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5話:祈り方を忘れた少年

「君の瞳には、神への祈りがない」


 吐き出された声には、抑揚の欠片もなかった。

 審問官の視線は、隣で肩を震わせるアルフレッドを素通りし、レンの思考の深淵を暴こうとする。


「……理論の核。この異端の種を蒔いたのは、君だろう? レン君」


部屋の隅、影に溶けていたグレイ教授が、石床を擦るような重い足取りで前へ出た。審問官の冷徹な視線がようやくレンを離れ、進み出た男へと移る。


「……お待ちください。審問官殿」


 震える声が、埃の舞う空気の中で微かに揺れる。


「彼らは……真理を追い求めるあまり、道を踏み外しかけただけの、ただの若輩者です。私の教導が至らぬせいです。どうか、学問の道を……彼らの未来だけは」


 教授は審問官の正面で足を止めると、深い呼吸を一つ吐き出した。かつて教壇で誇示していた真っ直ぐな背筋が、まるで目に見えない重圧に押し潰されるように、ゆっくりと、折れ曲がっていく。


 その腰は深く折れ、額は床と平行になるまで下げられた。


「……よかろう。ただし、シルヴァン君を監査役として付けろ。これ以降、彼らの思考の一片に至るまで、教会の監視下に置く」


 命令が下ると、背後に控えていた聖騎士たちが無造作に研究資料を掻き集め始めた。


 理路整然とした知の積み重ねが、ただの「紙の束」として運び出されていく。そこにあるのは、論理を介さない、純粋な暴力の重みだった。


 レンは、胸元に潜ませた星光石の揺らぎを、指の内側で確かめるように握り込んだ。


 人々は、この揺らぎを奇跡と呼び、感謝を捧げている。だが、その正体がただの現象のひとつに過ぎないと知ったとき、彼らはそれを何と呼ぶのだろうか。


 この世界の人々は、未知なるものを未知のまま愛しているのではない。


 既知という境界線のすぐ外側にあるものを、「奇跡」や「魔法」という名の檻に閉じ込め、理解することを拒絶しているだけだ。


「未知を未知のままにしておくのが、この世界の『正しさ』だと言うか……」


 レンの指先が、机にこぼれたインクをなぞる。黒い染みが、白い地図の上で汚泥のように広がっていく。


「なら、その檻を壊した先にあるのは……」


 レンの呟きは、激しくなる雨音にかき消された。

 二人の影が壁に長く、歪に伸びていた。それはもはや、光を求める学徒の形ではなく、深淵を覗き込もうとする者の形をしていた。


 審問官が去った後の研究室は、まるで墓所のような冷気を含んでいた。

 扉の前に立つシルヴァンが二人を見下ろす。背後の窓から差し込む西日が、彼の長い影を床に伸ばし、レンとアルフレッドを分かつ黒い格子の列のように横切った。


「今日から、君たちの思考は私の検閲下にある。逸脱は許さない」


 シルヴァンの声には、一点の曇りもなかった。


「納得がいかないという顔だな、アルフレッド。だが、君の説く『救済』は秩序を食い荒らす毒だ。民が必要としているのは、等しく与えられ、等しく縋ることができる祝福だ。それがこの国を支える楔だと、なぜ理解しようとしない」


 アルフレッドの握りしめた拳が、白くなるほどに震えている。

 だが、その拳が振り上げられることはなかった。シルヴァンの影という檻の中で、彼はただ、呼吸を殺すことしかできなかった。


 騎士たちが去った後の研究室は、異様なほど広く感じられた。

 棚は空になり、インクの匂いだけが微かに残っている。


 机の脚の傍らで、一輪の花がひしゃげていた。アルフレッドが朝、無造作に活けた名もなき野花だ。誰かの軍靴に踏まれたそれは、茎が折れ、花弁が泥に汚れ、石床にこびりついている。


 レンは空になった机を指でなぞった。


 指先に触れるのは、木のざらつきと冷えた空気の感触。

 静寂の中で、レンの脳裏には違和感が疼いていた。


 これまで「マナ」と呼んでいたものの正体。それは大気の中を流れる、あまりにも不自然な一定性を持って整流された、回路のようなノイズ。


 奇跡という言葉で覆い隠された、冷徹なまでの理の鼓動を、何もかもを失ったこの静寂の中で、より鮮明に感じていた。


 窓の外では、王都を夕刻の琥珀色が包み込んでいた。

 かつては「女神の慈悲」と謳われた、穏やかな光。

 アルフレッドはその光を背に、影の中に立っていた。


「なあ、アルフレッド……この世界の人間が跪く『女神』とやらについて、お前はどう思ってる?」


 絞り出されたレンの声は、ひどく掠れていた。


「マナは、女神の祝福。……ああ、そうだよな。俺もずっと、そう教えられてきた。祈れば応えてくれる、人々に等しく与えられた軌跡だって」


 アルフレッドがゆっくりと、自分の掌を見つめる。


「でもな、お前と一緒に魔術を解くたびに、俺の頭の中から神様が消えていくんだ。火が出るのは祈ったからじゃない。そこに理由があるからだ。理を解けば解くほど、祝福という言葉が、思考を止めるための言葉にしか聞こえなくなったんだ」


 彼は窓枠を、指先が白くなるほどに掴んだ。


「俺は……もう、祈り方は忘れたよ」


 アルフレッドの肩が、音もなく震えている。

 レンは手を伸ばそうとしたが、指先が空中で止まった。


 目の前にいる親友は、もう幸福を享受する『女神の信徒』ではない。真実という名の、逃げ場のない荒野へ踏み出してしまった、一人の孤独な観測者だ。


 レンは、夕日に赤く染まる王都を見つめた。

 今日も不自然に整流されたエネルギーが、見えない血管のように街を巡り続けている。

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