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9話:もう一度、あなたと

 重い木扉を背に、レンは一人、学院の静まり返った廊下へと踏み出した。


 イリーナが去った後の空間には、刺すような静けさが満ちている。磨き抜かれた石床を叩く自分の足音だけが、不自然に高く響き、今日という一日で耳にした言葉の残滓をかき乱した。


 それらは重い泥のように、レンの思考の底へと沈殿していく。


 その時の彼女の瞳は、吸い込まれるほどに澄んでいながら、どこか決定的な欠落を感じさせるほど空虚だった。

 対照的に、エレオノーラが説いた血統の正当性は、あまりに完成された体系を成し、反論の隙すら与えない美しさを保っていた。

 そしてルシアン。己の中に飼い慣らせぬ矛盾を抱えながら、なお理想を追う彼の姿は、この歪な世界を象徴しているようでもあった。


(……いや、何かが違う)


 レンの足が止まる。

 かつて物理法則の深淵を覗き、世界の理を記述しようとした彼にとって、その違和感は無視できないほどに巨大だった。


 大気中に混じる、微かな歪み。


 この世界の住人たちが「女神の祝福」と呼び、疑うことのない調和のとれたマナの流れ。その平穏な循環の中に、ざらついた不純な熱が混じり始めている。

 それはまるで、美しく調律された楽器の群れの中に、たった一つ、狂った音色を奏でる弦が紛れ込んでいるかのような感覚だった。


 マナがどこか一点に引き寄せられるように波立っている。

 物理的な風ではないが、皮膚の表面を逆撫でし、神経を直接揺さぶるようなエネルギーが偏在していた。


 レンは無意識に、その熱の源へと向き直った。

 思考よりも先に、探究者としての本能が、彼にその先を見ろと命じていた。


 研究棟への近道を辿り、人影の絶えた石造りの回廊を曲がった瞬間、視界の端で爆音なき爆発が起きた。


 それは洗練された魔術の行使などではない。制御という器を内側から叩き割った、剥き出しのエネルギーの奔流だ。紅蓮の炎が奔流となって空間を焦がすが、端から色が滲み、輪郭が崩れていく。

 直後、空気を切り裂くような硬質の白光――封じ術の術式が、その暴走を強引に圧殺した。


 静寂、再構築、そして再度の決壊。

 繰り返される破壊的な循環の中心に、セラフィナは一人、立ち尽くしていた。


 誰もいない夜の演習場。その中央で、彼女の肩は壊れた装置のように激しく上下している。緩く波打つ銀髪の間、白い項からは陽炎のような熱気が立ち上り、周囲の空間を歪めていた。


「……っ、はぁ、はぁ……っ!」


 耐えかねたように、セラフィナがその場に膝をつく。

 石床に突き立てられた指先が、微かに震えていた。普段、周囲を睥睨する際の傲慢なまでの鋭さは霧散し、その瞳は行き場のない熱に浮かされ、潤んだ光を湛えている。


 レンは無意識に足を止めていた。

 彼女の奥底で疼いているものの正体を、彼は知っている。


 それは、彼女の魂に深く刻み込まれた「刻印」の強制力だ。

 彼女を内側から焼き焦がし、特定の対象――すなわち、レンという個体を強烈に求めさせる呪い。その干渉が今、彼女の精密な術式を内側から歪ませ、逃げ場を失った熱が肉体そのものを蝕み始めていた。


「……あなた、近づくな、って……言った、じゃない……っ」


 顔を伏せたまま、セラフィナが絞り出すような声を漏らした。

 その声は、震える弦のように脆い。言葉では明確な拒絶を突きつけていながら、彼女の指先からこぼれ落ちるマナは、持ち主の意志をあざ笑うかのようにレンの方へと惹かれ、見えない渦を巻いて彼を求めていた。


 レンは、彼女から溢れ出す熱気が、自分の肌をじりじりと焼くのを感じていた。


 レンは立ち止まらなかった。

 むしろ、迷いのない足取りで、熱の渦中へと踏み込む。


 拒絶したのは自分だ。彼女に近づいていい筋合いなどない。だが、目の前で「熱」に焼かれる一人の少女を、現象として放置することはできなかった。


 握り込んだ星光石が、彼女の放射する熱にあてられて白く爆ぜんばかりに明滅している。


「そのままだと魔力回路が焼き切れるぞ。出力の偏りが、お前の意思を追い越している」


「……あなたには関係ないでしょ。これは……私の、呪いのようなものなんだから」


 セラフィナが再び炎を練ろうとする。だが、練り上げた熱量は行き場を失い、彼女の手のひらを焦がさんばかりに膨張した。


「セラフィナ、すまない。あのとき言ったことは撤回する……」


 レンは彼女の目の前で足を止める。


「お前を縛るものがたとえ家の術式だとしても、今ここで苦しんでいるのはセラフィナ自身だ」


 セラフィナが顔を上げる。その瞳に、レンの冷静な、しかし射抜くような眼差しが映った。


「整理がつかないなら、解析して上書きすればいい。俺も、この世界の不条理にただ呑まれるつもりはない」


「……ずるい人。また勝手に踏み込んできて」


 セラフィナは力なく笑みを浮かべたが、その口元はどこか安堵したように綻んだ。


 これまで彼女を苛んでいたのは、肉体を焼く熱だけではない。自分を襲うこの凄まじい渇きが、刻印による「強制」なのか、それとも自分自身の「本心」なのか――その境界が溶け落ちていく恐怖だった。だが今、迷路の袋小路で立ち尽くす彼女の前に、レンという揺るぎない道標が立っている。


「ねえ……最近、炎が言うことを聞かないの」


 それは、常に他者を跪かせてきた誇り高い彼女が初めて見せた渇望だった。熱に浮かされた吐息が、夜の静寂に白く消える。


「気流を読め。術式でねじ伏せようとするな。周囲に遍在する環境マナの対流を取り込む流れを、そのまま利用しろ。炎が広がりたがっている方向を、お前が許容してやるんだ。そうすれば、逆流を抑えるための補正負担は消える」


「……利用する? 抑え込むんじゃなくて?」


 セラフィナが呆然と呟く。彼女が教えられてきた魔道は、常に強固な意志による支配だった。


「そうだ。力で縛り上げるから、反発が生まれる。流れに身を任せ、その終着点だけを定めろ。お前の『意思』でな」


 レンは彼女の視線を導くように、空間の一点を鋭く指し示した。

 セラフィナは深く息を吐き、熱に溶けかけていた意識の断片を、その一点へと凝縮させていく。レンの言葉が、混濁した彼女の思考に冷徹な論理の芯を通した。


「炎よ──」


 術式が再展開される。

 今度は、周囲を焼き払う爆発ではなかった。

 美しい、一分の揺らぎもない真紅の焔が、冷たい石畳の上に静かに咲いた。


 それは、まるで意志を持った花のように。

 刻印がもたらす濁った衝動が、レンという触媒を経て、純粋な「意志の魔術」へと昇華された瞬間だった。荒れ狂っていた大気は一変し、そこには凛とした静謐な熱だけが残された。


 炎が消えた後、演習場には凪いだような静寂が訪れた。心地よい夜風が通り抜け、アスファルトを焼くような熱気をどこか遠くへと運んでいく。


 セラフィナの肌を焼いていた痛々しい赤みは引き、その表情からは先ほどまでの悲壮感が消えていた。


「……あんなに苦しかったのが嘘みたい」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、乱れたドレスの汚れを指先で払う。その一つ一つの動作には、彼女が本来持っている、天性の気品が戻っていた。

 だが、レンを見つめる瞳の色は、以前のような「獲物を狙う肉食獣」のそれではない。もっと根源的な、自分の一部を預けた者に対する親愛が混じっていた。


「ありがとう。でも、勘違いしないでね。これで解決したわけじゃないから」


 セラフィナは困ったように笑い、正門の方へと歩き出したが、不思議とその足取りは重くない。


「責任、取ってくれないんでしょう?」


 その背に投げられた言葉にレンは少しの間を置いてから、短く答えた。


「……善処しよう」


 その素っ気なくも拒絶ではない答えに、彼女は満足げに一度だけ振り返った。夜の闇に燃えるような赤髪が美しくたなびき、彼女の姿は吸い込まれるように消えていった。


「またね、レン。私やっぱり、あなたと話せて嬉しかった」


 演習場に一人残されたレンが、ふと足元に目を落とすと、そこには彼女が灯した炎の跡が、三つ並んで刻まれていた。


 この世界の外側にある法則に従い、レンの提示した理論通りに咲いた焔の痕跡。どれもが同じ位置に、精密な機械が刻んだかのように同じ形で、石畳を黒く染めている。


 理論で救えるものもあれば、それだけでは救えないものもある。


 その境界線上で、レンは自分の掌を見つめた。

 数式で解き明かせる「魔術」の裏側には、定義不可能な「人の心」が脈打っている。


 セラフィナが別れ際に残した言葉。


 彼女の姿が見えなくなった後も、その響きは夜の冷気の中で微かな熱を帯びたまま、いつまでもレンの耳の奥で、密やかに揺れ続けていた。

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