009体目 恩返しは出来ません
昨日、彼は初めてオイルを交換しました。
少しだけ身体が楽になったそうです。
それでも故障が直ったわけではありません。
私たちは、その翌日も、さらにその翌日も、夜になると彼のところへ通いました。
充電が必要か確認し、身体の状態を見る。
そして、少し一緒にいる。
そんな日が続いたある夜。
彼が初めて、自分から浦姐ぇに質問しました。
「どうして、私にこんなに良くしてくれるのですか?」
翌日の夜。
夕食の片付けを終えると、私たちはまた彼のいる場所へ向かった。
浦姐ぇと旦那ちゃんは昼間は仕事をしている。
朝は二人とも出勤の準備があり、私も朝食や家事で忙しい。
そのため、彼のところへ行くのは夜になった。
車には昨日と同じように、ポータブル発電装置を積んでいる。
「昨日、十分に充電したはずですが」
私が言うと、浦姐ぇは荷物を確認しながら答えた。
「今日どれくらい減ってるか分かんねぇだろ?」
「確かにそうですが」
「必要なきゃ使わなきゃいいだけだし(笑)」
旦那ちゃんが発電装置を車に積んだ。
「現地で必要になってから取りに戻る方が大変ですからね」
「そういうこと」
私たちは車に乗った。
昨日の場所へ着く。
彼は今日もいた。
私たちの車に気づくと、こちらを見る。
昨日までのように身体を強張らせることはなかった。
「こんばんは」
浦姐ぇが声をかける。
「……こんばんは」
私も彼に近づいた。
「こんばんは」
「こんばんは。コメたろうさん」
また名前を呼ばれた。
昨日が初めてだった。
二度目でも、少し不思議な感じがする。
「昨日、オイルを交換してから身体の状態はどうですか?」
彼は自分の左腕をゆっくり動かした。
次に右脚を動かす。
「……少し、楽になりました」
「そうですか」
故障そのものが直ったわけではない。
左腕にも右脚にも異常は残っている。
それでも、少し楽になった。
私は安心した。
浦姐ぇも、
「そりゃ良かった(笑)」
と言った。
「充電残量を確認してもいいですか?」
「はい」
確認する。
「六十八パーセントです」
浦姐ぇが車を見る。
「じゃあ今日は充電しなくていいな」
「はい。現時点では必要ありません」
「持ってきただけだったな(笑)」
旦那ちゃんが言った。
「使わずに済むなら、それが一番ですよ」
私はうなずいた。
必要以上に充電を繰り返すことは、バッテリーの劣化を早める原因になる。
今日は充電しない。
それから簡単に状態を確認した。
昨日交換したオイルに問題はない。
漏れもない。
大きな変化もない。
左腕と右脚の故障は、やはりきちんとした設備で診てもらう必要がある。
背部外装も同じだ。
しかし、彼はまだ私たちの家へ行こうとはしない。
浦姐ぇも、それについては何も言わなかった。
その日はしばらく彼のそばにいた。
特別な話はしなかった。
状態を確認して、少し話をして、それから帰る。
ただ、それだけだった。
そして、さらに翌日の夜。
夕食の片付けを終える。
旦那ちゃんが車の鍵を持つ。
浦姐ぇが立ち上がる。
私も玄関へ向かう。
誰も、
「今日は行く?」
とは聞かなかった。
行くことが、いつの間にか当たり前になっていた。
彼は今日も同じ場所にいた。
私たちを見ると、
「こんばんは」
と、彼の方から言った。
「こんばんは」
浦姐ぇが答える。
私も挨拶をする。
「こんばんは」
「こんばんは。コメたろうさん」
昨日と同じように状態を確認する。
大きな変化はない。
充電もまだ必要ない。
それだけ確認すると、浦姐ぇは彼から少し離れたところに座った。
旦那ちゃんも座る。
私もその近くに座った。
彼も、少し離れた場所に座る。
最初の日より、距離は近い。
誰も無理に話しかけない。
彼も、私たちから逃げることはなくなった。
しばらくして、彼が浦姐ぇを見た。
「あの……」
「ん?」
浦姐ぇが振り向く。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「いいよ」
彼は少し迷っていた。
そして、初めて自分から浦姐ぇに質問した。
「どうして、私にこんなに良くしてくれるのですか?」
浦姐ぇは彼を見る。
「コメちゃんが心配してるから」
私は浦姐ぇを見た。
彼も私を見る。
「……コメたろうさんが?」
「うん」
「私を?」
「そう」
彼の視線が私へ向いた。
私は少し考えた。
彼の状態が気になる。
充電は足りているか。
故障は悪化していないか。
昨日より身体は楽になっただろうか。
今日も同じ場所にいるだろうか。
毎日、それを考えている。
「はい」
私は彼を見る。
「心配しています」
彼は何も言わなかった。
しばらく私を見ていた。
そして、視線を下げた。
「あの……」
「はい」
「申し訳ないので、もう良いです……」
私は意味が分からなかった。
「何がですか?」
彼は浦姐ぇと旦那ちゃんを見る。
「毎日、ここまで来てもらっています」
「うん」
「充電もしてもらいました」
「うん」
「オイルも交換してもらいました」
「そうだな」
「毎日通うのは、大変ではありませんか?」
浦姐ぇは少し考えた。
「キミをここに放っておいて、家で気を揉んで心配してるよりよっぽどいい(笑)」
彼が顔を上げた。
「でも……」
「ん?」
「ここまでしてもらっても、私は恩返しが出来ません」
浦姐ぇが首をかしげた。
「恩返し?」
「はい」
「なんで?」
今度は彼が戸惑った。
「私は、何も持っていません」
「うん」
「あなたたちに返せるものがありません」
「別に返してもらうためにやってねぇよ?」
「ですが……」
彼は言葉を探しているようだった。
「何かをしてもらったら、返さなければならないのではないのですか?」
浦姐ぇは少し黙った。
「じゃあさ」
「はい」
「キミがいつか、誰かを心配することがあったら」
彼が浦姐ぇを見る。
「その時、その人にしてやれば?」
「……その人に?」
「うん」
「あなたに返すのではなく?」
「私じゃなくたっていいだろ(笑)」
彼は黙った。
浦姐ぇは続けた。
「困ってる奴がいて、キミに出来ることがあったら、その時やってやればいいじゃん」
「それが、恩返しになるのですか?」
「知らん(笑)」
私は浦姐ぇを見る。
彼も浦姐ぇを見ている。
「でも、恩返しって絶対に同じ相手に返さなきゃいけないもんでもないだろ?」
彼は考えていた。
長い時間、何も言わなかった。
やがて、小さく聞いた。
「では……」
「ん?」
「今は、何も返さなくてもいいのですか?」
「いいよ」
浦姐ぇはあっさり答えた。
「キミ、今それどころじゃないだろ?」
彼は自分の左腕を見る。
傷の残る身体を見る。
そして、
「……はい」
と答えた。
その日の帰り際。
浦姐ぇがいつものように聞いた。
「また明日来てもいい?」
彼は少しだけ考えた。
「……はい」
私たちは車へ向かった。
すると、後ろから声がした。
「コメたろうさん」
私は振り返る。
「はい」
彼は少し迷ってから言った。
「心配してくれて、ありがとうございます」
私は答えに困った。
心配することに礼を言われたのは初めてだった。
「……どういたしまして」
そう答えると、彼は小さく頭を下げた。
車に乗る。
旦那ちゃんが運転席。
浦姐ぇが助手席。
私は後部座席。
車が走り出してから、浦姐ぇが言った。
「良かったな、コメちゃん」
「何がですか?」
「ありがとうって言ってもらえて」
「はい」
少し考える。
「ですが、私は何もしていません」
浦姐ぇが振り返った。
「毎晩来てんじゃん」
「それは、心配だからです」
「だから、それでいいんだよ(笑)」
私は窓の外を見る。
名前のない彼の姿は、もう見えない。
彼は、恩返しが出来ないと言った。
私は、彼に何かを返してもらいたいとは思っていない。
ただ明日の夜も、彼がそこにいるか気になる。
身体の状態も気になる。
少し楽になったと言っていた。
明日も、そうであってほしいと思う。
なるほど。
これが、
心配するということらしい。
彼は、どうして私たちが毎晩ここへ来るのかを尋ねました。
浦姐ぇの答えは、
「コメちゃんが心配してるから」
でした。
私は彼を心配しています。
だから毎晩ここへ来る。
それだけのことでした。
けれど彼は、私たちに何も返せないことを気にしていました。
浦姐ぇは言いました。
いつか誰かを心配することがあったら、その時、その人にしてあげればいい。
恩返しは、同じ相手に返さなくてもいいようです。
帰り際。
彼は私に、
「心配してくれて、ありがとうございます」
と言いました。
明日の夜も、私たちは彼のところへ行きます。
何かを返してもらうためではありません。
ただ、心配だから。
私は少しずつ、その言葉の意味が分かってきた気がします。




