瘴気の獣
不気味に這い出る瘴気の手。その姿はタイロンの陰になって櫻達からは見えず、隣に居たメデリナだけが気付いていた。そしてその手が彼に触れる直前、メデリナは咄嗟にタイロンに飛び掛かると、二人は勢い良く金属の床に転がり、硬い音を響かせた。
「痛っててて…突然どうした…。」
軽く頭を打ったのか、後頭部を摩るタイロンは、胸の中のメデリナを片腕で抱くようにして首を起こす。すると、箱の中から姿を現わしている『それ』の存在に気付き、ハッと状況を理解すると同時にメデリナに視線を戻した。
そこで漸く櫻達もその異変に気付くと、カタリナが櫻とアスティアを庇うように前に出ると同時に、命は倒れた二人に駆け寄る。そして二人を両脇に抱えると、這い出る瘴気から視線を逸らさぬようにしつつ飛び退き距離を取った。
「す、済まねぇ。」
ドサリと床に降ろされたタイロンは、大柄な男の自分を軽々と抱え上げた命に驚きの視線を向けながら礼を言うと、慌てて立ち上がってメデリナの手を取り、引き起こすと同時に箱に視線を移した。自分が開けた小さな穴。そこから、『何か』が出て来る姿がその瞳に映る。
「な…何だい? コイツは!?」
櫻も驚きの声を上げる『それ』は、既に全身が流れ出ていた。煙のようであり、しかし水のように流動的に蠢くそれは、まるで『人』のような『形』をしていながらも、その体躯はカタリナの二倍程は有り、体勢は獣のように四つん這いで頭を低くし、宛ら目の前に居る者達を吟味し威嚇をしているかのよう。
「魔物、なのか!?」
カタリナと命が構える。すると、その行動に反応したように『それ』は『音』を発した。
『グウゥゥォオオォォ…グルルルォォオオォォ…!』
それは聞き覚えの有る『音』。魔法使いが瘴気を操る時に発する音に酷似していたのだ。すると、タイロンとメデリナの懐から瘴気が漏れ出した。魔法に使う為に特殊な容器に封じていた筈の瘴気だ。
驚く一同の目の前で、瘴気は『瘴気の獣』へと吸い込まれて行くと、その体積が僅かに増したように見えた。
『コイツは敵だ!』
その場に居た全員がそう判断した。そしてそれと同時にカタリナは全身に力を込めると獣人形態へと変態を遂げ、鋭い爪を構えて飛び出した。だがその時だ。
「バカ野郎!」
その声と同時にカタリナに飛び掛かったのは、変態したタイロンだ。横からタックルのように抱き付かれ、二人は地面に転がると、出鼻を挫かれたカタリナは慌てて身を起こした。
「何すんだ!?」
「アイツはヤバい! あれは…瘴気そのものだ! 生身で戦える相手じゃねぇ!」
魔法使いとしての経験がそう判断させたのか、タイロンの表情は確信を得たように強張っていた。
「じゃぁどうする!? アレは放っておいた方がヤバいぞ!?」
そうしている間にも、瘴気の獣は『音』を発し続け、何処に沸いていたのか部屋の外からも瘴気を呼び寄せ、空腹を満たすように吸収を続けている。しかしその量がおかしい。通常自然発生する瘴気の量ではないのだ。
「それは…!」
口籠るタイロンだったが、そこにメデリナが駆け寄る。
「アレが瘴気なら、僕達で魔法に変換して消費させてしまえば!」
「それだ!」
彼の案に、タイロンもパチンと指を鳴らし目を輝かせて希望を表情に浮かべた。そして二人は小さく頷くと、瘴気の獣に向けて両手を突き出した。そして揃って例の『音』を喉から響かせ始める。
『『ウウゥォォオオォォ…!』』
すると、瘴気の獣に向かっていた瘴気の一部が、行先を見失ったように右往左往し始めたではないか。その様子にタイロンは手応え有りとニヤリと口角を上げる。しかしメデリナの表情は焦りを感じていた。
(駄目だ…! 向こうの方が制御が上手だ…!)
メデリナの勘は正しかった。二人掛かりで瘴気を呼び寄せているにも関わらず、その大半の行き先はゆっくりだが着実に瘴気の獣へと向いていた。そして、何かの魔法に変換しようとしてもその制御を相手に握られてしまっているのか、変化が起きないのだ。
「くそっ! アタイらには何か出来る事は無いのかよっ!」
「せめてオルハルコの矢を持って来ていれば…。」
見守る事しか出来ないカタリナと命も、もどかしそうに拳に力を込める。その時だ。
『ゴオォ!』と激しい音を立てて、瘴気の獣が炎に包まれた。それは床から吹き上がるようにして立ち昇り、対象の姿を隠す程の火柱。
何が起きたのかと驚きを見せるタイロンとメデリナだったが、カタリナ達の視線が櫻へ向いている事に気付くと二人の視線も自然と其方へ吸い寄せられた。すると、そこには両腕を突き出すようにする櫻の姿。
「お前…精霊術を…!?」
驚きの表情に顔を強張らせるメデリナに、櫻は苦笑いを浮かべる。
「この部屋は恐らく、コイツを封じ込める為に精霊術で作られた部屋だったんだ。つまり、精霊術であれば対抗出来る筈! カタリナ!」
そう言うと、櫻は片腕をカタリナへ向け、光の力を放った。するとカタリナの全身が光の膜に包まれ、彼女はグッと握り拳に力を込めてニヤリと牙を覗かせると、地面を蹴って炎の柱の中へと飛び込んで行く。
まるで自殺行為なその行動にタイロン達は言葉を失い、その姿を見送り見守る事しか出来なかった。
炎の中、カタリナが見た物は、炎に包まれながらもその身体には何の損傷も見られない、まるで炎を身に纏ったような瘴気の獣の姿であった。
「チッ! お嬢の炎でも無傷かよ!」
苦々しく舌打ちをする。だが、一応の効果は有るのか、その動きが鈍い。姿勢を低くして警戒する獣のようにカタリナに敵意の視線を向けながら低い唸り声を上げているが、先程までの力強さは成りを顰め、外部からの瘴気の追加も見られないようだ。呼び続けては居るものの、恐らく櫻の炎で掻き消されているのだろう。
(どうやら精霊術と相性が悪いのは確かみたいだな…!)
ニィと口角を上げると、光を纏った腕を大きく振り上げ、勢い良く振り抜く。瘴気の獣はそれを避ける素振りも無く、鋭い爪は難なく瘴気の獣の頭部を直撃した。だが、その感覚にカタリナは大きく目を見開く。
(手応えが…無い!)
振り抜いた腕の先で、頭と思われた部分は一度霧散したかと思うと、再び寄り集まり元の姿を形成したのだ。驚きを見せながらも、カタリナは『それならば』と他の部分にも腕を振り下ろす。だが結果は同じだ。どこを切り裂こうとも貫こうとも、手応えは無く、そして幾ら散らしても再び元の姿へと戻ってしまう。
動揺するカタリナ。すると、瘴気の獣は勝ち誇ったかのように身体を小刻みに揺すった。それはまるで、相手を小馬鹿にした笑いのようだ。そして頭部を本当の肉食の獣のように変化させ、長く伸びた口を大きく開くと、その中にはボウボウと燃え盛る青黒い炎が見えた。
(ヤバい!?)
直感で危険を判断したカタリナは、それと同時にバッと飛び退き炎の壁を飛び出した。
火傷一つ無く姿を現わしたカタリナの様子に、タイロンとメデリナは驚くばかりで、口を半開きにして声も無い。だがそんな視線の先で、赤い炎の壁の中からカタリナ目掛けて青黒い炎が激しく噴き出した事で、彼等の驚きは最高潮に達し、ペタリと地面に腰を抜かしてしまった。
「カタリナ! どうだ!?」
「お嬢、ありゃ駄目だ! 身体が無い! アタイの攻撃じゃダメージにならないぞ! お嬢の火も動きを鈍らせる程度しか効果が無いみたいだ!」
言った直後。赤く燃える炎の壁の中から、火炎放射器のような勢いで吹き出し続ける青黒い炎は櫻へ向けて方向を変え、打ち消し合うように赤い炎の勢いを殺す。流石に万全とは行かないまでも、神の発した主精霊の炎だ。完全に打ち消す事は出来ない。それでもその一角に穴を開ける事に成功すると、瘴気の獣は即座にその中から飛び出して来た。
そして櫻に視線を向ける。眼球は無い。だが目と思われる黒く落ち窪んだ眼窩が、鋭い気配を持って櫻にそれを感じさせた。すると次の瞬間、瘴気の獣の周囲に無数の氷柱のような物が出現し、櫻に向けて勢い良く飛び掛かった。余りの早さに櫻は反応出来ず、それらは無慈悲にもその小さな身体にドスドスと音を立てて突き刺さる。
理性を失ったように見えながらも、いや、それ故に慈悲の心が無いのか、その命中箇所は頭部を中心として心臓周辺も重点的に狙い、そして手足にも突き刺さったそれらはパキパキと音を立てて櫻の身体を凍らせて行く。
「サクラ様!」「お嬢!?」「ご主人様!」
アスティア達の声が部屋の中に響き渡り、今まで燃え盛っていた櫻の炎が消えると同時に、全身が凍結した櫻の身体はグラリと傾き、そのまま金属の床に叩き付けられ、『ガシャン』と音を立てて砕け散ってしまった。
「「うあああぁぁぁ!?」」
余りに突然の事に理解の追い付かなかったタイロン達の驚きと恐怖の悲鳴が響く。だが、その声を打ち消すように唐突に、破片となった櫻の周囲に蒼白い炎が点り、凍結していたその身を包み込んだ。
そして炎の中からカタリナに向けて何かが飛来する。大人の握り拳程度の破片のようなそれを彼女は片手で受け止め、一瞬視線を向けると躊躇い無く口の中に放り込み、三度程噛み締め飲み込んだ。かと思うと、変態した身体が更に強靭さを増したかのようにパンプアップしたではないか。
その様子を見てアスティアも腰に下げていた水筒を一気に呷ると、その背に4枚の黒く巨大な蝙蝠のような羽根を出現させた。
何が起きているのか最早理解出来ず、驚きの声すら出ないタイロンとメデリナ。そしてその二人を更に驚かせたのは、蒼白い炎の中から歩み出る少女、櫻の姿であった。
衣服は纏っておらず、産まれたままの姿の少女。だが粉々になった筈のその身体は氷柱の刺さった痕すら見当たらず、何より、神々しさすら感じる程に美しく、タイロン達は息を飲んでその姿に目を奪われた。
「アスティア! カタリナ! 一気に畳み掛けるよ! 命はそこの二人を部屋の外に! タイロン! お前さんは出たらその壁を塞げ!」
「うん!」「おぉ!」「はい!」
櫻の声と共に皆一斉に動き出す。カタリナは再び光を纏い、両手の爪先から炎を発して一気に瘴気の獣に距離を詰めると、両腕を激しく振り乱しその身を切り裂く。
アスティアが飛び散った破片を羽根で巻き起こした鎌鼬で更に細かく切り刻むと、櫻が光の浄化を含んだ風を巻き起こしそれらを姿すら無く霧散させる。
ほんの僅かの間の出来事。瘴気の獣は跡形も無く姿を消した。
「や…やったのか…?」
命によって部屋の外へ運び出されていたタイロンは、その圧倒的な様子にポカンとした顔で呟いた。だが、現実はそう簡単では無かった。
周囲に散った瘴気は再び寄り集まり、元の瘴気の獣の姿へと復元すると、再び嘲笑うように小刻みに身体を震わせたのだ。
「くそっ! 物理的な攻撃が何も効かないのか!?」
再び飛び掛かるカタリナ。すると瘴気の獣は再び唸り声を上げ、部屋の外から瘴気を呼び寄せ始め、それと同時に部屋全体に暴風が渦巻き始めた。
しかもそれは単なる風では無い。櫻達の身体にビシビシと衝撃を与えると共に、傷口が凍結して行く。荒れ狂う風の中に氷の礫が無数に含まれ、それらが激しく櫻達の身体に打ち付けているのだ。
「こ、これはさっきのヤツか…!?」
先程自身の身体が凍結した状況を思い出すと、櫻は苦々しく表情を歪め、
「そう何度も同じ手を食うかい!」
言い放つと共に、炎の暴風を巻き起こした。
部屋の中で炎と氷の暴風が激しくぶつかり合い、カタリナとアスティアもその中には居られない程だ。二人は一旦部屋の外へ退避し、成り行きを見守るしかなかった。
「くそっ、見てる事しか出来ないのかっ!?」
壁の陰から覗き込むように状況を窺うカタリナがもどかしそうに言う。その時、メデリナの頭に一つの疑問が浮かんだ。
「ねぇタイロン。アイツは何故、今までこんな場所に閉じ込められてたんだと思う…?」
その言葉に、その場に居た皆が思わず視線を向けた。
「何故って…。」
「おかしいだろ? あんな力を持ってたヤツが、あんな箱に大人しく封じられてたなんてさ。」
そんなメデリナの言葉にハッとしたのは命だ。彼女は部屋の内部に手を差し込み、床、壁と、その手触りを確認する。
「おい馬鹿! 何やってんだ!」
内部の余波で腕を覆っていた衣服が一瞬の内に姿を消す、そんな中に平然と腕を伸ばした命に、メデリナは信じられないという風に声を荒げる。
だが命は無傷の腕を見せ付けるようにしながら彼に視線を向けると、
「あの魔物、『土』の属性の魔法を一度も使っていませんよね? もしや、その属性が苦手…弱点なのでは?」
そう言ってタイロンに視線を移した。
「そ、そうか! 物理的に倒す事が出来ないから、苦手な属性で身動きを取れなくして人の目に付かない場所に封じていた…!? なら、オレの魔法が通じるかも、って事か!?」
「でも、あんな強力な魔法を操るヤツが、たかが金属の箱に閉じ込められるなんておかしくないか?」
希望を表情に浮かべたタイロンにカタリナの疑問が水を差す。
「ねぇ! それよりサクラ様に手を貸す事は出来ないの!? このままじゃ精気切れしちゃうよ!」
部屋の中では未だに双方の力がぶつかり合い、その激しさに稲光が走り金属の部屋には高電圧が流れ、とても人が入れる状態では無い。そしてアスティアの不安の通り、互いに一歩も引かぬ、動けぬ二人の間に在って、櫻の体内の精気は確実に減少を続けているのに対し、瘴気の獣は外部から瘴気を呼び寄せている。
櫻の起こす炎の暴風によってその大半が消滅させられていても、その僅かの隙を抜けた瘴気を吸収し、エネルギーを得続けていた。
「お嬢の攻撃も、アレには足止め程度しか意味が無ぇ…。何とかアイツの瘴気の吸収を止める事が出来ないとマズいな。オマエら、アイツから瘴気を奪えないのか?」
「無茶言うなよ! さっきも見ただろ!? オレ達じゃ精々引っ張って吸収を遅らせる程度しか出来ねぇよ!」
「せめて、アイツが『音』を出すのを止める事が出来さえすれば…!」
メデリナが苦々しく言い放つ。その言葉通り、瘴気の獣は常に瘴気を呼び寄せる『音』を発し続け、その音は戦いの轟音の中でも瘴気には聞こえているのか呼び寄せられ続けているのだ。
魔法を行使しながらも瘴気を操る手腕に、タイロン達は己の未熟を悔やむばかり。だが、そこで命が立ち上がった。
「ならば、アレの気を散らせる事が出来れば、貴方方で瘴気を奪う事が出来るのですね?」
そう言う彼女に、タイロンとメデリナは『突然何を言い出すのか』という視線を向ける。その直後、命は何の迷いも無く部屋の中へ足を踏み入れたのだった。




