018体目 ぼくの名前
「ぼくに、名前をつけてほしいです」
名無しクンからのお願いに、浦姐ぇは戸惑います。
名前をつける。
ただそれだけのことが、どうしても簡単にはできません。
名前をつければ、呼ぶようになる。
呼べば、もっと情が湧く。
いつか本来いるべき場所へ帰すことになるかもしれない子に、名前をつけてもいいのだろうか。
浦姐ぇと旦那ちゃんが出した答えは――。
そして、名無しクンは今日、名無しクンではなくなります。
「浦姐ぇ」
「ん?」
名無しクンが、少し緊張した顔で立っていた。
隣にはコメがいる。
「お願いがあります」
「何?」
名無しクンは一度コメを見た。
コメが小さく頷く。
それを見て、名無しクンは浦姐ぇに向き直った。
「ぼくに、名前をつけてほしいです」
浦姐ぇの動きが止まった。
「……名前?」
「はい」
名無しクンは期待に満ちた目で、浦姐ぇを見ている。
「コメさんには、コメたろうっていう名前があります」
「うん」
「浦姐ぇとうららが考えてくれたって聞きました」
「……うん」
「ぼくも、名前がほしいです」
浦姐ぇは、すぐには答えられなかった。
名前。
たった数文字のものなのに。
浦姐ぇにとって、それはそんなに簡単なものではなかった。
捨て犬でも、捨て猫でも。
名前をつけてしまえば、情が湧く。
ただの犬ではなくなる。
ただの猫ではなくなる。
呼べば振り向く、その子になる。
名無しクンも同じだった。
この子がどこから来たのか。
なぜ捨てられていたのか。
本当の持ち主はいるのか。
まだ何も分かっていない。
いずれ、本来いるべき場所へ返すことになるかもしれない。
だから、名無しクン。
名前のないアンドロイド。
そう呼んでいるうちは、どこかで一線を引いていられる。
――はずだった。
浦姐ぇは、名無しクンを見る。
毎日話して。
一緒にご飯を食べて。
コメとくだらない話をして。
知らないことがあれば聞きに来て。
嬉しければ笑う。
もう、とっくに。
ただのアンドロイドではなくなっていた。
浦姐ぇは、旦那ちゃんを見た。
旦那ちゃんも浦姐ぇを見た。
言葉はなかった。
ほんの数秒。
旦那ちゃんが、小さく頷いた。
浦姐ぇも、小さく頷く。
覚悟を決めた。
「分かった」
名無しクンの顔が明るくなる。
「名前、考えようか」
「はい!」
名無しクンが満面の笑みを浮かべた。
「それでですね!」
急に勢いが増した。
「何?」
「今日、すごいことが分かったんです!」
「すごいこと?」
「ぼくのシリアルナンバー、コメさんのひとつ後だったんです!」
「え?」
浦姐ぇはコメを見る。
コメは黙っている。
「ひとつ後って、連番ってこと?」
「はい!」
名無しクンは嬉しそうに頷いた。
「コメさんに教えてもらいました!」
「へえ……」
「それで、ぼく、出荷される時のことも思い出したんです」
「出荷?」
「はい。みんなで並んで、どこに行くのか話してました」
名無しクンは楽しそうに続ける。
「ぼく、お金持ちの家に行くって言ったら、みんなに羨ましがられました」
「お金持ちの家?」
「はい!」
浦姐ぇは少しだけ眉を上げたが、名無しクンは気にせず話し続けた。
「コメさんとは前後の並びだったみたいです。だから、あの話も聞こえてたんじゃないですかって聞いたんですけど」
「コメ、覚えてたの?」
コメを見る。
「さぁな」
「ふーん」
浦姐ぇはコメを見た。
コメは目を逸らした。
怪しい。
だが、今はそれよりも名前だった。
「コメのひとつ後、か……」
浦姐ぇが呟く。
「はい!」
名無しクンは、なぜかそこをとても気に入っているらしい。
「コメさんの次が、ぼくです」
「コメたろうの次……」
浦姐ぇは腕を組んだ。
コメたろう。
次。
ひとつ後。
「……ムギ」
「え?」
「コメの次なら、ムギ」
名無しクンが目を丸くする。
コメも浦姐ぇを見る。
「コメたろうの次だから……」
浦姐ぇは、名無しクンを見る。
「ムギじろう」
一瞬、静かになった。
「……ムギじろう」
名無しクンが呟く。
自分の口で、ゆっくり確かめるように。
「ムギじろう」
もう一度。
そして。
ぱっと顔を輝かせた。
「ぼく、ムギじろうですか?」
「どう?」
名無しクンは何度も頷いた。
「はい! ムギじろうがいいです!」
その横で、コメは頭を抱えた。
――ダサい。
コメたろう。
ムギじろう。
――俺くらいにダサい。
浦姐ぇの命名センスは、相変わらずだった。
名無しクン――ムギじろうは、そんなコメの心の声など知るはずもない。
嬉しそうに自分の名前を繰り返している。
「ムギじろう」
「ムギじろうです」
「ぼく、ムギじろうです!」
コメは、はしゃぐムギじろうを見た。
そして、ふと思う。
――待て。
コメたろうだけなら、自分一体がダサい。
だが。
ムギじろうが加わった。
――このダサさを共有する仲間ができた!
コメは頭を上げた。
そして、嬉しそうなムギじろうを見る。
――よしとしよう。
「コメさん!」
「ん?」
「ぼく、ムギじろうです!」
「おう」
コメは笑った。
「よろしくな、ムギじろう」
名前を呼ばれたムギじろうは、一瞬だけ目を丸くした。
それから。
今までで一番嬉しそうに笑った。
「はい!」
「コメさん!」
「ん?」
「ぼく、ムギじろうです!」
「おう」
コメは笑った。
「よろしくな、ムギじろう」
名前を呼ばれたムギじろうは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、今までで一番嬉しそうに笑った。
「はい!」
しばらくして、ムギじろうが自分の名前を確かめるように呟いた。
「ムギじろう……」
「気に入った?」
浦姐ぇが聞くと、ムギじろうは大きく頷いた。
「はい。とても」
そして、少し考えてから言った。
「これなら、ぼく、大丈夫です」
「何が?」
「もし、本当の所有者が見つかって、ぼくがそこへ戻ることになっても」
浦姐ぇは黙った。
「ムギじろうっていう名前があれば、ぼく、頑張れます」
「……ムギじろう」
「はい」
「そんなこと言うなよ」
「どうしてですか?」
「せっかく名前つけたのに」
浦姐ぇは、それ以上言えなかった。
名前をつけたら、情が湧く。
だから迷った。
でも、もう遅かった。
名前をつける前から、とっくに情なんて湧いていた。
ムギじろうは、嬉しそうに笑っている。
「ありがとうございます、浦姐ぇ」
名無しクンは、もういない。
この日。
この家に、ムギじろうがやってきた。
名無しクンは、ムギじろうになりました。
名前をつけたら、情が湧く。
だから浦姐ぇは迷いました。
でも、ムギじろうにとって名前は、この家にいるためのものではありませんでした。
たとえ、いつか離れることになっても。
「ムギじろう」という名前があれば頑張れる。
……そんなこと言われたら。
もう、名無しクンだった頃には戻れません。




