謎の箱
櫻の意識が眠りから覚める。
瞼は閉じたまま、頬に感じる熱と粘膜の感触に意識が集中する。耳には『ちゅぅちゅぅ』と頬に吸い付く音が皮膚伝いに聞こえ、その正体に気付くのに僅かの時間すら不要であった。
(全く、この娘は…。)
呆れながらも『ふふっ』と微笑む。その感触の正体は、頬に吸い付いたアスティアの口腔内で蠢く舌だ。
テント生活中は櫻とのスキンシップがなかなか出来ない為か、ストレスが溜まると無意識にこのような行動を起こすらしい。
軽く首を動かすと、『ぽんっ』と音を立ててアスティアの唇が頬から外れ、今まで熱かったその部分が空気に触れると寒さすら感じる程。少し名残惜しくも感じながら身体をアスティアに向けると、まだ半分眠りの中に居るように薄っすら瞼を開いたアスティアの金色の瞳を優しく見つめ、半開きの唇に優しく口付けをする。
その感触に、アスティアの寝惚け眼がカッと開いた。
「おはよう。」
スッと唇を離し、優しい微笑みと共に朝の挨拶。するとアスティアは、櫻の身体をガバリと両腕で力強く抱き寄せ、唇を重ねると口腔内にヌルリと舌を進入させた。
即座に絡み合う互いの粘膜。余りに突然の事に抵抗する事も出来ず、更には久しぶりな事もあって、ヴァンパイアの唾液が持つ特性のその衝撃に櫻の瞼がトロンと蕩けると、アスティアはまるで獲物を捕らえ勝ち誇った獣のように悠々とその感触を味わった。
櫻の口腔内を弄ぶアスティアの熱い舌先。その感触に、櫻は鼻から熱く荒い息を漏らす事しか出来ない。だが、何とか意識を保つと、アスティアの背中に回した手で『ポンポン』と叩いて見せた。
すると、アスティアの舌の動きがピタリと止まった。そして淫靡な輝きを放っていた瞳は途端に焦りの色を見せ始め、唇が離れる。ツゥーと透明な糸が姿を現わし、それがプツンと切れると、漸く目が覚めたのだろう。櫻を抱き締めていた腕を緩め、ゆっくりと身体を離した。
「サ、サクラ様…ボク…。」
またやってしまった。アスティアの表情がそう物語る。櫻はそんな彼女に『ふふっ』と微笑むと、可愛らしい鼻先に『ちゅっ』と口付けをし、
「目が覚めたようだね。さぁ、起きようか。」
優しい声を掛けた。
「う、うん。おはよう。」
少しだけ気まずそうにしながらもアスティアもニコリと微笑みを浮かべ、互いに肩に手を添えて身を起こす。そしてそのまま櫻は衣服の肩口をずらし首筋を顕わにすると、アスティアを抱き寄せた。
アスティアはその魅惑の首筋に瞳を輝かせるとハプッと唇を被せ、その中でペロペロと肌を味わう。その様子はもう普段の彼女だ。
(気持ちの切り替えが早いねぇ。)
先程のしおらしい態度との落差に小さな呆れ笑いが漏れた。櫻とて、あの行為が嫌な訳では無い。ただ単に、時と場所を選んで欲しいだけだ。それ故に、アスティアだけを強く咎める事も出来ず、彼女が反省をしているのであれば何かを言う必要も無い。今はただ、美味しそうに自身の血を味わう彼女の髪を優しく撫でながら、ヒヤリとした温もりを感じていたいだけだ。
チュウチュウと血液を吸い上げる音を耳元に響かせながら、櫻はこれからの事を考える。
それはタイロンとメデリナの、そしてこの町の事。
考えてみれば櫻がこれまで出会った『魔法使い』達は、皆何かしら敵対する事になり、その人となりを詳しく知る事は出来なかった。更に不幸だったのは、彼等が時には『特殊魔獣』よりも強大な脅威であった事。その為に、櫻の中に『魔法使いは危険な存在』という意識が根付いてしまっていた事だ。
だが、今身近に居る二人の魔法使いは、夢を持った普通の『人』だ。悩み、苦しみ、足掻く、その在り様は、魔法に関わらない一般の人達と何も変わらない。ならば、櫻は『人類の神』として、これから先、彼等『魔法使い』をどのように扱うべきなのかを見極めなければならない。
場合によっては『魔法』を危険な技術と見做し、取り締まる『法』を新たに作る必要も出て来るだろう。
(出来るなら、そんな事はしたくないもんだねぇ。)
テントの天井に視線を向けながらそんな事を考えていると、何時の間にか傷口を舐め終えたアスティアが櫻の顔を覗き込んでいた。
「サクラ様、どうかしたの?」
万華鏡のようにキラキラとした金色の瞳が、不思議そうに見つめる。
「ふふっ、何でも無いよ。さぁ、次はあたしの朝食だ。外に出るとしよう。」
アスティアの頭にポンと手を添え立ち上がると、二人はテントから抜け出し朝日を浴びた。
その日から、櫻によるタイロン達の観察が始まった。
とは言え、あからさまにジロジロと観察をしていたのでは怪しまれるし、何より不躾だ。彼等の生活の改善を手伝いながら、その人となり、そして魔法の使い方等を見極める事とした。
先ずは廃墟に点在する砂に埋まった井戸を掘り起こし、再び砂に埋まらないようにタイロン達が魔法で砂除けの壁と天井を作る。煉瓦のような継ぎ目は無い、見事な一枚壁だ。小さな小屋程度のサイズに収めたそれに、上開きの雨戸のようにした窓を付けて空気の流れも確保する。
次に町の中に溜まった砂を、メインストリートを中心に取り除く。魔法によって砂を直接地面の舗装に利用したり、風を起こして町の外まで吹き飛ばしたりと、これもまた魔法が大活躍だ。
町に吹き込んで来る砂の量を減らし、獣や魔物が入り込む事を防ぐ為にも、町の外周に防壁の構築。当然タイロンの得意な土の魔法を活用。流石にこれは一朝一夕とは行かず、その完成は当分先になりそうだ。恐らく櫻達が滞在している期間での完成は無いだろう。
因みに、魔法に利用する瘴気は町から離れた辺りをウロウロしていれば案外見つかるらしい。町の外が人類にとって如何に危険であるかを再認識すると共に、魔法使いには有り難い環境という事で、櫻は苦笑いを浮かべるしかない。
そんな作業の合間には、皆で揃って『大穴』と命名した件の穴に遠征だ。櫻がダンジョンでは無いと判断したものの、それを証明する事は出来ないうえ、そうでなくとも瘴気の発生や野良魔物が入り込んでいる可能性は否定出来ない為、安全を期しての団体行動だ。当然、櫻にとってはタイロン達の観察としての側面も有る。
命はメデリナと植生の観察をすると共にその知識を彼に教え、カタリナとタイロンは周囲を警戒しながら、この大穴の安全な活用方法の模索。櫻とアスティアは食べられる物を採取と、役割分担も完璧だ。
そんな事を続け、既に20日程も経過していた。
その日も皆で大穴へやって来ており、櫻とアスティアは壁際に出来上がった茂みの中で『ショル』を始めとした食べられる植物をプチプチと採取している時だ。しゃがんで採取していた事もあり、少し腰を伸ばす為に立ち上がったアスティアは、軽い立ち眩みのように少しだけバランスを崩して岩壁に『とっ』と手を支いた。その時だ。彼女の耳がほんの僅か、耳鳴りにも似た反響音のようなものを捉えた。
それは本当に僅かなものであり、彼女自身も気のせいかと思う程。だが、そんな様子の変化に櫻は気付く。
「どうかしたのかい?」
しゃがんだままで見上げる櫻の声に、アスティアはハッとして視線を下げると、
「う、うん。何かこの壁…。」
と、手を支いた壁をポンポンと掌で数度叩いて見せた。
櫻は手にしていた採取物を脇に置いた籠の中に入れると立ち上がり、パンパンとスカートに付いた汚れを払ってからアスティアの傍へ歩み寄り、彼女が指し示した場所に手を添える。
その感触は周囲の岩壁と同じ、何の変哲も無いものであった。だが、改めて周囲の壁面と見比べてみると、その部分は形状に違和感が有った。他の部分と比べ、妙に切り立っているように見えるのだ。他の壁面は天井からなだらかな曲線を描いているのに対し、この壁だけが垂直に近い。当然、自然にそう出来上がる事も有るだろうが、アスティアが気にした事でその違和感は強まった。
その岩壁にピタリと耳を添えて数度、パンパンと掌で叩いてみると、確かにほんの僅かだが音に違和感が有った。そう厚くも無く、この岩壁の向こうに空洞が存在する、そんな音の伝わり方なのだ。
すると、そんな二人の様子に気付いた周囲の皆も集まって来た。
「お嬢、どうかしたのか?」
カタリナの声に振り向くと、今感じた違和感を皆に伝える。すると、
「ふぅん? なら、ちょいと掘ってみるか?」
そう言い出したのはタイロンだ。
言うが早いか、タイロンは櫻を軽く手で避けるようにすると、今まで櫻が手を付いていた壁にソッと掌を添えた。そして、
「穴!」
一言声を張り上げると、その声は洞窟の中に響き渡り、それと同時に『ボッ!』と音を立てて掌を中心にした、直径1m程の真円の穴が出来上がった。そしてその穴を覗き込む一同は、意外なものを見た。
差し込まれたランタンの灯りに照らし出され浮かび上がったそれは、テニスコート2面分程の広さの正方形の空洞。壁面、天井、地面、全てが鉄らしき金属で出来ており、更に皆の視線を釘付けにしたのは、その中央に置かれた、これもまた正方形の謎の金属製の箱だ。
「な…何だいこりゃぁ…?」
今まで滞っていた空気が流れ出し櫻達の髪を揺らす中、皆はその中の光景にゴクリと唾を飲み込む。ただの部屋では無い。余りにこの世界に似つかわしくない、金属で出来たその部屋は、錆の一つも見当たらないが、それでもドス黒い染みが彼方此方に飛び散ったように点在しており、そして何より、人骨と思われる物体が散乱していたのだ。それは恐らく数人分。その中には『人』の形を残したまま床に転がっているものも有り、この部屋に閉じ込められ亡くなったのだろう事が見て取れた。
(まるで『何か』が封印されていたようだ。そしてそれは…。)
当然のように、皆の視線は中央に鎮座する正方形に集まる。しかしそれは、目で見ただけでは本当に単なる金属製の『立方体』にしか見えない。周囲を警戒しながら部屋の中へ足を踏み入れ近付いてみても、その感想は同じだ。大きさは一辺が2m程度の正立方体で、まるで金属の塊から切り出したかのように継ぎ目が見当たらない。
「こりゃぁ…魔法で作ったモンか?」
タイロンはマジマジと顔を近付け、ペタリと手を添える。その質感はヒヤリとした、純然たる金属だ。だが、どうにも自然に存在するどの金属とも違う質感が手に返って来る。まるで凹凸の無い滑らかなソレは、軽く触れるだけで肌が吸い付く程にきめ細かく、どんなに腕の立つ職人であろうとも人の手だけで造り上げられるものでは決してない。
だが魔法で出来た物には瘴気の痕跡が残る。それはほんの僅かなもので害になるようなものでは無いが、それでも魔法使いであれば気付いてしまうようなものなのだ。しかしこの立方体にはそれが無い。故に、恐らく精霊術で生み出されたものなのだろうと想像が付くと、タイロンは少し悔しそうに眉間に皺を寄せた。
今度は拳の裏で『コンコン』と軽く叩いてみる。すると音が反響する事に気付いた。どうやら内部は空洞になっているらしい。
「何だこりゃ? この部屋と同じように、この中にまた何か有るのか?」
「この部屋の壁と同じ材質なんだろう? だったらタイロンの魔法で穴を開けてみれば良いじゃないか。」
興味深げに観察するタイロンにメデリナが嗾けるように言うと、
「いやいや、何か危険な物を閉じ込めてるのかもしれないだろ。」
とカタリナの反対の声。
「確かに、これ程厳重に隠された部屋だ。余程他人に見られたくない物か、外に出してはいけない物…って可能性が高いね。」
付け加える櫻の言葉に、メデリナも『むむむ』と不満ながらも確かにという風に口をへの字にする。するとタイロンが一つの案を提示した。
「だったら、小さい穴を開けて中を覗いてみれば良いじゃないか。こんなデカい箱だ、少しくらいの穴なら何が入ってても出て来る事は無いだろ?」
手の親指と人差し指を合わせて輪を作って見せると、皆は顔を見合わせ、『それなら良いか』という雰囲気で頷いた。
その反応に気を良くしたタイロンは、ニッと笑顔を浮かべると早速箱に対して掌を添え、『穴』のイメージを浮かべる。懐に入れた『瘴気』を『事象』にしてイメージをぶつけると、掌の先に在った金属の壁の一部に『ボコッ』と穴が開いた。
「へへっ、ざっとこんなモンよ。」
自慢気に皆に振り向き胸を張るタイロン。皆も彼の、そうするだけの実力に『おぉ~』と感嘆の声を上げ、小さな拍手が『パチパチ』と部屋の中に響いた。
だがその時、メデリナは異様な存在に気付き、驚くように目を見開いた。
それは、タイロンの開けた直径10cm程度の穴から這い出るようにゆっくりと姿を現わした『手』であった。しかもただの手では無い。瘴気だ。もやもやと黒い霧のように不定形のそれが、手の形を取って穴から這い出ようとしていたのだ。




