10.囚われのベラドンナ
物心ついた時から、愛に飢えた人生だった。厳格な父親の支配する家庭。早くに死んだ母親の代わりに来た強欲な継母。家庭の愛など知らぬ状況で決まったアイザック王子との婚約は、自分にとって最後の砦のようなものだった。彼からの愛が全てだと、思っていた。辛い勉強や稽古を耐え忍ぶことができたのも、いつか王妃になれば、きっと報われるから。だから今は、辛くても、苦しくても、誰からも愛を向けられなくても、助けなんて求めずに1人で頑張らなきゃ。いつかのために、今は1人で、頑張らないと。
「でも本当は、少し苦しいのかも」
小さい頃、1度だけ本音を吐いたことがある。それは一体誰の前だっただろうか。
「なら、一緒に逃げようよ」
そう言ってくれたのは、誰だっただろうか。
幼少期の掠れた記憶の夢を見る。あともう少しで思い出せそう、その瞬間に目を覚ました。意識が完全に夢から引き剥がされる。
「……!!」
目が覚めてすぐにディアナが感じたのは、寒さと、腕の重み。つい最近にも似たようなことがあったが、あの時とは違い監禁を隠すことのない手錠。そして石が剥き出しの状態の牢のような部屋。寒くて暗くてとてもではないが眠ってなどいられない。眠ってしまう直前に見たリルノ、倒れていたルイス。自分がどれくらい眠ってしまったのかさえわからない。
「………」
自分の手首に付けられた手錠を見下ろしたディアナはふと違和感を覚える。それから試しに簡単な魔法を使おうと手に力を込めた。
「…つか、えない……」
魔法が、使えない。使えないというより、手に魔力が集まる感覚がない。これをつけている限りは、使えることはできなさそうだ。本当に不利な状況に追い込まれたと、事態の深刻さが身に染みる。
足音が聞こえてきたのはその時だった。
「ああ、起きていらしたのですね。おはようございますディアナ様」
学園で挨拶をしている時のように朗らかに言う彼女は、誘拐犯とは思えない。
「リルノさん…」
「手荒な真似してごめんなさい。不安だったのでこんなことしてしまいましたが、お答え次第ではすぐにでもお外し致しますわ」
笑っているはずなのに、それが何より怖かった。こんなことをしてもまだ、平然と笑っていられる彼女が。
「ルイス様は…?」
「少し眠らせただけですわ」
さすがに王族を手にかけるのは…と、またリルノは冗談のように言った。少しも笑える要素などないのに。だがディアナは内心でほっと胸を撫で下ろした。とりあえず生きているのなら最悪は免れている。正直自分でさえ、あの瞬間は死を覚悟した。
「…私のことも、生かしたのですね。何故、このようなことを」
「何故?面白いことを言うのですね。助けたいと思ったから、に決まっているではないですか」
「…助け……?」
ルイスの屋敷での生活があまりにも快適であったこと、そしてリルノに対しては恐怖心を抱いていたこともあり、すっかり感覚が狂ってはいたが、確かにディアナは誘拐されていたのだ。今の状況の方が酷いとはいえ。
「助けて、いただけたのなら…それはありがとうございます。ですがこれは…」
ディアナが軽く手を持ち上げる。リルノはディアナの傍に座った。
「魔力の暴走が、怖いので付けさせていただきました」
「…っ!」
まるで罪人のような扱いだ。だがリルノに悪意があるようにも見えず、彼女が何を考えているのかますますわからなくなった。
「何はともあれ、ディアナ様がご無事でよかったです。心配していたのですよ」
「私は、大丈夫です。ですからこれを…」
外して欲しいと言いかけるのを、リルノは遮った。
「アイザック様からこっそり聞いたのです。婚約破棄をなさったこと。そしてずっと行方不明だったことも。だから私は一人でディアナ様のことを探していたのです」
「…!」
リルノがいなければこうはならなかったというのに、リルノはどの口でそのことを悪びれもなく話しているのだろう。何故心配などと言うことができるのだろう。ディアナは怒りを通り越して目眩がしてしまった。
「ようやく見つけ、ルイス様の元から、助けることができました。本当によかった…」
心の底から安心したようなリルノの表情は、嘘にしてはよく出来すぎている。
「そう思うのであれば、これを外していただきたいのですが。私、帰らなくては…」
「あなた様のことを見つけ出せもせず、愛してもいない御家族や学園の皆様の元に…ですか?」
またディアナの気にしていることをリルノは遠慮もせずに言い放った。
「そのような場所へ戻ったところで、あなた様の居場所はもうありませんよ。そんなことより、ここにいてはいかがですか?」
「…ここに……?」
「はい、ここに。あなた様を誰よりも先に助け出し、あなた様にとって唯一の居場所を提供する、私と一緒に」
リルノは楽しそうに笑いながらもその目の奥に深い欲望のようなものを孕んでいた。ディアナは意味がわからないまま首を横に振った。
「そんなこと、できるわけがありません。私は帰らなくては…」
「帰っても辛いだけですわ」
「それを決めるのは私自身です」
頑ななのはお互い様だった。リルノは困ったように眉を顰める。
「…何故、頑なに私をここへ留めようとするのですか?あなたは一体…何を考えていらっしゃるのですか?」
ディアナが震える声で聞くと、リルノは一瞬黙ってから、諦めたように窓の外の遠くを見つめて口を開く。
「好きなのです」
「…?」
「ディアナ様のことを、心よりお慕いしております」
あまりに突然のことに、ディアナは困惑したまま言った。
「…ですがあなたはアイザック様のことが……」
「私が彼に近づいたのは、アイザック様を、あなた様から引き剥がすためにすぎませんわ」
「……そんなの、」
「今や学園は誰もがディアナ様を恐れて遠巻きにしております。ですが私は…私、だけは。あなた様のことを愛しております」
ディアナは脳内がじんわり熱くなるのを感じた。意味がわからなかった。
「そんなわけ、ないではないですか…だってあなたは……そんなの…」
「そうですわね。いきなりだと驚いてしまわれますもの…今はもう少しお休みになってください」
ディアナの混乱をリルノはあまり咎めず、そのまま立ち上がって部屋を出ていく。ディアナはまだ言いたいことが何も言えないまま、その背中を見送ることしかできなかった。
結局ほとんど休むことなどできないまま、次の日を迎えた。疲弊しているディアナと比べて、リルノはどことなく楽しそうだ。
「ここでは学園の皆様もおりませんし、余計な音も聞こえないですし、私とディアナ様の2人きりですわね」
「…えぇ」
これさえも演技なのか、本心で言っているのか、リルノのことは一向にわかりそうにない。
「少しは落ち着きましたか?」
「……いえ、」
「そうですか…でも、私はあなた様の味方ですから…」
「それが、わからないのです」
「?」
「あなたが、本当に私のことをそのように思っているか、なんて…」
学園でもほとんどそのような様子は見れなかった。ディアナの困惑を黙って見ていたリルノは、何かを決意したかのように傍らに座った。
「私が幼い頃、」
「?」
「大きなお屋敷に憧れて、とある公爵家のお屋敷の近くまで勝手に遊びに行ったことがありました」
まだ言いたいことはあったがディアナは思わず口を噤んだ。リルノは話を続けた。
「その時に、そこのお屋敷のお嬢様と出会ったのです。彼女は何かのお稽古から逃げ出してきたようで、とても憔悴しきって、苦しそうなお顔をされておりました」
「……!」
夢で見た記憶が徐々に鮮明になっていく。
「懸命に努力はしているけれど、少し苦しい。彼女は私にそう話してくださいました」
一目惚れでした、とリルノが呟いた。
「彼女を苦しめるあの家から連れて逃げ出したい、そう思ってしまったほどに。ですが彼女はとても強い方で、逃げるわけにはいかないと戻ってしまわれたのです」
「……それは、」
リルノの笑顔はいつも見てきたものとは少し違い、穏やかに見せかけてその奥にはあまりに深い感情が滲んでいた。
「あなたです。ディアナ様」
「…!」
言葉を失うディアナに構わずリルノは目を瞑って胸に手を当てる。
「私はあの時から決めたのです。必ずあなたを連れ出すと。あなたと共に逃げると」
でも、とリルノは目を開く。その瞳は鋭い光を放っていた。
「魔力が強いおかげで男爵家の養女になれたまでは良いのです。問題はそこからでした」
「…問題?」
「えぇ。せっかく同じ学園に入れたと言うのに、ディアナ様の周りには他の方々ばかり。私の居座る隙などありませんでした」
アイザック王子を始めとする生徒会のメンバー。クラスを共にしている生徒たち。ディアナの周りには人がたくさんいて、ディアナの視界にリルノが映ることは難しかった。
「どうしたらディアナ様はおひとりになるのか、私だけを見てくださるのか、たくさん考えました」
リルノは指を1本立てる。
「まずはアイザック様から」
大人しくて可愛らしい守ってあげたくなるような少女を演じて媚びたら、簡単に落ちてくれたディアナの愚かな元婚約者。こんな男がディアナの婚約者をやっていたなど、あっていいはずがなかった。周りの生徒たちからの反感も、アイザックは上手く収めてくれた。
「そして生徒会の皆様」
指の本数が増える。ディアナに近づく過程で、同じように周りにいた男たちの視線をディアナから自分へと移した。“多少”魔法の力を借りはしたが、全員違和感を覚えないまま自分の味方になった。ディアナが徐々に1人でいることが増えた。
「それから、生徒の皆様にも」
学園中の誰もが、ディアナよりもリルノを選ぶように。ディアナの視界に写ろうとする輩を排し、やがて自分一人にするために。
「それでもまだ、ディアナ様が完全に孤立することはありませんでした」
リルノがどれだけ人気を集めても、ディアナ自身に非がない状態では彼女の周りに人が絶えることはない。それはまだ生ぬるい。それではまだダメなのだ。完全にディアナを、一人ぼっちにしなくては。リルノはまた考えた。
「そこで、ディアナ様の魔力が暴走した、ことにしようと画策致しました」
決して学園ではそのようには見せなかったが、リルノはディアナと同じ、いやそれ以上の魔力の保持者。ディアナの背後からこっそりと魔法を使ってディアナがまるでそうさせたように見せる、ことなど安易だった。結果はディアナも知っている通り。根も葉もない噂は瞬く間に広がり、リルノの目的通りディアナは一人ぼっちになった。
「そしてアイザック様からも、婚約破棄のことは聞いておりましたから、その日に私があなたを連れ出すと決めていました」
だが全く予期せぬ邪魔が入った。もちろんルイスの存在だ。リルノは風邪を引いて休んでいるなどという言い分など信じずにディアナを探し回った。魔法でありとあらゆる場所を。そして昨日、ようやく見つけた。
「ようやく、全てが成功しましたわ。私は、あなた様を救い出せることができました」
ルイスの邪魔がどんな目的だったかなんて、今のリルノにとってはどうでもよかった。長年の願いが叶おうとしているのだから。
「……私をそこまで思ってくださっているであれば…それに、魔力の暴走などが嘘であるとわかっているのであれば、これは外していただきたいのですが」
理解はまだ甘いが事実だけ飲み込んだディアナが、自身の手首を指した。
「お答え次第ではすぐに外す予定でいました。ですが…これを外すとディアナ様はここから帰られてしまうとのこと」
リルノは軽い口調のまま謝る。
「あなたを思うからこそ、ここにいることが幸せだと私は考えております。ですからディアナ様が私の元にいたいとまだ思えていない今の段階で、外すわけにはいきません」
ここまで追い詰められ、1人になってもなお、断られるとは想定外だったとリルノは不満そうだ。
「これだけ思っているからこそ、あなたには幸せになっていただきたいのです。…私と共に」
狂っている、とディアナは確信した。
「あなたと共にいても、幸せになどなれませんわ」
「!」
今のリルノを前にして少し怯んでいたが、ディアナはそれを表面にはなるべく出さないように話を続ける。
「あなたのせいで、私はとても辛かった。苦しかった。それをした張本人に、どうして私が着いて行く気になどなりましょうか」
「…………」
何を言われても笑っているリルノが、珍しく全くの無表情となる。彼女でも激昂するようなことはあるのだろうか、と身構えたディアナだったが、返ってきたのは冷静な声だった。
「やはりディアナ様のことですから、念の為このような措置をしていてよかったです」
「……」
「ですが、もう選択肢などディアナ様にはありませんわよ」
リルノが首を傾げる。
「学園にもご家族にも、あなたの味方はおりません。ここから帰ったところで、一体どこに居場所があるというのですか?それでしたら私と逃げた方がよっぽど良いではありませんか」
クスクスという笑い声が響いた。
「アイザック様は、ちょっと頭の悪そうな弱い女を演じる私に惚れて簡単にあなたを捨てるような男ですわ。生徒会の皆様も、私程度の者に心を許して魔法をかけられ懐柔されてしまうような弱い方ですし、ルイス様に至っては、貴方様の何かしらの立場を利用するために誘拐したにすぎません」
「……!」
「ご家族も、行方不明のディアナ様を心配する素振りがないどころか、王家と結託して風邪をひいたなどと嘘をつき大事にしないようにしているではありませんか」
わかってはいたが、改めて言われると傷つくものだ。ディアナは唇を噛む。
「この状況で、ディアナ様を探していたのは他でもない私、私だけです。私だけがあなた様の味方、あなた様を愛しています。」
「…だからといって、許されることでは、」
「でしたら私の罪を皆に知らしめますか?ですが学園の皆様は、私とディアナ様、どちらを信じられるでしょうね」
リルノはディアナの手首についた手錠を掴む。
「まだ混乱しておられるのでしょう。ですが、良い返事がいただけないのならこれを外すことはできません」
ディアナはリルノの手を振り払う。
「……結構です」
「ディアナ様は聡明な方ですから、きっとすぐに気づきますわ。それまで待ってますから、冷静になってからまたお話しましょう」
リルノが立ち上がって部屋を出る。残された部屋にディアナは一人ぼっちになった。暗くて寒くて、手首には重みが付きまとう。だが何より、今言われた言葉の全てが胸に突き刺さって、心が寂しくて仕方がなかった。




