表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/65

6話:かつての嘲笑者へ

 測定を待つ列の中、オズワルドは自身の心音を数えていた。


 トクン、と鼓動が打つたび、外套に隠された右腕の皮膚が引きつれる。刻まれた「式」が、体温を吸い上げて熱を帯びていく。それはもはや、単なる刺青ではない。神経の末端に接ぎ木された、異質の臓器だった。


 3列前に見覚えのある、仕立ての良い制服の背中が見えた。

 1年前、その背中は嘲笑に震えていた。


「ラトクリフの三男坊が、また石板を黙らせたぞ」


 耳の奥で、粘りつくような笑い声が再生される。隣にいた取り巻きの、鼻を鳴らす音まで鮮明に。当時のオズワルドは、ただ喉の奥にせり上がる苦い塊を飲み込み、視線を靴先に落とすことしかできなかった。


 だが、今は違う。


 オズワルドは薄く唇を開き、肺の隅々まで熱い空気を送り込んだ。

 意識を内側へ。右腕の皮膚の下で、魔力が臨界点まで濃縮されていく。


 指先から感覚が消えていく。代わりに、視界が異常に研ぎ澄まされた。

 石板に刻まれた無数の傷跡、そして大気中を漂う魔素の揺らぎが、鮮明に解読できる。


 喉の渇きすら、今は心地よい。


 オズワルドの腕は布越しでもわかるほど、激しい熱を放っている。

 順番が近づくにつれ、周囲の喧騒が遠のいていった。


 石版の表面に刻まれた紋様が、暴力的なまでの白光を放った。


 大気がぴりぴりと震え、測定器の奥で水晶が軋む悲鳴を上げる。オズワルドが右腕を離すと、そこには鮮明で、あまりに場違いな魔力の残骸が残されていた。


 彼は持っていた記録板を落としそうになり、慌てて指をかけ直す。何度も石版を凝視し、それから信じられないものを見る目で、目の前の痩せた少年の貌を盗み見た。


 周囲の空気が凍りついた。

 誰かが息を呑む音が、鼓膜に妙に大きく響く。


「嘘だろ……」

「石版の故障じゃないのか?」


 乾いた囁きが波紋のように広がっていく。


 その時、3列前にいた「彼」が、弾かれたように肩を震わせて振り返った。

 1年という月日は、かつてオズワルドを「出来損ない」と切り捨てた男の傲慢さを、いとも容易く剥ぎ取った。男の顔からみるみるうちに血の気が引き、頬の筋肉が痙攣するように強張る。


 視線が交差した。


 男の瞳に宿っているのは、憤りでもなければ、ましてや対抗心でもない。

 それは、理解を超えた捕食者を前にした小動物のような、根源的な恐怖だった。


 男の唇が音もなく震えていた。


 彼は何かを言いかけたが、言葉を喉に詰まらせた。やがて、耐えきれなくなったかのように、男の首が深く、吸い込まれるように地面へと折れた。


 その瞬間、オズワルドの胸の最奥で、小さな火花が散った。

 勝利の咆哮ではない。それは、冷たい地下水が沸騰を始めるような、静かな燃焼だ。


 喉の奥にずっと居座っていた鉛のような重みが、ふっと消えていく。

 オズワルドは、頭を下げたまま動かない男の背を黙って見据えた。

 肺に流れ込む空気は、今まで経験したことがないほど澄んでいると同時に、毒のように甘い。


 自らの腕に刻まれた「式」が、誇らしげに脈打っている。

 オズワルドは、もはや恐怖を覚えなくなったその異質な熱さを、ただ静かに噛み締めていた。



 夜、地下へ続く階段を下りるにつれ、地上の乾いた熱気が、湿った土と鉄錆の混じった重い空気に取って代わられた。


 使い古されたランプの火が、石壁を這うように揺れている。一番下まで辿り着き、軋む音を立てる扉を押し開けると、そこには今までになかった密度の気配が淀んでいた。


 部屋の隅、影の溜まり場のような場所に、3つの人影があった。


 一人は、壁に背を預けて座る大柄な男だ。外套の右袖が不自然に短く切り落とされ、その先からは何もない空気が力なく垂れ下がっている。彼はもう片方の手で、刻み煙草を器用に丸めていた。


 その隣、テーブルの端で黙々とナイフを研いでいるのは、髪の長い女だった。ランプの光が彼女の横顔をなぞるたび、左半分を覆い尽くす赤黒い火傷の跡が、毒々しい光沢を放って浮かび上がる。引き連れた皮膚が彼女の左目をわずかに歪め、常に何かを睨みつけているような相貌を作り出していた。


 奥の椅子には、性別も年齢も判然としない、骨の輪郭が浮き出るほどに痩せ細った人影が縮こまっていた。浅く、微かな呼吸。その細い指先は、まるで壊れ物を扱うように、自分の胸元をずっと弄んでいる。


 3人の視線が一斉にオズワルドへ注がれた。

 それは品定めというよりは、傷跡の深さを測り合うような、無慈悲で濃密な沈黙だった。


「――俺たちの仲間だ」


 ヴィクターの低い声が、地下室の冷たい空気を震わせる。


「ここにいるのは、魔術の奔流に焼き切られ、あるいは制度という天秤から零れ落ち、この国の光の下に居場所を失くした者たちだ」


 片腕の男が、感情の抜け落ちた瞳でオズワルドの右腕をじっと見つめた。

 女は研いでいたナイフの手を止め、火傷のない右側の口角をわずかに引き攣らせる。

 

 彼らの目は語っていた。お前も、こちら側の人間か。

 その焼き印を刻み、何を失い、何を得るつもりか。


 オズワルドは、自分の右腕の皮膚の下で脈打つ、あの異質な熱を感じていた。

 それは今、この部屋を支配する絶望的な静寂と、奇妙に共鳴している。


「ヴィクター、完成させよう」


 オズワルドの口から漏れた言葉は自分でも驚くほど硬く、揺るぎなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろう 勝手にランキング
気に入っていただけたら応援していただけると励みになります!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ