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1話:言葉なき別離

それは、レンが十歳の冬の夜のことだった。


公爵は侍女を呼び、リディアを自室へ向かわせた。石造りの廊下を歩く足音が響き、やがて扉が開く音がした。


やがてリディアが部屋に入ってくる。無表情のまま、無言のまま、まるで召喚された人形のような足取りで。


その瞳には何の光も宿っていない。ただ虚ろな闇があるだけだ。


公爵が静かに、しかし明瞭に告げる。


「レンは『森閑の魔術』の使い手かもしれない。つまり、お前の血には価値がある」


リディアは何も言わない。感情が読み取れない。ただ、じっと公爵を見ている。人形のような目で。呼吸すらしていないかのように、静止していた。


「お前には、再び子を産んでもらう。レンのような子を。同じ血から。何度でも」


沈黙が部屋を満たした。重く、冷たい沈黙だ。リディアの目に、かすかな光が宿った気がしたが、それはすぐに消え、再び虚ろな闇だけが残った。


「......承知、いたしました」


その声は平坦で、まるで魂の抜けた器から漏れる音のようだった。抑揚がなく、ただ音が空気を震わせているだけだ。


公爵が一歩近づき、その足音が石の床に重く響いた。


「今夜から、だ」


リディアは何も言わない。抗うこともできない。ただ、そこに立っている。白いドレスが燭台の光を反射し、影が壁に長く伸びていた。


公爵の手がリディアの肩に触れる。冷たく、重く。


「お前の役割を、果たせ」


リディアは頷いた。機械のように。


「レンのような子が、もう一人......いや、複数いれば......」


公爵の声には、計算と野心、家門への執着が滲んでいた。


この夜のことを、レンは知らない。



公爵の命令が下ったのは、それから三年後の初秋のことだった。


十三歳になったレンに、王立魔術学院への入学が正式に言い渡された。魔術学院は十三歳から十八歳までの六年制で、王国最高峰の教育機関だ。


貴族の子弟が集まり、魔術の理論と実践を学ぶ。卒業後は、宮廷魔術師、軍の魔術部隊、あるいは研究者として国に仕える。それが、この学院の役割だった。


季節が巡り、春の朝が訪れたその日、レンは空気の冷たさを肌に感じていた。霧がまだ庭を覆い、白い靄の向こうに黒い馬車の輪郭が浮かび上がっている。アステリア家の紋章――銀の鷹――が扉に刻まれ、薄明かりの中で鈍く光っていた。


蹄の音が石畳に響く。馬の鼻息が冷たい空気に白く混じり、御者が荷物を積み込む音が規則正しく繰り返される。革の軋む音、金具の触れ合う音。すべてが鮮明に聞こえ、すべてが現実であることを告げていた。


レンは屋敷の玄関に立っていた。三年間、屋敷に軟禁されていたレンにとって、これが初めての「外の世界」への旅立ちだった。


手には小さな革鞄。中には衣類ではなく、研究ノート、化学反応の記録、薬品の調合法、そして小瓶に詰められた様々な粉末が詰め込まれている。発熱剤、発光剤、燃焼剤――魔力なき者が生き延びるための、武装だった。


「レン」


背後から低い声がした。振り返ると、公爵ヴァルデリウスが立っていた。いつもの冷たい表情。銀髪が朝の光を反射し、青い瞳が鋭くレンを見据える。黒いローブに金の刺繍が施され、その存在そのものが威圧感を放っていた。


「何でしょうか、父上」


レンが答えると、公爵が一歩近づいた。その足音が石畳に響き、レンの心臓が跳ねる。


「学院での振る舞いについて、もう一度確認する」


「はい」


「お前の『魔力ゼロ』という記録は――学院には、伝えない」


レンの目がわずかに見開かれる。


「え......?」


「魔力測定の記録は、こちらで改竄した。学院には、『魔力量は平均』だと報告してある」


公爵の声は静かだが、揺るぎない確信に満ちていた。


「つまり、お前は学院では『ごく普通の魔術師』として扱われる。劣等生でもなく、優等生でもなく、目立たない、平凡な生徒としてだ」


レンの心臓が激しく打つ。


(記録を改竄......?)


公爵の目が鋭くなった。


「目立つな。優秀すぎても、無能すぎても目立つ。ちょうど中間......魔術はそこそこ使える程度に見せろ」


レンは頷いた。これは三年前に既に決まっていたことだ。レンの能力――いや、レンが持っていると誤解されている『森閑の魔術』――は秘匿される。


公爵だけが知る、秘密の切り札として。


「忘れるな、レン」


公爵の手がレンの肩に置かれる。重い、まるで鉄の鎖のように。


「お前は、アステリア家の切り札だ。それを誰にも知られてはならない。お前の真の力を見せるのは――私が命じた時だけだ」


レンの胸に重い何かが沈む。


嘘を演じ続けろ。それが公爵の命令だった。この世界で生き延びるための、唯一の道だ。


「......承知しました」


公爵が満足そうに頷く。


「行け」


レンが馬車に向かおうとしたその時、屋敷の奥から侍女たちの声が風に乗って聞こえてきた。


「公爵様はなぜだか、レン様を贔屓になさっているわ......」

「そういえば、リディア様が、また......」


レンの足が止まる。


(また......?)


胸が締め付けられた。レンは三年前から察知していた。母が再び「母体」として使われていることを。レンのような子を産むために。何度でも、何度でも......。


俺のせいだ――ふつふつと罪悪感が沸いてくる。だが同時に、レンは理解していた。彼女を救えない。俺には母を救う力がない。この世界は、「役割」に逆らうことを許さない。


この世界の構造そのものが、母を道具にしている。個人の救済など、この世界ではまるで意味のないことだ。レンはやりきれない気持ちで唇を噛んだ。


母は、もうとっくに「人」じゃない。感情も、自我も失っている。救っても、本来の彼女が「戻る」わけじゃない。


冷徹な分析だったが、その奥には抑えきれない感情がある。それでも......それでも、この感情は......言葉にならない。


(すまない......今の俺には何も......)


「レン様、そろそろ」


御者の声で正気に戻った。せめて、母に別れを告げたいと思い、振り返って窓の向こうを見上げた。


「何をしている。早く乗れ」


白い霧が足元から忍び寄り、靴を、裾を、ゆっくりと呑み込んでいく。冷えた湿気が肌にまとわりついた。


彼は無言のまま馬車へ歩み寄り、乗り込む。


鈍く、重たい扉が閉ざされた音と共に霧の中へ沈んでいった。


馬車の窓から屋敷を振り返ると、公爵がまだ立っていた。見送っているのではない。監視しているのだ。その視線が、背中に突き刺さる。


馬車が動き始める。ガタガタと揺れ、石畳の上を進む音が規則正しく響く。レンは再び窓の外を見つめた。屋敷が遠ざかっていく。霧の中に溶けていく。


あの中のどれが母の部屋の窓なのかと目を凝らすが、似た形の窓が並ぶばかりで判別はつかない。やがて建物全体が霧に溶け込むように霞み、探していた窓もまた灰色の中へ沈んでいった。


これが正しい終わり方なのかもしれない。見えないまま、言えないまま、ただ遠ざかっていく。


レンは革鞄を膝の上に引き寄せた。中の小瓶がカチャリと鳴る。これが俺の武器だ。化学で魔法を偽装する。公爵の期待に応えるために。いや、生き延びるために。


どちらでもいい。理由なんて、今はどちらでも。

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