弐
「じゃあな、カイト」
兄は少年のようにニカッと笑い、背を向けて歩き出した。
俺はその背中を追いかける。
「兄貴‼︎ どこ行くんだよ…待てよ…もう二年だぞ‼︎ どこに行くんだよ‼︎」
全力で走っているのに追いつかない。手を伸ばしても届かない。むしろどんどん離されている。
もう…息が…。
「バカ兄貴‼︎」
兄の背中は闇に吸い込まれて見えなくなった。
走り続けた俺は息が続かなくなり、その場所に膝をついてしまった。
なんなんだよ、どこに行ったんだよ、バカ兄貴……
「うおぁぁぁぁぁぁぁっ」
俺の咆哮は、虚しく闇に消えていった。
「うわっ‼︎」
力なく座っていると、突然、足元にあったはずの地面がなくなり、暗闇の中に引きずり込まれた。
何も見えない。両手を伸ばしても何も当たらない。
光も、何も見えない空間を落ちていく感覚が、恐怖を感じさせる。
なんだよ、この状況。夢だ、これは夢だ、と自分に言い聞かせ、夢なら何か対処法があってもおかしくないはずだが…何もない。とりあえず両手をバタつかせて羽ばたいてみる…ただ両腕が虚しく空を切っただけだった。
どうしようもなさすぎて、逆に落ち着いてしまった。
そのまま落ち続けていると、速度が段々とゆっくりになっている気がした。
そして、ゆっくりと柔らかい地面の上に落ちた。
身体が冷たい。重くて動かない。指の先まで凍ってしまったようだ。少し、眠くなってきた…。
この二年間、頭に浮かんでは否定し続けた一つの言葉。
———死。
死んでられてたまるかよ…頭の中からその考えを振り払い、目を閉じた。
そのまま、意識が遠くなっていった。
あぁ、暑いな…今日授業なんだっけ…いつの間に寝ちゃったんだ…まだ眠たい…。
何かが頬に当たった。
あぁ、母さんかな、もう少し寝たいのに………何か…聞こえる。
これは…波の音か?潮の匂い…ここは……海…?
再度、頬に当たった。
俺は重い瞼を開けた。そして、目の前に広がる光景に言葉を失った。
目を開けると、いつもの見慣れた天井ではなく、雲一つない真っ青な空だった。俺は外にいるのか?近くで波の音が聞こえる。
鉛のように重たい身体を起こすと、海が一面に広がっていた。なんで海?手には暖かい砂の感触。
「………なんだここ……」
立ち上がって周りを見渡してみると、青々とした空と海が広がっている。
少なくとも、ここは家の近所ではない。ベタな方法だが、手の甲を抓ってみた。痛い‼︎ 夢じゃない。ここは、どこなんだ。
なんとなく、日本ではない、気がする。
「あの…」
不意に後ろから、人の声がした。日本語? ここは日本なのか?
振り向くと、女性が尻もちをついた奇妙なポーズで、心配そうな表情でこちらを見ている。光さえ吸い込んでしまいそうな黒く長い髪、前髪は横一直線に切りそろえられ、その下には大きな鳶色の瞳が光輝いている。目元に入った赤いアイラインが印象的な、同い年くらいの女性だった。
日本人だろうか…しかし服装が…巫女さんのような白い服を着ている。浜辺には不釣り合いな服装だ。
「すみません、ここ…どこですか…?」
通じただろうか。
その女性は眉間にシワを寄せて、怪しいものを見る目つきで俺の全身を上から下まで視線を動かした。警戒しているようだ。そりゃあ砂浜でジャージで寝てたら怪しいもんだ。
「あっ…、ごめんなさい。俺はカイトといいます。ここはどこですか?」
眉間に寄っていたシワが少しずつ緩んでいく。名前を名乗ったことで、少し警戒が解けたようだ。
「私の名前は《クシナ》。クシナとお呼びください。ここは《オノゴロ》という島です。カイト…さんは砂浜で寝ていたのですか?」
…オノゴロ…?
聞いたこともない地名だ。
…だめだ。全然わからない。何故砂浜で寝ていたかなんて、もっとわからない。
「あの、ここは日本ですか? 俺はオノゴロがどこだかわからない。それに、どうしてここにいるのかもわからないんです。俺は東京という場所にいました。目を覚ましたらここにいて…」
俺は、これまでの経緯を、話しながら思い出していた。俺は確か、川に空いた穴に落ちた。それが最後の記憶だ。その後は…多分夢だ、多分。
自分が今いる場所もわからない、どうやってここまで来て、何故砂浜で寝ていたのか。
クシナは小さな声で、トウキョウ…と呟いた。顎に手を当て、何か考え込んでいるようだ。
トウキョウ———初めて聞いた言葉を反芻するような呟き方だった。
天を仰いだ。青空だ。目を閉じて、ゆっくりと開いて見た。やはり青空だ。
地面が急にぐわんと揺れた。膝から力が抜けて、崩れ落ちた。
はは…動揺してんのかな…。
「大丈夫ですか? 私の村に行きましょう。少し歩きますが」
正直、体力より精神的に大丈夫じゃない。見知らぬ場所で迷子だ。何も知らない場所に放り出された赤子のようだ。クシナに着いていくしかない。
村なら、他にも人がいるはずだ。東京を知っている人がいるかもしれない。村に着いたら、色々聞いてみよう。少しは何が起こっているのかわかるかもしれない。
ゆっくり立ち上がると、膝が笑っていた。笑ってる場合じゃないっつーの。
「こちらです。休みながら歩きますが、辛かったらいつでも言ってくださいね」
俺は頷きながら一歩を踏み出した。
砂浜を抜けると、そこには森が広がっていた。背の高い木々が作る日陰と、浜から吹く風のおかげでとても心地よく、木々の隙間から射す光が柱となり、幻想的な光景を演出している。
「すごく綺麗だ…こんな景色、見たことない…」
世界の絶景が特集された雑誌を読んだことがあるが、それに載っていた写真にはない、特異な光景が広がっていた。森と言っても、鬱蒼としたジャングルではなく、とても背の高い木が十メートル程の間隔で生えていて、浜から吹く風で涼しい。地面は苔生して、さながら緑の絨毯のようだ。
一番の特異点は、ところどころに見かける、明らかに人の手で造られたであろう人工物だ。表面が風化していたりするものもあるが、金属でできた部分もある。恐ろしく昔のものであろうその金属製の何かは、石でできた部分と違い、鈍いが輝きを放っている。以前ここには人が暮らしていたのだろうか。
「この森は《カミヨセの森》と言って、神様が住む森と言われているのです。言い伝えでは、ここには神様の住む社があったそうですよ」
「じゃあ、この遺跡は神の家の残骸?」
神様も家に住んでるのか。家事とかどうしてるのだろう。
「はい。かつて、神様は人間にとても近い場所におられ、人間と共に暮らしていたそうです。ですが、神の能力に嫉妬した人間が欲を出し、神になろうとしたため、お怒りになり、天罰を下したそうです。それが千年以上前の」
カサカサッ————
茂みから小さなリスのような小動物が飛び出してきた。俺は反射的に後ろに飛び跳ねてしまった。
小さな動物にびっくりした姿を見て、クシナはクスッと笑った。
「大丈夫ですよ、この子は襲ってきたりしません」
クシナは、慣れた手つきで小動物を両手で抱き、足元に落ちていた木の実をあげていた。
「急に飛び出してきたから…ちょっとびっくりしちゃって。初めて見る動物だ」
「カイトさんのいたところには、シンコルはいないんですか?」
シンコルは手のひらに乗るくらいの大きさで、耳が身体と同じくらい大きく、頭部には小さな角が生えている。
「…角生えてる」
「シンコルは神の使いと呼ばれています。小さいけど、神聖な動物なんですよ」
ふわふわとした毛並みと大きい耳、小さな角。ペットショップにいたら大人気だろう。架空動物のユニコーンにも似たシンコルは、クリッとした瞳で俺を見ている。恐る恐る、手を差し出してみた。
ペロッ———差し出した中指の先を舐めた。
「シンコルが舐めると、触れていいよって合図なんです。カイトさん、両手で私みたいに抱っこしてあげてください」
クシナが俺の手にシンコルを近づけると、手を一瞥し、ヒョイッと飛び乗った。とても軽く、毛がふわふわしていて温かい。そして、またつぶらな瞳で俺をジーッと見ている。
「あの…すっごく見られてるんですけど…」
「大丈夫です。今カイトさんから敵意や思念を読み取ってるんだと思います」
頭の中を読み取る—? なんか凄い生き物だな。
突然、シンコルはククッと鳴いて、俺の親指に頰ずりをした。
「あら、気に入られたようですね。ひどい人は噛み付かれたりしちゃうんですよ」
よかった…噛み付かれなくて…。
「そういう大事な事は先に言ってください…」
シンコルは腕を伝わって、右肩に乗った。
「打ち解けたみたいですね。こんなに早く肩に乗ってくれるなんて、なかなか無いんですよ。さて、行きましょうか」
「じゃあな」と言って肩から降ろそうとすると頭の上に移動した。今度は頭に手を伸ばすと、背中に移動した。
「だいぶ…気に入られちゃいましたね」
「そうみたいですね…連れて行っても大丈夫なんですか? いててっ」
今は頭に移動して、俺の頭にわしっとしがみついている。爪がちょっと痛い。そんなに俺が気に入ったか。
「大丈夫ですけど…まさか…」
クシナは顎に手を当てて何かを考えている。何かを考える時に顎に手を当てるのは癖らしい。何やら深刻な問題らしい。
「あ…やっぱりやめたほうが—」
やっぱり神聖など動物だ。ペットのように連れて歩いてはいけないだろう。
「大丈夫です‼︎ 仲良くしてあげてくださいね‼︎」
仲良くしてあげてください——は、シンコルに言ったようだった。神聖な動物らしいし、そういうものか。
「さぁ、行きましょうか」
ククッ———俺の頭の上で、シンコルが笑った、ような気がした。




