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7話:設計された楽園

 厚手の羊皮紙を封じているのは、アステリア家の家紋――猛禽の爪が宝珠を掴む意匠を刻んだ、深紅の封蝋だ。それはまるで、乾きかけの血の塊のように机の上で鈍い光を返している。


 銀のペーパーナイフを手に取り、その「赤い目」を裂くように差し込んだ。


 パリッ、と乾いた音を立てて封蝋が砕ける。中から引き出された紙は、指先に吸い付くような上質な質感を持ちながらも、石板のような冷たさを帯びていた。


 目に飛び込んできたのは、見慣れた父の筆跡ではない。


 ヴァルデリウスの文字は、常に紙を突き破らんばかりの力強い筆圧と、野心を隠さない鋭い撥ねを伴う。だが、そこに並んでいたのは、どこまでも均一で、垂直に整えられた、わずかな傾きすら持たない事務的な書体だった。


『許可する。閲覧証を同封する』


 たったそれだけの一文が、広大な羊皮紙の余白にぽつんと放り出されている。

 挨拶も、激励も、あるいは息子が禁忌の知識に触れることへの僅かな懸念すら、そこには存在しない。


 レンは封筒の底から滑り出した銀色の薄板を指で拾い上げた。


 ひんやりとした金属の感触が、体温を奪っていく。表には『禁書庫閲覧許可証』の文字とアステリアの紋章。レンはそれを裏返した。


 ――空白だった。


 磨き抜かれた銀の裏面は、窓外の青空とレン自身の瞳を鏡のように映し出している。

 署名もなければ、但し書きもない。

 それは、父にとってこの判断が「語るに値しない」ものであることを示していた。


 庭園の木々を整えるように、あるいはチェスの盤上で、最も期待値の高い位置へ駒を動かすように。父はただ、アステリアという家の資産を最大化させるため、レン・アステリアという名の「魔術師」を完成させるための、最も合理的な定石を打ったに過ぎない。


 喉の奥が、乾いた砂を飲み込んだように不自然に強張る。


 レンは無意識に閲覧証を強く握りしめた。銀の角が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。

 その痛みだけが、自分が今、巨大な計算式の中に組み込まれた一つの変数として、正しく機能し始めたことを教えていた。


 レンは銀の板をポケットに滑り込ませると、一度も振り返ることなく部屋を後にした。


 図書館の重厚な扉を押し開くと、数世紀分の時間が堆積したような独特の空気が肺を満たした。

 古びた紙が分解される際に放つ、微かな甘い朽ち香。そこに、鼻腔を刺すような鋭いインクの匂いが混ざり合っている。高い天井へと伸びる書架は、知の巨塔のごとく左右から迫り、窓から差し込む光の柱を無数の塵が泳いでいた。


 カウンターの奥では、司書のイザベラ・フォンテーヌが巨大な羊皮紙の帳面と対峙していた。


 規則正しく刻まれる羽ペンの音だけが、静謐な空間に響く。彼女の細い指先は、まるで精密機械の一部のように淀みなく動き、膨大な閲覧記録を文字の列へと変えていく。


 レンが歩み寄ると、その規則的な音がふと途絶えた。


 その瞳に宿る光にレンは息を呑んだ。それは、穏やかな司書が見せるべき知性ではない。荒野で獲物を追う猟師のような、ぎりぎりと身を焼く渇きだ。


「……そろそろ来る頃だと思っていたわ」


 低く、湿り気を帯びた声がレンの鼓動を叩く。

 彼女は手元の羽ペンを置かず、視線だけを真っ直ぐにレンへ固定した。


 レンは無言で、ポケットから銀の薄板を差し出した。


「禁書庫の扉をあなたがいつ叩くことになるのか、ずっと賭けていたのよ」


 それを受け取るとき、彼女の指先がレンの掌に微かに触れる。

 その手は驚くほど冷たかった。真夏の廊下であっても、彼女の周囲だけは氷点下の静寂が支配しているかのようだ。


 イザベラは銀板の表面を親指の腹でなぞり、裏面の空白を確認すると、わずかに口角を上げた。それが微笑なのか、それとも残酷な真実を共有する者への同情なのかは判別できない。


「確かに確認したわ」


 彼女は事務的な手つきで帳面にレンの名を記し、ペン先に新しいインクを浸した。


「生涯をかけても読み切れない蔵書の中から選び出したい一冊は何かしら?」


「『女神の祝福』に関する、最初期の記録を」


 その瞬間、図書館の空気が凍りついた。


 流れるように動いていた彼女の手首が、岩に打たれたように停止する。

 ペン先から溢れ出したインクが、白い紙の上にぽつりと落ちた。黒い染みが、意思を持つ生き物のようにじわじわと広がり、文字を侵食していく。


 彼女は羽ペンを握り直し、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が今や隠しようもない熱を帯びてレンを射抜いている。


「……その言葉を口にする重さを、分かって言っているのかしら」


 彼女の問いにレンは答えなかった。ただ、真っ直ぐにその視線を受け止める。


 イザベラは数秒の沈黙の後、ゆっくりと椅子から立ち上がった。彼女の纏う黒いローブが、床を擦って重苦しい音を立てる。


「ついてきなさい。……あなたの求めている『答え』の片鱗が、そこにあるわ」


 地下へ続く螺旋階段を下りるほど、肌を撫でる空気は密度を増していった。


 禁書庫。そこはマナが物理的な重圧を伴って沈殿する、神聖な真空地帯だ。地上のような風の揺らぎも、土の匂いもない。


 案内を終えたイザベラが去り、レンは一人、無機質な静寂の中に立っていた。


 目的の書架は、最も奥まった一角にあった。指先が触れた背表紙からは、数百年分の知識が凝縮されたような、重く湿った感覚が伝わってくる。


 『女神の祝福・起源と構造』


 表紙を開くと、古い羊皮紙特有の酸っぱい臭いが鼻腔を突いた。前半に並ぶのは、女神の慈愛を称える退屈な聖句や、奇跡の記述。レンはそれらを、不要な情報として冷徹に指で弾き飛ばしていく。


 ――頁の中ほど、ある一線を境に、記述の「位相」が劇的に変化した。


 抽象的な比喩は姿を消し、そこには幾何学的な図形と、工学的な論理構造が冷徹なインクで刻まれていた。


『……集積せしマナの奔流を、核へと導き、一定の振幅へと補正する。即ち、整流である。整流されたるマナは、格子状の回路を伝い、都の隅々にまで均一なる平滑化をもたらす……』


 レンの視界が、火花を散らすように明滅した。

 脳内の情報が、異世界の言語を前世のものへ翻訳していく。


「整流……平滑化回路……」


 心臓の鼓動が、耳の奥で鐘のように打ち鳴らされる。

 これは神の奇跡でも、自然の恩恵でもない。


 交流を直流へ、不規則な脈動を安定した出力へと変換する。不安定なエネルギーを管理可能な電力のように制御している。


 この世界の『祝福』と呼ばれる現象は、ただの出力結果に過ぎない。

 しかし、それは一体どこから汲み上げられているのか。


 頁をめくる指に力を込めるが、文字の列は肝心なところで途絶えている。世界の仕組みを解説するこの書物ですら、その根源までは沈黙を貫いていた。


 レンは本から目を上げ、誰もいない禁書庫の空間を見渡した。


 その瞬間、網膜に焼き付いた。

 石造りの天井も、並ぶ書架も、すべてを透過して視える格子の残像。


「……気持ち悪いほど、完璧だ」


 呟いた声は、自身の呼気さえ吸い込むような静寂に消えた。


 美しく、神秘に満ちていると思っていたこの世界は、巨大な術式の基板の上に構築された、精密すぎる箱庭だった。


 誰かが設計し、管理し、この格子の中で自分たちを飼っている。


 仮説が冷酷な事実へと確定した瞬間、レンの指先は、まるで氷点下の液体に浸されたように感覚を失っていた。


 彼はもう一度、その設計図に目を落とす。そこには、世界の美しさを剥ぎ取った後に残る剥き出しの回路図が嘲笑うように並んでいた。


 禁書庫の重い静寂を背に、レンは地上へと続く階段を上った。一段ごとに、地下の冷気が服の隙間から剥がれ落ち、代わりに図書館特有の乾いた埃の匂いが戻ってくる。

 一度、設計図を見てしまった瞳には、窓から差し込む長閑な夕陽さえも、計算され尽くした照明効果のように映った。


 カウンターへ戻ると、イザベラは最初と変わらぬ姿勢で、分厚い閲覧記録の帳面に向かっていた。

 レンが無言で閲覧証を卓上に置くと、銀の薄板が硬い音を立てて滑る。


「……終わったのね」


 彼女は顔を上げない。羽ペンを握る指先だけが動いて、レンの退出時刻を刻んでいく。その動作は極めて事務的で、先ほどの震えなど幻だったかのように見えた。


 だが、レンの視線はその手元、帳面の余白に吸い寄せられた。


 インクの試し書きや、無意味な数字の列に紛れて、それはあった。

 定規も使わずに書き殴られた、不完全な幾何学模様。


 中心から等間隔に伸びる線と、それらを繋ぐ規則的な格子。先ほど禁書庫の闇の中で、レンの網膜に焼き付いた世界の裏側の断片が、そこに黒々と存在していた。


 喉の奥が微かに鳴る。レンは、彼女の視線を無理やり引き剥がすように問いかけた。


「あなたも……あの文献に目を通したのですか」


 イザベラのペン先が、紙の表面で微かに沈んだ。


 彼女はすぐには答えず、ただ、その書き殴られた幾何学模様を塗り潰すように、ゆっくりと黒いインクを重ねていく。図形が闇に消えていくまでのわずかな沈黙が、重く、粘り気を持って二人の間に漂った。


「ええ、そうよ」


 ようやく返ってきた声は、先ほどよりも一段と低く、枯れていた。


 彼女はゆっくりと顔を上げる。眼鏡の奥には、かつての渇きを通り越し、底の見えない淵のような諦念が淀んでいた。


「理解してしまったのね。私たちが何を飲まされ、何の上で踊らされているのか」


 彼女の視線が、レンの瞳の奥に潜む「確信」を暴くように射抜く。

 イザベラは帳面をパタンと閉じ、その上に震えることのない冷たい手を重ねた。


「私たちは、引き寄せられているのかもしれないわね。この世界の、あまりにも精巧で……あまりにも不自由な『檻』に」


 窓の外では、陽が落ち、街を包む「祝福」の光がぽつぽつと灯り始めていた。


 その美しい夜景さえも、今は巨大な基板の上で点滅する指標にしか見えない。二人の間に落ちた影は、夕闇の深まりと共に溶け合い、逃げ場のない共犯関係を告げているようだった。

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