Menu10:真鱈のソテー トマトとオリーブのコンフィソース
会社から駅までのみじかい道のり。
小田切 真は、視線を感じてふりむいた。
ベージュのステンカラーコートのポケットに手を入れ、眉をひそめる。
古くからの専門店の店舗と、低層テナントビルとが建つごちゃごちゃとした界隈。
それだけに身を隠すのもかんたんだ。
会社のだれかが、取り引きのあった企業に「裏情報」として自社株のポジティブな情報を流したところ、その企業が大量に買ったとたん株価が落ち、かなりの損をしたらしい。
だれが流したのか会社は調査中だが、真はさいきん唐突に辞表をだした後輩社員があやしいと思っている。
相手側の企業をリストラされた人の恨みを思いきり買ってしまい、ここのところは社員が何人もあとをつけられたり路上でつかみかかられたりしている。
陽がしずみ、あたりがうす暗くなる時間帯が近づいてくる。
黄昏どきというか。
ふりむいたところで誰なのか顔の判別つかん時間帯になってきた。
人影がかくれたテナントビルの入口をじっと見つめるが、出てくる様子はない。
プロの探偵や捜査員というわけではないので、ビルのどこを通ってどこから出てくるかなんて予測はムリだ。
あきらめて歩を進める。
「こんにちは」
胸もとにスッとチラシを差しだされる。
やるな、と思う。
胸もとに差しだされると、人は防衛本能で手をまえに出してしまうので、ついチラシを受けとってしまう。
ギャルソン姿のスラッとした青年だ。
胸に「橘」というネームプレートをつけている。
いまどき個人情報が分かるネームプレートをつけるなんて店があるのかと思ったが、チラシの渡しかたは確固たるマニュアルと指導がある店とみた。
「あ、すみません」
真は会釈だけして通りすぎた。
へたにチラシなんかもらって、マンションの部屋のゴミを増やしたくない。
「ただいま試作料理を無料で提供しておりまして。もしよろしければ召し上がって行かれませんか?」
ギャルソンが告げる。
顔立ちが整っているのでともすると冷たく見えそうだが、人なつこそうな笑みを浮かべるのでギャップに少しおどろいて彼を見つめる。
「えと……無料」
「無料でございます。お代はいっさいいただきません」
「ちなみに料理ってどんなの。サラダとか? サンドイッチとか?」
たぶん店の宣伝をかねているんだろうと思ったが、無料で提供する料理というと、安価ですみそうなそのあたりだろう。
「本日は真鱈のソテー、トマトとオリーブのコンフィソースをお出ししておりますが」
ギャルソンが答える。
「え……料理名だけ聞くときっちり料理っていうか」
自分で言って、変な日本語だなと思う。
「シェフが腕によりをかけた、こだわりの料理をご提供しております」
ギャルソンがにっこりと笑う。
真は駅のほうを見た。
まあ駅のテナントのカフェでなにか食べて帰ろうとしていたところだ。
べつのところでもいいかと思った。
案内されたのは、テナントビル三階のこぢんまりとしたカフェレストランだった。
ダクトや配管がむき出しのスケルトン天井が、いまどきという気がする。
換気設備のものと思われるモーター音が、ちいさくブーンと聞こえていた。
真はカウンターテーブルに座り店内を見まわした。
ほかにも客はいるのかと思ったが、カウンターテーブルにも五つほどのテーブルにも客はだれひとりいない。
無料とか言って、逆にぼったくられたりしないだろうなと真は眉をひそめた。
カウンターテーブルの奥のドアから、銀のトレーを持ったギャルソンが姿をあらわす。
真のまえに、黒灰色の石製の皿を置いた。
ぷっくりとした白身魚の切り身に、赤いトマトソースが品のいい感じでかけられている。
ニンニクとハーブ、トマトの酸味の香りが食欲をそそった。
「おまたせいたしました。真鱈のソテー、トマトとオリーブのコンフィソースでございます」
「うわ、けっこう本格的っていうか。こんなの無料提供しちゃっていいの?」
真は声を上げた。
「試作料理ですから」
ギャルソンが笑いかける。
厨房のほうから、カチャ、カチャと調理用品をこするような音がしていた。
シェフが立てている音だろうか。
真はナイフとフォークを手にした。
魚の切り身ひとつと付け合わせの白ワインだけの食事だったが、満足度は高かった。
あの店これからちょくちょく使おうかなと思いつつ、真は駅の階段を降りプラットホームに向かった。
いつもより電車を何本か遅らせていたが、いつもの時間帯と変わらず混んでいる。
ならんでいる人たちに歩みより、最後尾はどこかなと横を向いた。
うしろから五、六人の人がひとかたまりになって押してくる。
危ないな。
点字ブロックの上で革靴を二、三足踏みさせてホーム縁端を避けようとした。
だが、誰かにステンカラーコートの後ろ身頃をつかまれ、縁端のほうに引っぱられる。
電車がホームの向こうに入ってきた。
「危ないだろ!」
真は縁端から落ちるのをなんとか回避して声を上げた。
混んでいるがゆえのたまたまだろうと思ったが、またコートの身頃をつかまれプラットホームの縁端に引っぱられる。
ドンッと押された。
「ちょっ……あんた!」
押してきた人物の腕をとらえてしがみつき、落ちるのを回避する。
「わざとやってんのか! 警察呼ぶぞ!」
真は声を上げた。
周囲の人々の何人かが、なにごとかとこちらを見る。
警察につき出してやる。真は相手のコートの肩や腕を両手で必死につかんだ。
相手がふりはらおうとしながらこちらに顔を向ける。
後輩社員だ。
さいきん唐突に辞表を出した。
取り引き先の企業に裏情報を流して損失を出させたのはこいつではと真が疑っていた社員だ。
「え……なんで」
「先輩、死んで下さい。裏情報を流したのは自分だって書いた遺書、俺代わりに書きましたから」
「は?」
なに言ってるんだこいつと真は困惑した。
後輩社員が、真顔で「お願いしまっす」とつづける。
追いつめられたがゆえの狂気を感じる。真は気圧されて後輩社員の顔をじっと見つめた。
「営業成績ちょっと上げたかっただけだったんですよ。裏情報流したらあっちの社から頼りにされるかなって。こんな大ごとになるとは思わなくて」
「は? なに言ってんの? ――ちょっ……」
グイグイ押されてホームの縁端に革靴の裏がかかる。
電車が数十メートル先まで迫っていた。
「先輩って、けっこう後輩の面倒見いいとこあるじゃないですか。俺の代わりに死んでください」
「そんなのまで面倒見れるか!」
真は声を上げた。
後輩社員のコートをつかんで、なんとか縁端から離れようとする。
周囲にいた人々に押され、こんどは逆に後輩社員が縁端に押しだされた。
電車が入ってくる。
後輩社員が縁端をずるりと踏みはずし、ホームから落ちた。
数秒間ほどのいつもどおりのガヤガヤとした様子のあと、人が落ちたことに気づいた人が声を上げる。
近くにいた女性が、ヒッと息を呑み電車からあとずさった。
起きたことにようやく頭が追いついて、真はへたへたとその場にしゃがみこんだ。
電車に轢かれた遺体は、文字どおりバラバラになると聞いたことがある。
電車の輪軸の下がのぞき見える。
白い肉片が血まみれになって黒灰色のコンクリート製の枕木の上に横たわっていた。
あれはどこの部分の肉片だろうと呆然と考える。
真はさきほどレストランで出された濃厚なトマトソースをかけた白身魚を思い出した。
終




