壱
兄の一八歳の誕生日の夜、兄は消えた。
家出ではない。特に持ち物も持たず、忽然と消えたのだ。
兄のソラトは同じ高校の三年で、成績優秀、眉目秀麗、品行方正、おまけにバスケ部の部長だ。
それに比べて、俺は…兄に勝てることと言えば足が速さとゲームくらいで、成績も外見もからっきしで、絵に描いたような出来の悪い次男坊だ。常日頃、出来の良い兄と比べられていたが、別に苦ではなかった。自慢の兄だ。
「おかえり、カイト。お前、県大会に出るんだって?まだ一年なのにやるなぁ。」
頭の上から兄の声がする。見上げると兄は太陽のような笑顔でニカーッと笑っていた。兄との身長差は二五センチくらいある。
「まぁ部員も少ないし、二年の先輩が怪我しちゃったからね。滑り込みだよ。兄貴は一年から普通にスタメンだったじゃん。」
「俺はバスケで入ったからな。それくらいは結果残さないといかんのよ。練習はキツいし、強豪ってだけでプレッシャーもすげぇぞ。ハハハ。カイトはプレッシャーなんて感じなさそうだな。その図太さ、羨ましいわ。」
そんなこと言いながらも、二年の時にはインターハイ全国ベスト8という結果を叩き出している。しかしその負けた試合には兄は出ていない。前の試合で怪我をして、出れなかったのだ。その時の兄の悔しそうな顔は今でも忘れられない。
「それより兄貴、誕生日おめでとう。これ、大したものじゃないけど。」
「うおっ!マジか!サンキュー!開けていい?」
子供のように包装紙を破り、中の透明な袋に入った服を見て、兄は興奮の頂点に達した。
「おおお!俺が欲しかったセットアップじゃん!これ欲しかったんだよねぇ〜なんてったって生地がハイテクでさぁ…」
店員も同じことを言ってたな。やっぱり男は機能性とか最新鋭とかハイテクって言葉に弱いんだよね。
「ずっと欲しがってたでしょ?これ着て頑張って、兄貴。」
「よし!早速ランニングしてくっかな!いやぁ〜高まるねぇ〜!」
だいぶ喜んでくれているみたいだ。兄のこういう無邪気なところが好きだ。
「じゃ、行ってくる。母さーん!ランニング行ってくっから!」
キッチンから母の、いってらっしゃーい、という返事が聞こえてくる。
「いやぁ〜、ワクワクするな〜!じゃあな、カイト。」
「いってらっしゃい、気をつけて。」
これが、兄ソラトと交わした最後の会話になった。
ランニングに行った兄はそのまま戻らなかった。いつものランニングコースや行きそうな場所も探してみたが、何の痕跡もなかった。もちろん、警察にも届けたが何の進展もなく、そのまま二年が過ぎた。
今も交番の掲示板や警察署には、インターハイの時の瞼を腫らした優しい笑顔が、行方不明者の看板に貼られている。
そして、俺は兄と同い年になった。
二年経っても、捜査は何の進展もなく、家出、というのが警察の見解のようだ。あの兄が家出するわけがない、と噛み付いてみても何も変わらなかった。
兄を探すのに兄と同じコースを走っていたのが習慣になっていた。毎日毎日、あれから兄を追うように同じ道を走っている。
今日はやけに暗いな。いつもと変わらない、家の近くの川沿いの道。太陽も沈みかけていて、遠くに見える山が不気味に佇んでいる。川は黒や紫、オレンジに乱反射して、ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。いつもよりハイペースだったのか、いつも渡る橋が見えてきたところで、息切れしてしまった。
いつもより暗いが、いつもと変わらない景色。遠くから少年野球をする声が聞こえる。
あの日も、兄は同じような景色を見ていたのだろうか。
「どこ行ったんだよ…バカ兄貴…。」
あの日から何度も呟いた。これで何回目だろう…。
いつもより暗いせいか、空気が重く感じ、少し川辺で座ることにした。
あれから家の中の空気も重くなった。母さんは夜一人で泣いていることがある。父さんはぼーっとしていることが多くなった。俺は好奇心で色々聞かれた。何も知らない事が、悔しかった。
そんなこと、俺の方が知りたいんだよ。
物思いにふけっていると、聴いていた音楽が止まって我に帰った。そろそろ帰るか、と立ち上がると、目の端に奇妙な歪みが見えた。何かの見間違いかと思ったが、少し気になったので、その方をじっと見ていると、空間が一点、変なことに気づいた。
水際のある一点が歪み、光が吸い込まれているようだった。
今まで二年間、気候以外の変化だった。
近づいて見ると、より奇妙だ。
直径一メートルくらいの穴が空いていて、光が吸い込まれている。向こう側も見えない。
足元に転がっていた石を投げ込んで見ると、川に落ちる音がしない。
俺は、不用意にも手を入れてしまった。
空間に空いた穴が、俺を吸い込んでいく。引っ張られる力が強く、抵抗できない!
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!あっという間にもう身体が半分吸い込まれていった。
「たっ…助けっ…」
俺はその穴に、全身吸い込まれた。
元の景色がどんどん小さくなっていく。激流の川を降っているような感じだった。
そのうちに、意識が遠くなっていった。
意識が無くなる寸前、兄の顔が見えたような気がした。




