8話:聖域を破る一歩
レンは両手をその扉にかけ、その身を預けるようにして体重を乗せた。
数多の敵意や困惑を無視し、ただ一人、光の中に佇む白銀の少女だけを見据える。
彼の瞳に映るのは、聖なる静寂ではない。その内側で、自分と同じように理の檻に閉じ込められているかもしれない一人の少女の影だった。
「――何奴だ、貴様ッ!」
祭壇の脇に控えていた法衣の男が、弾かれたように飛び出してきた。
男が放つ怒気も、堂内に充満する沈殿した香炉の煙も、彼の歩みを止める理由にはならなかった。ただ、その瞳の焦点は、一貫してエリシアの姿だけを捉えている。
「聖女候補エリシア様に対し、なんたる狼藉か! 控えよ、身の程知らずが!」
怒声が円蓋に反響し、信者たちの間に走る動揺を加速させる。
男が震える腕を突き出し、レンの肩を掴もうと指を広げた――その瞬間だった。
エリシアが、そっと右手を上げた。
ただそれだけの、羽毛が舞うような、静かな動作。言葉は何一つ発せられていない。
しかし、その指先が空をなぞった瞬間、男の怒号は、まるでそこだけ時間が止まったかのように霧散した。
エリシアが放ったのは、物理的な力ではない。周囲の空気を一瞬で冷却し、ひれ伏させるような、有無を言わせぬ「意志」の塊だった。
レンはその隙間を、流れるように潜り抜ける。一段、また一段と。
聖域の石段を踏みしめるたび、周囲の喧騒が遠のき、世界には彼と彼女の二人だけが取り残されていくような錯覚に陥る。
ついにレンは、彼女の隣に並び立った。
手を伸ばせば、その白銀の髪に触れられる距離。
二人の間に漂うのは、清廉な百合の香りと、それを焦がすような熱い吐息だった。
「エリシア、二人だけで話がしたい」
エリシアは、正面に鎮座する女神の像を見据えたまま、一度だけ深く瞬きをした。
長い睫毛が微かに震え、彼女の瞳の中で揺れる光が、決意の色を帯びていく。
「……では、場所を変えましょう」
「お待ちください、エリシア様! このような無礼者に――」
エリシアが、ゆっくりと首を巡らせる。
その視線が男を射抜いた瞬間、男の言葉が喉の奥でひきつった。
氷の楔を直接打ち込まれたかのように、男の表情が硬直する。彼女の瞳には、慈悲深い聖女候補としての仮面ではなく、自らの意志で道を切り拓こうとする、鋭く、凍てつくような拒絶が宿っていた。
エリシアは男の横を、絹が擦れる僅かな音だけを残して通り過ぎた。
どこへ向かうのか、彼女は語らない。
ただ、前を行くその背中は、教会の教えに従う操り人形のそれではなく、一人の少女としての確かな形を持って、暗い廊下の先へと消えていった。
廊下を抜けた先、視界が開けた中庭は、傾きかけた太陽の残光に浸されていた。
噴水の水しぶきが、逆光を受けて砕けた宝石のようにきらめき、静止した空気の中を黄金色の塵がゆらゆらと舞っている。湿った石の匂いと、手入れされた芝生が放つ青い香りが、鼻腔をかすめた。
エリシアは噴水の縁で足を止め、ゆっくりと、その身を翻す。
白銀の髪が光を透かし、柔らかな輪郭となって彼女を縁取った。顔には濃い影が落ち、その表情を読み取ることは叶わない。ただ、その瞳だけが、暗がりの中で静謐な光を放っていた。
「聞きたいことがあるんでしょう」
問いではなく、あらかじめ用意された台本を読み上げるような、確信に満ちた響き。
風が吹き抜け、彼女の白い法衣を微かに翻した。レンは、不自然に乾いた喉を飲み込み、一歩踏み出す。
「女神の祝福について……だ」
レンの声が、石造りの中庭にひどく無機質に響く。
「教会の内側にいる人間として、エリシアの知っていることをすべて聞かせてほしい。……建前ではない、本当のことをだ」
その瞬間、彼女の細い肩が、重い扉の錠が外れたように目に見えて微かに跳ねた。
「……何を知りたいの」
返ってきた声は、先ほどまでの清らかな響きではなかった。
それは以前、路地裏でレンを翻弄し、危うさを見せたあの少女の影を落としていた。
彼女は視線を逸らさず、レンの瞳の奥をじっと覗き込む。
その瞳には、神の依代としての光ではなく、生身の少女の躊躇いが揺らめいていた。
「今まで、考えたこともなかったの。疑問を向けることさえ、私にとっては罪に近いことだったから。全部あらかじめ用意されていて、女神の光はただ、当たり前に降り注ぐものだと信じて疑わなかった」
絞り出すような声が、冷え始めた空気の中に溶けていく。
「でも、その答えを持っていないわけじゃない。私が私として、あなたに話すべきことがあるのは確か」
エリシアはゆっくりと顔を上げた。影に沈んでいた瞳が、真正面からレンを見据える。
「ごめんなさい。今日はまだ、答えられないわ」
彼女はそれだけを言い残すと、翻る法衣の裾を風になびかせ、歩き出した。




