5話:生存戦略
父が去った後、庭はひどく静かだった。
青緑の炎は、もうない。燃焼剤の残滓が、霜の上に薄く黒い跡を残しているだけだった。レンはその跡を見下ろし、しばらくそこに立っていた。立ち続けることで何かが変わるわけでもなく、ただ脚が動かなかった。
父はあれを「森閑の魔術」と呼んだ。
違う。銅塩の炎色反応だ。前世の高校で習った、ありふれた化学現象だ。魔術とは何の関係もない。
なのに、父は確信していた。水晶への無反応も、魔力の気配のなさも、すべてが「意図的な隠蔽」として組み立てられていく様子を、レンは眼前で見ていた。
誤解が、命綱になった。
その事実を整理しながら、レンは屋敷に戻った。廊下を歩きながら頭の中で計算を始めていた。
今のままでは足りない。炎を出せるだけでは、魔術師として通用しない。
化学反応ではマナの痕跡が残らない。ゼロのままでは、すぐに露見する。
問題を、もう一度並べ直す。
魔力がゼロであること。これは変わらない前提だ。
それでも、魔力があるように見えるためには何が必要か、考察した。
観測されるべきは魔力の「流れ」であり「痕跡」だ。それを偽装できれば、中身がどうであれ、外側は成立する。
部屋に戻り、引き出しを開けた。採取した数々の鉱石が、布に包まれて並んでいる。一つずつ確認していく。結晶質のもの、繊維状のもの、粉末に近いもの。そして、指先がとある一つの石で止まった。
それは、星光石だった。
王都の商人が「護符になる」と言って売り歩く、装飾用の半透明の鉱石だ。屋敷の庭にも産出することを、レンは一年前に知っていた。特別な石ではないが、この石には一つ、奇妙な性質があった。
環境中に漂うマナを、吸収する。
微量だ。術師が感知するには、よほど近距離で集中しなければ気づかない程度の量だが、確実にこの石はマナを取り込んでいた。
それだけではない。一定量を超えると、今度は逆に放出を始める。吸って、溜めて、吐く。まるで呼吸のように。
レンは石を手のひらに乗せ、しばらく見つめた。
この世界の魔術師は、常に体内でマナを循環させている。生きているマナには揺らぎがあり、律動がある。
星光石の放出は機械的すぎる。だが、複数の石を組み合わせ、それぞれの吸収速度と放出タイミングをずらせば――
頭の中で、構造が形を持ち始めた。
針と糸を取り出した。布を一枚、適当な大きさに切る。数種類の星光石を選び、粒の大きさと密度が異なるものを組み合わせる。大きい石は吸収が遅く放出が鈍い。小さい石は速く反応するが量が少ない。
それらを縫い込み、層を作る。石と石の間隔を変えることで、放出のタイミングに微妙なずれが生じる。
完全な生体マナの模倣は、不可能だ。
しかし、「それらしいもの」であれば、作れる。
針を運びながら、思考だけは止めなかった。指先が布を縫い合わせるその合間にも、内側では計算が途切れることなく続いている。
前世では素粒子の軌跡を追っていた。観測も困難な微細な挙動を、数式と仮説でなぞり、見えない現象の輪郭を捉えようとしていた。
今は違う。追っているのは、針の軌跡だ。布を貫き、引き戻されるその線の往復が、視界の中で確かな形を持っている。
スケールはあまりにも異なる。それでも思考の骨格は変わらない。仮説を立て、変数を調整し、結果を検証する。その繰り返しだけが、環境を問わず同じ精度で機能していた。
夜が深くなった頃、布袋が完成した。
それを胸元に当ててみる。布越しに触れた瞬間、内側で打つ鼓動が、石を通してかすかに伝わってきた。規則的であるはずのリズムが、微細な揺らぎとなって感触に重なる。
その振動は、放出のタイミングにわずかな乱れを生む。均一であるはずの間隔が崩れ、意図しない不規則性が紛れ込んでいく。
予期していなかった効果だった。だがそのずれは欠陥ではなく、むしろ自然なものに近かった。生体のリズムが混ざることで、作為の痕跡が薄れ、偽装の精度が静かに引き上げられていく。
レンは立ち上がり、鏡の前に立った。
布袋を胸元に縫い留めていく。
外からは見えない。輪郭は完全に隠され、視線の上をすり抜けるようにして消えている。
指先で触れたとしても、そこにあるのはただの布の重なりに過ぎない。薄い層が一枚、二枚と隔てるだけで、その内側に仕込まれたものの気配は、容易に覆い隠されていた。
適切な素材を選べば、魔力感知の精度が高い術師でも、通常の距離では判別できないはずだ。
「これで俺はこの世界の人間になれた」
声に出してから一呼吸置いて、訂正した。
「いや、人間のふりができるようになった」
どちらが正確か答えは明白だった。この世界の「人間」とは、魔術師のことを示す。偽装が完成したというだけで、中身は何も変わっていない。魔力はゼロのままだ。異世界の記憶を抱えたまま転生した、この世界の異物のままだ。
だが、それでいい。
生き延びるための道具が、一つ増えた。
***
翌朝、母の部屋の前を通った。
扉の前で、足がふと止まる。進むはずの動きが途切れ、その違和感に気づくまでに、わずかな遅れがあった。中に人の気配があったが、それが動いている様子はない。
「……母上」
かすかな声が唇から零れた。扉一枚を越えるにはあまりにも頼りない音で、届いたかどうかさえ確かめようがない。当然のように、返事はなかった。
扉を叩くことも、もう一度呼びかけることも選べず、その場に立ち尽くす。ただ時間だけが静かに過ぎていく。
昨夜、父が母に何を告げたのか、レンには知る術がなく、知ろうとする意思もどこかで鈍く留まっていた。知ったところで、今の自分に何ができるのか、その答えが見えないからだ。
それでも、ここに立っている。理由ははっきりしないまま、ただその場に留まり続けた。意味がないと理解しているのに、足だけが動かなかった。
やがてレンは引き返し、廊下を歩き出す。靴音が石の床に響き、どこかの部屋で薪が爆ぜる音が聞こえた。
呼びかけた自分の声が、まだ部屋の中に残っているような気がした。
誰にも聞かれなかった声が、扉の向こうで静かに消えていくのを、レンは歩きながら感じていた。




