9話:その祈りが喰らうもの
届けられた封筒には、差出人の名も、教会の紋章を象った封蝋もなかった。
ただ、羊皮紙よりも薄く、指先に吸い付くような上質な紙の端に、ペン先を強く押し付けた跡が残っている。
『続きを話しましょう』
それは、意志の強さを刻みつけるような鋭い筆致だった。
レンはその文字を、指の腹でゆっくりとなぞった。
彼女は、聖女の皮を一枚脱ぎ捨てて、この言葉を絞り出したのだ。
レンは封筒を懐に収めると、重い外灯がまばらに点る街路へと踏み出した。
向かう先は、王都の華やかな中央通りから遠く離れた、東側の運河沿い。
かつては物流の拠点として栄えたであろうそこは、今では朽ちかけた廃倉庫が牙のように並び、夜の闇をより深く沈殿させている。
「……来てくれたのね」
ゆっくりと顔を上げた彼女のフードの奥から、白銀の髪がこぼれる。普段の豪奢な結い方は影を潜め、質素な革紐で一つに束ねられただけのそれは、彼女が「聖女」という殻を脱ぎ捨ててここにいることを示していた。
しかし、その瞳を覗き込んだ瞬間、レンは息を呑んだ。
蒼白い頬。血色を失った唇。その瞳の奥には、以前の彼女にはなかった深い淵のような空洞が広がっている。
「……約束、守ってくれて。ありがとう」
震える指先が、外套の襟元を強く握りしめる。
その白く浮き出た関節は、彼女が今この瞬間も、内側から溢れ出そうとする何かを必死に抑え込んでいることを物語っていた。
対面したエリシアの呼吸は、どこか浅く、不自然に乱れていた。
レンが一歩距離を詰めると、彼女の体から立ち上る熱気が、夜の冷気と混ざり合って白く揺らめいているのが分かったが、その熱は生命力に溢れたものではない。高熱に浮かされた病人のような、危うい焦燥を孕んだ熱だ。
「最近ね、祈るたびに何かが奪われている気がして――」
エリシアは、自分自身の細い腕を強く抱きしめた。指先が外套の生地に深く食い込み、無残な音を立てて軋む。
「最初は、疲れのせいなのかなって思っていたんだけど……。聖女としての公務が重なっていたから、ありふれた『魔力酔い』の症状なのかなって」
彼女は一度言葉を切り、込み上げる何かを押し殺すように強く目を閉じた。
「自分のものではない『空腹感』や、焼けるような『痛み』が、どろどろと流れ込んで止まらないの」
彼女の告白は、まるで呪詛を吐き出しているかのように苦渋に満ちていた。
「私の中に、私じゃない誰かがいるみたい。その誰かが、真っ暗な場所でずっと泣いている気がしてならないの。昨日の祈祷の最中も――救いを求める人の顔が一瞬だけ見えた。あれは、私の心が生み出した幻覚? それとも……」
エリシアは顔を上げ、縋るような視線をレンに向けた。
その瞳に宿るのは、教会の教義では決して説明のつかない、生理的な恐怖だ。
「レン、私はどうしちゃったんだろう……」
震える吐息が、レンの頬をかすめた。
それは助けを求める少女の悲鳴であり、同時に、自分を繋ぎ止めていた「聖女」という世界の前提が、内側から食い破られようとしていることへの、根源的な戦慄だった。
レンは無言のまま、コートの裏側に手を伸ばした。
指先が触れたのは、裏地に密かに縫い付けられた、手のひらに収まるほどの小さな筐体。本来、魔力がない彼が周囲のマナの揺らぎを検知し、自身の擬似的なマナ出力を調整・偽装するために組み上げた自作の計測器だ。
彼はその留め金を外し、慣れた手つきで回路の一部を接続させる。
「……少し動かないでくれるか。マナの指向性を俺に向けてくれ」
エリシアが戸惑いながらも、震える両手をレンへと向ける。
レンが筐体の中央に埋め込まれた「星光石」を彼女にかざすと、石は彼女から漏れ出るマナを吸い込み、闇の中で淡く青い光を放ち始めた。
チッ、チチッ――。
静まり返った廃倉庫に、石が微弱なマナと干渉して発する、乾いた金属音が響く。
レンは前世の記憶にある分光分析の知識を総動員し、石の明滅パターンとその周期を凝視した。網膜に焼き付く光の残像を、脳内でデータへと置換していく。
二人の距離が、さらに縮まる。
エリシアの荒い吐息がレンの胸元にかかり、彼女の体から立ち上る、熱を帯びた百合の香りが石の青い光に照らされて揺らめいた。
レンの意識はその情緒的な近さを完全に排し、ただ一点、石が示す「数値」にのみ集中していた。
彼の眼は、不条理を見逃さない。
星光石が映し出しているのは、エリシアという「聖女」が持つ、この上なく純粋で美しいマナの波形だ。しかし、その安定した基底波形の裏側、通常ならば見過ごすほど微細な領域に、それは潜んでいた。
「……なんだ、これは」
レンの瞳が、僅かに細められる。
清廉な光の裏側にこびりついた、不規則で、粘り気のある暗い拍動。
それはまるで、美しい旋律の背後で、弦を引きちぎるような不協和音が鳴り続けているかのようだった。レンは石の明滅を追いながら、その不気味なノイズの正体へと、一歩ずつ思考のメスを差し込んでいった。
レンの背筋に、冷や水を浴びせられたような戦慄が走った。
このパターンを彼は知っている。前世の研究室で、嫌というほどモニター越しに見つめてきた数値だ。
重篤なショック状態、あるいは極限の飢餓に喘ぐ生命体が、死の寸前に叩き出す末期的なバイタルサイン――「生体反応」のスペクトルそのものだった。
それも、単独ではない。無数の苦痛が重なり合い、一つの排熱として流れ込んでいるように見えた。
レンは筐体を握りしめたまま、視線をエリシアから外し、周囲の闇を凝視した。
廃倉庫の埃っぽい空気。錆びた鉄扉。運河の澱んだ水面。
どこを見渡しても、これほどの反応を叩き出す供給源は見当たらない。この場には、彼とエリシアの二人しか存在しないからだ。
だというのに、手元の装置は、すぐ目と鼻の先に地獄が実在していると数値を弾き出し続けている。
――有り得ない。何もない空間からエネルギーが湧き出すはずがない。
だとすれば、この奇跡を支えるために、凄絶な負のエネルギーが燃料として消費されている。
レンは自身の呼吸が不自然に熱を帯びるのを感じた。
エリシアがその繊細な身体で拾い上げているのは、ただの幻聴ではない。
「レン……? どうしたの?」
不安げなエリシアの声も、今は遠くの霧の向こうから聞こえるようだった。
レンは無言で、激しく明滅を繰り返す星光石を見つめ続ける。
その青い光は、もはや聖なる輝きなどではなく、暴かれたがっている真実が放つ、冷酷な警告色にしか見えなかった。
「……いや、なんでもない」
レンは短く答え、筐体をコートの裏へと収めた。
手のひらには、激しくマナを検知し続けた装置の熱が、不気味な残熱となって居座っている。
エリシアは不安げに、自分の胸元を片手で押さえた。
「私、やっぱりおかしいよね。こんなこと、教会の誰に言っても『それは女神が与えた試練だ』とか、『信仰が足りないせいだ』とか……そんな言葉しか返ってこないの」
「おかしいのはお前じゃない。この世界の『設計』の方だ」
レンの冷徹で確信に満ちた言葉に、エリシアは目を見開いた。
「エリシア、お前が感じているその痛みは、お前の罪なんかじゃない。俺が必ず、それの正体を解明してみせる」
エリシアは、何かにすがるように一度だけ深く頷いた。
彼女が再びフードを深く被り、闇の中へと消えていくのを見送る間も、レンの網膜にはあの血を吐くような波形の残像が焼き付いて離れなかった。
運河を渡る風が、一段と冷たさを増す。
レンは自身の影を強く踏みしめ、歩き出した。
聖女の祈りを支える、おぞましき排熱。
神の奇跡という名の、効率的な略奪。
その巨大な虚構の心臓に、彼は今、確実に指先をかけたのだ。




