん、忙しそうだったけど、担当してた事件は終わったの?」
「あぁ、無事に解決した。だから今日はちゃんと時間通り非番になったんだ」
規則に則り、仕事の詳しい話は家族にもしない。だが、血生臭い事件の話など、睦希は決して聞きたくないと寛生は知っている。実家に居た時からニュースすら観たがらず、それに配慮して小野寺家の皆もチャンネルを合わせないようにしていた。今も寛生はすぐ話題を変えた。
「バイトは無理してないか? 社会に出たら嫌でも働くんだから、今のうちにもっと遊べよ」
「大丈夫だよ、生きて行くお金は稼げてるから心配しないで」
「だからそれはもっと先でいいだろって話だって。なぁ、せめて生活費は俺に出させてくれよ。独身で金が余ってんだから、お前が使えばいいだろ?」
「忙しくてお金を使う時間もないもんね。でもそう遠くない将来に結婚するでしょ? だからそのお金は貯めておかないと」
睦希はいつも寛生を結婚させたがり、この話題はいつものことだ。だが、寛生にはそんな相手も予定もない。その話題は首を横に振ってスルーした。
「去年の二十歳の式の時だって、一生に一度のことだから振袖買おうぜって言ったのに、お前は式すら出ないでバイトして。俺たちは家族なんだからもっと甘えろよ。服とか欲しくないか? 冬物のコートとかさ」
「持ってるから大丈夫だって」
寛生はいつも援助がしたくて仕方がない。この会話も何度したことか。それでも睦希はいつも頑なに断り続ける。引き取って高校まで出してもらっただけで、十分過ぎるほど世話になったと遠慮しているのだ。町工場を経営している実家は、そう余裕があるわけではない。そして、寛生が危険を伴う警察官という仕事に就いたのも、自分のせいではないかと気にしている。
睦希が生まれた家庭は、十七年前の冬の夜に、当時日本中を震撼させていた八件の広域一家連続殺人事件の六件目として襲われた。両親と七歳だった姉が殺害され、四歳の睦希は夜中に一人で外を歩いていた所を保護された。衣服は血塗れだったが外傷はなく、二階のクローゼットに隠れたことで被害を免れたと見られている。だが、悪夢以外の記憶は何ひとつとして残っていなかった。犯行時の記憶はもちろんのこと、両親や姉の顔や思い出。それどころか存在すら全てが記憶から消え、保護された後も睦希は一度も『ママ』と親を求めたことがない。心を保つために記憶を捨てたのだろうと、医者には診断されていた。
警察が必死の捜査を続ける間も犯行は止むことなく続いていたが、最後となった八件目の犯行時に、110番通報がキッカケとなり、事件は急展開を迎える。包囲された家の中に犯人が立て籠もり、一家を惨殺した後に自殺するという形でようやく終結を迎えた。犯人は狩谷紀男という身寄りのない四十二歳の男だった。
被害者同士の関連性もなく、無作為に選んだと思われる一家を突然惨殺し始めた理由は、最後までわからないままだった。八件の事件の中で、生存者は睦希ただひとり。狩谷をこの猟奇的な事件に駆り立てた動機がわからないかと注目されたが、四歳児である上に記憶が一切残っていないため手掛かりとはならなかった。
「記憶を刺激しないでくれ。質問するな」
寛生たち家族はそう言って警察や記者から睦希を守り続けた。そんな経緯もあってか、睦希は自分の存在が寛生たちの人生の負担になっているといつも気にしている。結婚を望む話がよく出るのも、その思いからなのだろう。
叔父一家が殺された時、寛生は十五歳だった。睦希はなぜか母ではなく寛生に一番懐き、怖い夢を見ては寛生を探し、結果添い寝担当を任命された。最初は四歳女児との添い寝に困った気持ちになったものだが、毎晩のように苦しそうにうなされる幼い姿を見るにつれ、寛生の心には睦希への父性愛と、同時に正義感や犯人への憤りが芽生え、将来を考えた時に迷わず警察官を志した。
(お前がもう大丈夫ってなるまでは、俺が一番近くにいるさ)
結婚しろと言われても、そんな相手を作る気にもならない。安心して任せられる男に睦希を託すまでは、他の何よりも優先して守るのだと決めている。あの事件の被害者の親族や親しい友人たちも皆、十七年経った今も、何故彼らが殺されてしまったのかと、事件を引きずっていることだろう。まぎれもなく寛生と睦希もそうだった。




