94 スファルタン帝国の夕日
ここスファルタン帝国では今、重大なことが起こっている。
昨年、スファルタン皇が海の藻屑となって消えた。側近たちもすべて。
国を動かして指揮系統を司っていた者達がいなくなり、一時大混乱となったのだ。
地の民らのテロにより、港は壊滅的な被害を受けた。
その後神殿の神官らによって落ち着きを取り戻したが、昨年の川の氾濫はなく、豊かな土は運ばれず農地の作物の収穫が激減した。
そして今年も同じ。作物の収穫が例年の五十パーセントまで落ち込んでしまった。国民は弱い者から餓死していく。
政策が後手後手に回り、急激な国力の衰退に陥ってしまったのだ。
最早神殿が幾ら奔走しても追いつかない。
その上、国民の二十パーセントが何らかの理由で消えた。
例えば餓死。そして国からの逃走。
いなくなった者達は取るに足りない者達ばかりだが、縁の下から支えていた者達でもあった。
帝国はゆっくりと土台からかしげ、その後は規模を縮小していくだろうが、それは今ではない。
ここに一人の神官がいる。
直接手は下していないが、皇の死を誘発した人物と言えるだろう。
「メルカ神官。我は砂漠の民を率いてスファルタン帝国を離れます」
「そうか、もう帝国は落陽に差し掛かろうとしている。その方がいいだろう。私はここを離れられないけどね」
「……では。クトゥルのことは……」
「恨むはずないよ。私の信念で決めたことだ。皇がいても同じだった。皇は帝国のことなど考えておられなかったのだから」
ケムは、懇意にしていたメルカ神官と今生の別れとなることを、心の中で理解している。
この大陸は広大だ。ケムがこれから逃れる場所は遠く北西の海岸だ。
船なら、それほど時間は掛からないだろうが、彼は広大な砂漠を越えていこうとしているのだから。
地の民は、砂漠の民だ。長くこの地で生きてきた。
ときには部族同士の戦いに敗れ、奴隷に落ちたとしても誇りは消し去られるものではないのだ。
この帝国の最後の始まりは、自らが手を貸した結果でもある。
今、多くの地の民がここから脱出しようとしている。
数百の部族に分かれ、それぞれの目指す地は違うが、自由の砂を踏むのは同じだった。
「クトゥル、お前とももう会えないな。元気でエルタゴスで暮らせ」
北の空に向かい、小さな声で呟くケム。しかしすぐに足は西に向いた。
彼が率いるのは奴隷として帝国で働いていた者達だった。五十人ほどの小さな集団。だがこれが精一杯の人数だ。広大な砂漠を抜けるにはギリギリの数なのだから。
皆でらくだに跨がり、大量の食料と水を持ち、水無川を黙々と進んでいく。
途中、クトゥルと籠もった洞窟に寄る。
息子を亡くしていたケムにとって、クトゥルは我が子のように可愛がっていた。ケムはクトゥルのために帝国に牙を剥き、彼を逃がした。
その結果、スファルタン帝国の皇は死んだのだ。
後悔などあろうはずもない。これからは新たな地で、地の民の部族長として生きていくのだから。
「サフラ、ここは素晴らしい場所だ。ここで良いではないか」
「ここは雨期には沈む。数年はここでいいだろうが、いつまた雨が戻るかもしれん。しばらくはここにいてもいいが、決めたとおり西を目指す」
「サフラ・ケムリの言葉に従おう」
この後、目指す地に着くまでは、このような水の湧く洞窟やオアシスを回っていく。二ヶ月はかかるだろう。
彼らは銘々、乾燥チーズや堅焼きビスケットを取り出して食べ始めた。
途中で見つかる塩湖、そこには塩が石のように固まる場所があった。
食糧を食べ、軽くなった荷物袋に塩を詰めて、また歩き出す。
オアシスにようやく辿り着けば、キャラバンと遭遇する。そこでまた食糧と塩を交換し、旅は続いていった。
ふと、ケムは回想する。
「クトゥルと短い旅の間、玻璃グラスを見つけた。あれは幸運だった。クトゥルは何という幸運を引き当てたものか」
あの後、街での生活が格段と楽になったのだ。あの金を持たせてやろうとしたが、クトゥルは要らないと言う。
「俺には必要ない。ケムが使った方がいい。そうした方が上手くいく」
舌を切られた魔女を買うときも、ほとんどただみたいなものだったし。
クトゥルは不思議な運を持っていた。ケムは目を細めて、感慨深く思い出す。
ケムのそばには、家内奴隷だったセトもいた。
セトは元々サフラ族だった。街で偶然見つけ、買い取ったのだ。部族同士の諍いの折り、足を悪くして安く売られていたのだ。
たった一人だけの生き残り。もしかするとまだいたかもしれないが、見つけることは叶わなかった。
道は湿った土に代わり低木も現れ始めた。
いよいよ旅も終盤に差し掛かり、かすかに潮の匂いが混じってくる。
「海が近いぞ。海鳥も見える」
部族民は皆顔を輝かせ、この先に待ち受ける新たな土地を思い描いた。




