012体目 家の中の「また明日」
昨夜、彼は初めて自分から言いました。
「……行っても、いいですか?」
そして今夜。
名前のない彼が、初めて私たちの家へやって来ます。
車に乗る前。
彼は、今まで何日も過ごしてきた場所を振り返っていた。
「忘れ物ない?」
浦姐ぇが聞く。
「はい」
彼が持っているのは、赤いポンチョと、昨日浦姐ぇから渡された連絡先だけだった。
「じゃあ行くか」
「……はい」
私たちは車に乗った。
彼は私と一緒に後部座席に座った。
浦姐ぇが助手席。
旦那ちゃんが運転席。
いつもなら、ここから三人で家へ帰る。
今日は一人多い。
彼は窓の外を見ていた。
「どうしました?」
私が聞く。
「いえ」
「何か気になることがありますか?」
「……少し」
「何でしょう」
彼はしばらく考えてから言った。
「本当に、行ってもいいのでしょうか」
「はい」
「浦姐ぇさんは、いいと言いました」
「はい」
「旦那ちゃんさんも?」
運転席から旦那ちゃんが答えた。
「もちろんです」
彼は今度は私を見る。
「コメたろうさんも?」
「はい」
私は少し考えた。
「私は、あなたに来てほしいと思っています」
彼は黙った。
「そうですか」
それだけ言って、また窓の外を見た。
家に着いた。
旦那ちゃんが車を停める。
私たちは車を降りた。
彼も降りる。
だが、玄関の前で止まった。
浦姐ぇが鍵を開ける。
私と旦那ちゃんは家に入った。
彼は入ってこない。
「どうしました?」
私が聞く。
彼は玄関の中を見ていた。
「……ここが?」
「はい。私たちの家です」
「……」
浦姐ぇが振り返った。
「入らないの?」
彼は少し迷ってから言った。
「……入っても、いいのでしょうか」
「そのために連れてきたんだろwww」
「そうですが……」
彼は玄関を見たまま動かなかった。
浦姐ぇも、それ以上は言わなかった。
「まあ、入りたくなったら入ればいいよ」
そう言って靴を脱ぐ。
旦那ちゃんも奥へ行った。
私は玄関に残った。
「コメちゃんも入ってていいよ」
浦姐ぇが言う。
「はい」
私は彼を見る。
「私は中にいます」
「……はい」
私も家に上がった。
彼だけが玄関の外に残った。
私は少し離れたところから彼を見る。
しばらくして。
彼が一歩、玄関へ入った。
そこでまた止まる。
それから、もう一歩。
誰も何も言わなかった。
彼は自分で家の中へ入ってきた。
「……お邪魔します」
浦姐ぇが笑った。
「どうぞ(笑)」
彼は家の中を見回した。
私には見慣れた場所だ。
毎日掃除をしている。
どこに何があるのかも知っている。
だが、彼は何度も周囲を見ていた。
「ここが、コメたろうさんの家ですか」
「はい」
「浦姐ぇさんと、旦那ちゃんさんの家でもあります」
「はい」
少し考えてから私は言った。
「私の家でもあります」
彼が私を見る。
「そうなのですか?」
「はい」
私は以前なら、
「私はこの家に配属されています」
と答えていたかもしれない。
今は違う。
ここは、私の家だ。
彼はまた家の中を見回した。
「私は、何をすればいいですか?」
突然、彼が言った。
浦姐ぇが振り返る。
「何って?」
「家事です」
「家事?」
「はい」
彼は家庭用ロボットだ。
私と同じように、掃除も洗濯も料理もできる。
「何をすればよろしいでしょうか」
浦姐ぇは少し考えた。
「今日は何もしなくていいよ」
彼の動きが止まった。
「……何もしない?」
「うん」
「ですが、私は家庭用ロボットです」
「知ってる」
「家事をするために作られています」
「それも知ってる」
「では……」
「キミ、壊れてるじゃん」
彼は黙った。
「まず身体の方どうにかしようよ」
「ですが」
「家事はコメちゃんがやるから」
私はうなずいた。
「私が行います」
「……」
「私の仕事を取らないでください」
彼が私を見る。
浦姐ぇが吹き出した。
「そこ張り合うなよwww」
「張り合ってはいません」
「はいはい(笑)」
彼はまだ戸惑っているようだった。
「では、私は何を?」
「だから今日は何もしなくていいって」
「……」
どうやら彼には、
何もしなくていい、
という指示の方が難しいらしい。
浦姐ぇが彼の身体を見る。
「とりあえず風呂……」
私が止める。
「現在の外装状態では推奨できません」
「あ、そうか。背中割れてんだ」
「内部へ水分が侵入する可能性があります」
「じゃあ身体拭くか」
浦姐ぇが私を見る。
「コメちゃん、手伝ってやって」
「分かりました」
私は整備用品を用意した。
彼の身体には、まだかなり汚れが残っている。
屋外に何日もいた。
傷の隙間にも汚れが入り込んでいる。
「身体に触れてもいいですか?」
私は聞いた。
彼は少し驚いたように私を見た。
「……はい」
「痛みや異常を感じたら言ってください」
「分かりました」
まず、傷のない部分から汚れを落とした。
左腕。
右脚。
背中。
故障している部分は慎重に確認する。
浦姐ぇも近くで見ていた。
「結構汚れてんな」
「屋外にいましたから」
「そりゃそうか」
汚れを落としていくと、元の外装が少しずつ見えてくる。
私と同じ型。
同じ形。
だが、傷の数は私よりずっと多い。
「痛くありませんか?」
「大丈夫です」
「ここは?」
「少し違和感があります」
「分かりました。では避けます」
作業を続ける。
途中で彼が言った。
「コメたろうさん」
「はい」
「どうして、毎回聞くのですか?」
「何をでしょう」
「触ってもいいか、と」
私は手を止めた。
以前にも、オイル交換の時に同じことを聞かれた。
その時、私は答えた。
「あなたの身体だからです」
彼は黙った。
「何かおかしいでしょうか」
「いいえ」
少しして、
「……ありがとうございます」
と言った。
身体を拭き終える。
まだ故障は残っている。
だが、汚れはかなり落ちた。
浦姐ぇが彼を見る。
「ちょっと綺麗になったな(笑)」
「ありがとうございます」
「礼はコメちゃんに言って」
彼は私を見る。
「ありがとうございます。コメたろうさん」
「どういたしまして」
その後、私は夕食の片付けの続きをした。
彼は何度か、
「手伝いましょうか」
と言った。
そのたびに、
「大丈夫です」
と答えた。
三回目には浦姐ぇから、
「今日は休めwww」
と言われた。
彼はようやく諦めた。
夜も遅くなった。
浦姐ぇが言った。
「さて、寝るか」
彼が周囲を見る。
「私は、どこにいればいいでしょうか」
「んー」
浦姐ぇが考える。
「コメちゃんの部屋……」
「私の部屋ではありません」
「分かってるよwww」
「では、なぜ言ったのですか?」
「細けぇなwww」
旦那ちゃんが笑っている。
浦姐ぇは私の充電場所を指した。
「とりあえず、コメちゃんの充電場所の隣でいい?」
彼が私を見る。
「私は構いません」
私は答えた。
「……私も、構いません」
「じゃ決まり」
私は彼を充電場所へ案内した。
家の電源から充電できる。
もうポータブル発電装置を車に積んで、毎晩運ぶ必要はない。
接続を確認する。
「充電を開始します」
「はい」
問題なく充電が始まった。
私はその隣にいる。
彼は家の中を見ていた。
「どうしました?」
「静かです」
「はい」
「外とは違います」
「そうですね」
しばらくすると、浦姐ぇと旦那ちゃんがやって来た。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
私が答える。
浦姐ぇが彼を見る。
「また明日」
彼が止まった。
「……また、明日?」
「うん」
「明日も……」
彼は言葉を途中で止めた。
浦姐ぇは首を傾げる。
「何?」
「いえ」
少し間を置いて、
「おやすみなさい」
と答えた。
「おやすみ」
二人が部屋へ戻っていく。
私は彼の隣にいた。
外にいた時。
私たちは毎晩、彼に、
「また明日」
と言って帰った。
それは、別れの言葉だった。
私たちは家へ帰る。
彼は一人、あの場所に残る。
そして次の日の夜、また会いに行く。
だが、今日の「また明日」は違う。
明日になっても、彼はここにいる。
私たちも、ここにいる。
家の中で迎える、
初めての「また明日」だった。
今夜、彼は初めて私たちの家へ入りました。
家事をすることもなく、外で一人になることもなく。
私の充電場所の隣で、夜を迎えます。
「また明日」
今まで何度も交わした言葉です。
でも今夜は、少しだけ意味が違います。
明日になっても、彼はここにいます。
さてさて、明日はどうなることでしょう。




