瘴気人
「おい馬鹿! 何やってんだ! やめろ!」
命の背後から聞こえるメデリナの叫び声。手を伸ばす彼をタイロンが必死に抑える。そんな二人の目の前で、命は迷い無く暴風の吹き荒れる金属の部屋の中へと足を踏み入れた。
すると次の瞬間には、その姿が彼等の眼前から消えた。激しい力の渦に巻き込まれた命は一瞬の内にその身を吹き飛ばされ、激しく壁に叩き付けられていた。衣服は既に跡形も無く、命は状況を理解すると両足の底を無数の鉤爪のスパイク状にして金属の床に食らい付く。
(命!? 何をする気だい!?)
瘴気の獣を見据えながら、視界の片隅に映る命の存在に気付いた櫻も、その思い掛けない行動に驚きを隠せない。
一歩一歩、鉤爪状にした足裏を金属の床にしっかりと食い込ませ踏み締めながら、命は瘴気の獣へと歩みを進める。
ガツガツと打ち付ける氷の礫の中でも表情一つ変える事無く、彼女はそこへ辿り着いた。しかし魔法金属で出来た無敵を誇るその全身は、至る所がボコボコに凹み、再生が追い付いていない程だ。
そんな中でも命の視線は冷静に瘴気の獣を見据えると、両腕を鋭い剣へと変化させ、その頭部へと激しく振り抜く。だがそれではスカスカと通り抜けるだけで、瘴気の獣は意にも介していない様子。
「ミコト! 『面』で散らせ!」
部屋の外から、轟音の中に僅かに聞こえたカタリナの声。それに小さく頷くと、命の両腕は表面積を増し、巨大な、お好み焼きに使う『コテ』のような形へと変化した。そしてその両腕を振るい、切断から大きく扇ぐように振り抜くと、瘴気の獣の頭部が見事に半分吹き飛んだ。
だが、それはほんの1~2秒の間に元の位置へと寄り集まって来てしまう。命はそれにめげず、両腕を振るい続けた。すると、瘴気の獣の集中力が削がれて来たのか、櫻の振るう炎の暴風が勢いを増して来ている事にアスティアとカタリナが気付いた。
「おい! 今なら瘴気を奪えるんじゃないのか!?」
カタリナはタイロン達に問い掛ける。だが彼等は、目の前で起きている事態、櫻や命の、『人』とは思えないその姿に、驚きと、何よりも『恐怖』を感じ、思考が停止していた。
「ねぇ! 早くサクラ様を助けて!」
ガッと、アスティアの手がタイロンの両肩に掛かると、彼は漸くハッとした。かと思うと、
「うわぁ!?」
とその両手を払い除けるようにして後退った。
「オ、オマエら、一体何なんだ!?」
怒るように声を震わせ上げるタイロン。その問いに、アスティアとカタリナはチラリと視線を合わせると、互いに小さく頷き合った。
「アタイ達は、『神の使徒』だ。」
真剣な眼差しと声。それは余りに潔い一言であり、信じるには充分過ぎる程の説得力を持っていた。
「使徒…神の使徒…だと?」
「まさか、僕達の所に現れた目的は…。」
驚きと共に湧き上がった疑念に、タイロン達の声が震えた。だが、カタリナは小さく首を横に振ると、
「お嬢はそんな狭量じゃない。ここに来たのは本当に偶々なんだ。詳しい話は後でする! 頼む! 今はお嬢と、ミコトを助けてくれ!」
そう言って地面に両手を突き頭を下げたのだ。それに倣ってアスティアも、
「お願い! サクラ様を手伝って!」
と頭を下げると、タイロン達は戸惑いながらも顔を見合わせ、互いの意思を確認し合い小さく頷いた。そして大きく息を吸い、意識を集中させる。
『『ウウゥオオォォォ…ルルルオォォォ…!!』』
二人の喉が独特の振動を起こし、『音』が、まるで美しいハーモニーのように重なり合う。
すると、瘴気の獣の身体がブルブルと震え出したではないか。そしてその身体から、引き千切られるように瘴気が分離して行き、それと同時に瘴気の獣の魔法の威力も落ちているように感じられる。
手応えは有った。後は奪った瘴気を魔法に変換し、敵にぶつけるだけだ。だが、そうはならなかった。瘴気の獣から剥がれた瘴気は、枯れて風化した草のように霧散し、空に溶けてしまったのだ。恐らく、既に瘴気のエネルギーとでも言うべき物は絞り尽くされ、あの身体を構築する脂肪のようなものとしてしか存在出来なくなっていたのだろう。
そして瘴気の獣も『音』を発する隙が無いのか、瘴気の召喚が出来ておらず、追加の新鮮な瘴気も見当たらない。
「くそっ! これじゃぁ魔法が使えねぇ!」
タイロンは悔し気に『ダンッ!』と地面を踏み締める。だが、
『いや、続けてくれ! コイツの腹を空にしてやるんだ!』
櫻の声が聞こえた。それは出処を掴む処か、耳に直接流れ込んで来たようで、タイロンとメデリナは思わず空耳かと疑ってしまう程。だが今は空耳かどうか等どうでも良い。出来る事をするしかないのだ。
再び『音』を響かせる二人。動きを封じる櫻と、瘴気の獣の集中を乱す攻撃を続ける命。何も出来ず歯痒い思いをするアスティアとカタリナであったが、二人の見守る中で瘴気の獣の身体からは徐々に瘴気が剥がれ、その身が小さくなって行く様が目に見えて判った。
「いいぞ! このままアイツの全身をバラバラにしちまえ!」
カタリナの威勢の良い声にタイロン達の表情も明るくなる。しかし、事はそう上手くは運ばなかった。ある段階から、幾ら『音』を振り絞っても瘴気を剥がす事が出来なくなっていたのだ。
しかし変化はそれだけではない。今までは正しく『瘴気の獣』という風体だったソレは、全身を覆っていた瘴気が全て剥がされた為なのか、その姿は『人』そのものとなっていた。
黒くモヤモヤとした不定形。しかし、その形は鼻筋や身体つきまで見て取れる程だ。だが形がそうであっても、その本質は矢張り瘴気そのものなのだろう。既に魔法を行使するエネルギー源は失われ、櫻の炎の暴風に対抗する力は無い。にも拘わらず、幾ら攻撃を加えようともその身にダメージを与える事が出来ていないようなのだ。
命の攻撃に対しては水のように瞬時にヌルリと復元し先程までのように拡散もせず、櫻の攻撃にもシルエットが僅かに崩れる程度の影響しか無いソレは、既に物理的な干渉は無意味だと物語っていた。
(くそっ、このまま精気を消耗し続けるのは悪手か!? だが、どうすれば…!)
足止めは出来ている。しかしこのままでは遠からず櫻の精気は切れ、状況が悪化する事は目に見えていた。頼るべきはタイロン達の魔法だが、瘴気の獣によって喰い尽くされたのだろうか、そもそも魔法を行使する為の瘴気が周囲に一切居ない状況だ。
瘴気の獣は、そんな状況を知ってから知らずか、櫻と命の攻撃に動じるでも無く項垂れるように肩を落とした姿勢で周囲を見回すように首をゆっくりと動かす。その姿は最早『人』そのものであり、『瘴気人』とでも呼ぶべきものであった。
そして瘴気人は、状況を把握でもしたのか『クククッ』と笑うように身体を震わせると、命の攻撃をヌルリとすり抜け、櫻目掛けて飛び掛かった。
「何!?」
思わず反射的に護身に身構える櫻。瘴気人の腕を受け止めるように伸ばした小さな手であったが、それは相手を捕まえる事は出来なかった。
何の手応えも無くスルリと抜けると、そのまま瘴気人の身体が櫻の身体に重なったのだ。そしてその瘴気の塊が、櫻の体内に吸い込まれるように消えて行くではないか。
「うっ…ぐぁ…!?」
「サクラ様!?」「お嬢!」「ご主人様!?」
櫻の耳に届くアスティア達の声が遠くに聞こえる。
「アイツ、あの嬢ちゃんの身体を奪うつもりか!?」
「そうだろうね。あれだけの精霊術を使えて、この中で唯一の脅威だったんだ。その身体を奪えれば、ここに居る僕達を蹴散らして外に出る事が出来ると踏んだのかもしれない…。」
状況を見守るしかないタイロンとメデリナは冷静に分析をする。そしてその想像は恐らく正解であった。
この場に居る戦力は、櫻を慕うアスティア達三人のみだ。魔法を使う事の出来ないタイロン達では櫻の能力に対抗する術は無いだろう。そして、アスティア達が櫻の身体に攻撃を加えられるとも思えない。それを見越しての瘴気人の行動であろう事は容易に想像が出来たのだ。
そんな皆が見守る眼前で、櫻は胸を押さえ付けるように苦しみの表情を浮かべ、ガクリと金属の床に両膝を着いた。
その状況に、タイロンは苦々しい表情でカタリナの傍へ歩み寄ると、その肩にポンと手を添える。
「…あのままじゃ魔人になっちまう。もうどうしようもない。今の内に、始末を…するんだ。」
かつての師が魔人として討伐された記憶が脳裏を過ると、また同じ過ちを繰り返してしまう事に、肩に添えた手に力が籠る。だがカタリナはその手を払い除けて言った。
「冗談じゃない! お嬢があんな訳の解らねぇヤツに負けるかよ!」
カタリナの言葉に、タイロンは一瞬怯んだ。確かに、本来ならば取り憑かれた瞬間に変異が始まってもおかしくない筈が、櫻には変化が起きていないのだ。だが、そんなものは例外にすぎない。何れ確実にそうなってしまう事は避けられないのだと、希望は無いのだと自身に言い聞かせ、
「根性論じゃないんだぞ! そんな希望や願望で、現実が覆る訳が無いんだ! 瘴気に取り憑かれたら、もう助からないんだよ!」
言うと、タイロンは変態した身体で爪を構えた。
「バカ野郎! やめろ!」
カタリナがその身体を正面から押さえ付ける。櫻の肉の力は既に消え失せていたが、それでもタイロンの前進を抑えるだけの膂力を見せ、彼の足は一歩たりとも進まない。
「離せ!」
「離すか!」
「タイロンを行かせろ!」
メデリナまでがカタリナに拳を振り上げ、平行線の押し問答が始まってしまった。収集の付かない現場に、命はただ櫻の様子を気に掛け狼狽えるばかり。
そんな中で、アスティアだけは胸元に握り拳を添え、ジッと櫻を見守るように視線を向けていた。グッと握る拳に力が籠り、何も出来ない自分に焦りと苛立ちが募る。するとその時、アスティアは下腹部に熱を感じた。
視線を落とし、下腹部にソッと手を添える。
その熱は決して身を焦がすようなものではなく、力強くも包み込むような温かさを持ち、そしてそれは、自分の想いに呼応するように強くなって行く。アスティアは何かに気付いたようにハッと顔を上げると、意を決したように一歩を踏み出した。
(お、『重い』!)
下腹部にズシンと来るような感覚が櫻を襲っていた。そしてその感覚は過去にも経験の有るものであった。
それは、魂が抱える『負』だ。
怨みや無念を抱えたままで天に昇る事の出来なかった魂を体内に受け入れると、似たような『重さ』を感じる事が有った。コレは正に、その感覚だ。だがその重さが、今までに経験して来たものとは段違いなのだ。
(負の念が強くなると『裏』…地獄に落ちると聞いては居たが…、成程、瘴気が地獄に落ちた魂の成れの果てと言うなら、この重さも納得か…!)
腹の中で暴れるようなその重さに、下腹部に力を込めるようにして全身に巡る精気で抑え込む感覚を向ける。すると、魂を受け入れた時のような感覚が伝わって来た。
しかし、それは今まで経験したような『想い』とは少々違う。言うなればこの瘴気人を形成していた『執着』とでも言えるものだ。
『不老不死』そして『不滅の魂』。
どのような経緯を経てそうなったのかは解らない。だが確実なのは、その二つの想いだけが、この瘴気人を現世に存在させていたという事だ。だが既にその中に『人』の意思は無く、本能のように生存の為に必要な行動を繰り返していたのだろう。
納得すると同時に、コレが確かに『人』だったのだと確信すると、櫻の苦悶の表情に少しだけ物悲し気な愁いが混じる。そんな同情にも似た感情を抱いた時だった。
櫻の身体が『ドクン』と跳ねるような感覚に襲われたかと思うと、腹の内に抑え込んでいた瘴気人の存在が、櫻の中に広がろうとし始めたではないか。
(こ、こいつ、こんな状態から…あたしの身体を乗っ取る気かい!?)
正に考える事よりも本能という名の『執着』によって行動する瘴気人は、己の存在がこのまま消え去る事を受け入れる気は無かった。ただ只管に己の存続の為の足掻き、藻掻き、その対象が何であろうとも出来る事をする。その貪欲な生への執念は、だが、櫻には純粋にすら感じられた。
(だが、あたしもこのまま素直に身体をくれてやる訳にはいかんのでね!)
櫻は小さな身体を更に小さくするように背中を丸め、頭をゴツンと金属の床に着けるような姿勢になると、全身の精気の制御に意識を集中させた。
内で暴れる瘴気人と、それを抑え込む櫻の精気。傍目には何が起きているのか理解出来ない、目に見えない攻防が、その小さな身体の中で繰り広げられる。
(流石、封印以外に対処のしようが無かっただけは有る…何て『想い』の強さだ…!)
未だ精気の扱いが不完全である事を加味しても、櫻の精気と正面からぶつかり合い一進一退と言う瘴気人の存在は脅威だ。それ故に、この場での敗北は絶対に許されない。櫻は自身に課せられた責務の為にも全身に力を込めた。
するとその時、背中にふわりと、柔らかな感触を感じた。そしてそれと同時に、身体を抱き締めるように触れたヒヤリとした体温。
それはアスティアだった。背中に覆い被さるように櫻を背後から抱き締めるアスティアの冷たい温もりが、櫻の全身を包み込むように感じられる。そして耳元で囁く声。
「サクラ様、ボクも一緒に戦うよ。」
その言葉と共に、アスティアから温かな波動が櫻の身体に伝わる感覚を覚え、櫻はハッとした。アスティアから何かが共鳴するようにして、櫻の精気を増幅している感覚が理解出来るのだ。
そしてそれは瘴気人の攻勢を瞬く間に押し返し、その存在を小さな飴玉程にまで圧縮すると、下腹部にストンと落ち着いた感覚が伝わる。
精気によって押し固められた瘴気人は、最早身動きも取れないのか抵抗を止め、櫻の浄化を受けるばかりとなっていた。
こうして、突然に始まった未知との遭遇戦の結末は驚く程に呆気無く、しかし漸く終わりを迎えたのだった。




