6話:かつての嘲笑者へ
測定を待つ列の中、オズワルドは自身の心音を数えていた。
トクン、と鼓動が打つたび、外套に隠された右腕の皮膚が引きつれる。刻まれた「式」が、体温を吸い上げて熱を帯びていく。それはもはや、単なる刺青ではない。神経の末端に接ぎ木された、異質の臓器だった。
3列前に見覚えのある、仕立ての良い制服の背中が見えた。
1年前、その背中は嘲笑に震えていた。
「ラトクリフの三男坊が、また石板を黙らせたぞ」
耳の奥で、粘りつくような笑い声が再生される。隣にいた取り巻きの、鼻を鳴らす音まで鮮明に。当時のオズワルドは、ただ喉の奥にせり上がる苦い塊を飲み込み、視線を靴先に落とすことしかできなかった。
だが、今は違う。
オズワルドは薄く唇を開き、肺の隅々まで熱い空気を送り込んだ。
意識を内側へ。右腕の皮膚の下で、魔力が臨界点まで濃縮されていく。
指先から感覚が消えていく。代わりに、視界が異常に研ぎ澄まされた。
石板に刻まれた無数の傷跡、そして大気中を漂う魔素の揺らぎが、鮮明に解読できる。
喉の渇きすら、今は心地よい。
オズワルドの腕は布越しでもわかるほど、激しい熱を放っている。
順番が近づくにつれ、周囲の喧騒が遠のいていった。
石版の表面に刻まれた紋様が、暴力的なまでの白光を放った。
大気がぴりぴりと震え、測定器の奥で水晶が軋む悲鳴を上げる。オズワルドが右腕を離すと、そこには鮮明で、あまりに場違いな魔力の残骸が残されていた。
彼は持っていた記録板を落としそうになり、慌てて指をかけ直す。何度も石版を凝視し、それから信じられないものを見る目で、目の前の痩せた少年の貌を盗み見た。
周囲の空気が凍りついた。
誰かが息を呑む音が、鼓膜に妙に大きく響く。
「嘘だろ……」
「石版の故障じゃないのか?」
乾いた囁きが波紋のように広がっていく。
その時、3列前にいた「彼」が、弾かれたように肩を震わせて振り返った。
1年という月日は、かつてオズワルドを「出来損ない」と切り捨てた男の傲慢さを、いとも容易く剥ぎ取った。男の顔からみるみるうちに血の気が引き、頬の筋肉が痙攣するように強張る。
視線が交差した。
男の瞳に宿っているのは、憤りでもなければ、ましてや対抗心でもない。
それは、理解を超えた捕食者を前にした小動物のような、根源的な恐怖だった。
男の唇が音もなく震えていた。
彼は何かを言いかけたが、言葉を喉に詰まらせた。やがて、耐えきれなくなったかのように、男の首が深く、吸い込まれるように地面へと折れた。
その瞬間、オズワルドの胸の最奥で、小さな火花が散った。
勝利の咆哮ではない。それは、冷たい地下水が沸騰を始めるような、静かな燃焼だ。
喉の奥にずっと居座っていた鉛のような重みが、ふっと消えていく。
オズワルドは、頭を下げたまま動かない男の背を黙って見据えた。
肺に流れ込む空気は、今まで経験したことがないほど澄んでいると同時に、毒のように甘い。
自らの腕に刻まれた「式」が、誇らしげに脈打っている。
オズワルドは、もはや恐怖を覚えなくなったその異質な熱さを、ただ静かに噛み締めていた。
夜、地下へ続く階段を下りるにつれ、地上の乾いた熱気が、湿った土と鉄錆の混じった重い空気に取って代わられた。
使い古されたランプの火が、石壁を這うように揺れている。一番下まで辿り着き、軋む音を立てる扉を押し開けると、そこには今までになかった密度の気配が淀んでいた。
部屋の隅、影の溜まり場のような場所に、3つの人影があった。
一人は、壁に背を預けて座る大柄な男だ。外套の右袖が不自然に短く切り落とされ、その先からは何もない空気が力なく垂れ下がっている。彼はもう片方の手で、刻み煙草を器用に丸めていた。
その隣、テーブルの端で黙々とナイフを研いでいるのは、髪の長い女だった。ランプの光が彼女の横顔をなぞるたび、左半分を覆い尽くす赤黒い火傷の跡が、毒々しい光沢を放って浮かび上がる。引き連れた皮膚が彼女の左目をわずかに歪め、常に何かを睨みつけているような相貌を作り出していた。
奥の椅子には、性別も年齢も判然としない、骨の輪郭が浮き出るほどに痩せ細った人影が縮こまっていた。浅く、微かな呼吸。その細い指先は、まるで壊れ物を扱うように、自分の胸元をずっと弄んでいる。
3人の視線が一斉にオズワルドへ注がれた。
それは品定めというよりは、傷跡の深さを測り合うような、無慈悲で濃密な沈黙だった。
「――俺たちの仲間だ」
ヴィクターの低い声が、地下室の冷たい空気を震わせる。
「ここにいるのは、魔術の奔流に焼き切られ、あるいは制度という天秤から零れ落ち、この国の光の下に居場所を失くした者たちだ」
片腕の男が、感情の抜け落ちた瞳でオズワルドの右腕をじっと見つめた。
女は研いでいたナイフの手を止め、火傷のない右側の口角をわずかに引き攣らせる。
彼らの目は語っていた。お前も、こちら側の人間か。
その焼き印を刻み、何を失い、何を得るつもりか。
オズワルドは、自分の右腕の皮膚の下で脈打つ、あの異質な熱を感じていた。
それは今、この部屋を支配する絶望的な静寂と、奇妙に共鳴している。
「ヴィクター、完成させよう」
オズワルドの口から漏れた言葉は自分でも驚くほど硬く、揺るぎなかった。




