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8話:蜜月の毒

「最後にもう一度、話せる?」


 その声は、夜の帳が降りる直前の薄明に似ていた。

 イリーナとの距離が近づくごとに、彼女が纏う香油の甘く冷えた香りがレンの鼻腔をくすぐった。


 歩くたびにまだ、左肩に鋭い痛みが走る。


 ルシアンの質量弾を逸らした際の代償だ。骨に異常はないが、皮膚は焼け、筋肉が悲鳴を上げている。レンはそれを悟られぬよう、右手に重心を預けて歩いた。


「来客応接室でいいか」


 レンが短く問うと、彼女は答えなかった。


 彼女は柔らかな絹が擦れる音だけを響かせ、音もなく歩き出す。返事の代わりに、しなやかな肢体を動かした。


 応接室に足を踏み入れると、魔術灯の青白い光が、冷徹なまでに室内の輪郭を浮き彫りにしていた。

 イリーナは迷うことなく窓を背にして立った。魔術灯の光を背負うその位置は、彼女の銀髪を銀細工のような輝きで縁取り、同時にその表情に深い陰影を落とす。


「ねえ。ルシアンと会ったんでしょう」


 吐息のような問いかけだった。


「少しな。手合わせを頼まれた」


「それで、その傷……。向こうから声をかけてきたの?」


「そうだ。まず手を合わせるのが家の流儀だと言っていた」


 イリーナはふっと、濡れたような睫毛を伏せ、目を細めた。

 その視線が、レンの左肩で僅かに止まる。


「……そう。あの人らしいわ」


 そこにあるのは、最高級の宝石を鑑定し、価値がないと断じた鑑定士のような、凍てついた判定だけだ。


「でも、つまらない男だったでしょう。正しいことを、正しい順番で言うだけの、磨き抜かれた大理石の像ようにね。でも、その『像』を相手に、お兄様は随分な無茶をしたみたいね」


 イリーナが、音もなく距離を詰めた。

 レンが身じろぎするより早く、彼女の白皙の指先が、レンの制服の左肩――焦げ跡を強引に隠したその場所に触れる。


「――っ!」


 レンの喉が詰まった。激痛が走る。だが、それ以上に彼女の指先から伝わる凍えるような静謐さが、かえって傷口の熱を暴き立てる。


「お兄様から、焦げた匂いと……何か嗅いだことのない匂いがするわ。彼の本気を引き出した証拠かしら? それとも、彼にさえ見せていない『何か』を使ったのかしら」


「……彼がヴァレンティスの名を背負っている以上、この程度の傷で済んだのが幸運だったというだけだろう」


「すごく気になるわ。幸運だなんて言葉で、私のお兄様が負った傷を片付けたくはないもの」


 イリーナは彼の苦痛を愉しむように、指先の力を僅かに強めた。

 さっきまでの冷徹さは影を潜め、代わりに湿り気を帯びた熱が彼女の瞳から立ち上る。


「そうやって痛みを押し殺して、何事もない顔で立っている。……その独りよがりな強さが、私にはどうしようもなく残酷に見えるの」


 言葉は穏やかな調子を保ちながら、逃げ場のない場所へとまっすぐ届いた。責めているのでも、感情をぶつけているのでもない。ただ事実を解体して並べるような冷たさが、その奥に潜んでいる。


「それなのに、お兄様は深いところまで、ためらいもなく踏み込んでくる」


 わずかに間が落ちる。息を吸う音さえ、空気の中で細く、長く伸びた。


「私を気遣っているふりをして――いちばん触れられたくない部分を、自分だけは隠したまま」


 視線が逃がさない形で絡む。


「そうして無防備な私を、安全な場所から突き放す。……その不均衡さが、たまらなく愛おしいの」


「……吐き気がするな。それを賛辞だとでも言うつもりか」


「ええ、最高級の賛辞よ。少なくとも、ルシアンのような『完成品』より、傷を負い、その痛みを殺して私を欺こうとする今のお兄様の方が――ずっと『人間』の匂いがして」


 イリーナはそこで言葉を切り、捕食者が喉を鳴らすような、酷く艶然とした笑みを浮かべた。


「――壊し甲斐があるもの」


 イリーナは机に白く細い指を置いた。そこから、誘うように、ゆっくりと身を乗り出す。

 傷の痛みと、彼女が放つ魔性の香り。二つの強烈な刺激が混ざり合い、レンの意識を混濁させる。


「お兄様の綻びが、どこにあるのか分からないの。どこまで私の正体が見えていて、この痛みの中でも、どこまで男としての理性を保てるのか――それを、私のこの指で、暴きたくなる」


 レンの喉が、わずかに上下した。

 逃げ場のない熱に当てられ、息苦しさを感じる。左肩の鼓動は、既に自分の意思を離れた速度で、彼女への降伏を促すように警鐘を鳴らしていた。


「私は急いでいないわ」


 声音は春の夜風のように穏やかだったが、その穏やかさこそが、逃げ道を一歩ずつ塗り潰していく。


「覚えておいて。私はいつまでもお兄様のことを待っている。逃げ道を塞ぐようなことはしない。あなたが振り返ったとき、いつも私はそこにいるわ」


 それは呪いにも似た愛の告白だった。拒む理由を丁寧に奪い去り、外堀を埋めていく、静かなる侵略だ。


 レンはようやく、乾いた声で問いを絞り出す。


「……お前は、ルシアンのことを『無価値』だと切り捨てるのか。彼はお前のことを気にかけていた。そういう人間だったんだぞ」


「ええ、そうよ。でもね、『心配』という類の言葉を使う人間は、相手を自分の都合の良い形に押し込めようとしているようで、あまり好きではないの。私は私よ。変えられる必要がないもの」


 一分の迷いもない即答だった。


 イリーナの瞳が、机越しに真っ直ぐにレンを射抜く。その瞳の奥には、どろりとした執着の炎が揺らめいていた。


「まだ何かを隠している。自分でも制御できていない獣のような顔が、その奥に眠っているでしょ。私は、それが目覚める瞬間を見たい。あなたの理性が焼き切れるところが見たいの」


 それはもはや、妹が兄に向ける感情ではなく、ひとりの女が狙った獲物を決して逃さないという、峻烈な意思表示だ。


「ねえ、お兄様」


 声のトーンがもう一段階落ちた。それは寝室で囁かれる睦言のような、密やかな響きだった。


「もし私に、お兄様が説くような"人並みの感情"があったなら。この渇きを愛と呼べたのかしら?」


 レンという存在に触れ、彼を侵食し、その反応に悦びを見出し始めた『女』としての、剥き出しの誘惑だった。


 彼女の纏う空気は今まで以上に甘く、毒を孕んでいる。ここで甘い言葉を返せば、二度と引き返せない領域へ引きずり込まれる。


「……わからない」


 レンの精一杯の抵抗だった。


 だが、その声は自分でも驚くほど掠れていた。突き放そうとする指先が膝の上で、かすかに震える。それを隠すように拳を握り込むと、爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走った。その痛みだけが、かろうじて彼を「兄」という役割に繋ぎ止めていた。


 しかし、イリーナはその曖昧な答えに失望するどころか歓喜に目を輝かせた。

 彼女は小さく、満足げに吐息を漏らす。


「やっぱり、そこは変わらないのね。突き放しきれず、私を受け入れることもできない。その中途半端な慈悲こそが、私を狂わせるのよ」


 イリーナはゆっくりと立ち上がった。椅子が床を擦る音さえ立てない、完璧な所作だった。

 それだけで、部屋の中の酸素が奪われたかのように、空気が重く、熱く、停滞する。


「分からないからこそ、もっと深く知りたくなる」


 彼女は扉へと向かう。

 その背中、腰のくびれから流れるような曲線を、レンの視線が追ってしまうのを彼女は知っているのだろう。


 彼女の指先が冷たい扉の金具に這う。その白さと、真鍮の色の対比が、妙に生々しくレンの目に焼き付いた。


「……次は、もっと肌の触れ合う距離で、語り合いましょう?」


 それは約束ではなく、逃れられぬ宣告だった。


「また来るわ、お兄様。今夜の夢には、私を招待して」


 扉が開くと、廊下の眩い光が彼女の銀髪を神々しいまでに輝かせ、同時に彼女の輪郭を光の中に溶かしていく。

 パタン、と静かな音を立てて扉が閉まった。


 残された沈黙の中で、レンは椅子から動くことができなかった。

 肺の奥に張り付いた甘い香りが、酸素の供給を拒絶しているかのように呼吸が浅い。


 ふと、視界の端で微かな「ズレ」が生じた。


 卓上に置かれた水差しの表面が、規則正しく同心円を描いている。

 風も振動もないが、その波紋だけが生き物のように脈動を続けていた。


 レンは自分の右手に視線を落とした。

 1秒に2回。一定の周期。人差し指が水面の波紋と「完全に同調して」跳ねている。


「……脈拍、120」


 掠れた声が、自分のものとは思えないほど熱を帯びていた。

 レンは左肩の傷に手をかけた。焦げた制服の上から指先を深く、傷口を抉るように食い込ませる。


「――っ!」


 音のない悲鳴とともに、鋭利な痛みが脳を貫いた。その入力を楔にして、混濁した意識を強引に引き剥がす。


 パリン、と。

 鏡が割れるような音が、脳内で響いた気がした。


 瞬間、むせ返るような香油の匂いは消え失せ、代わりに埃っぽい冷気が鼻腔を刺した。激しく波打っていた水面は最初から、鏡のように静止していた。


 波紋など、最初からなかった。

 自分の指も、一度たりとも震えてなどいなかった。


 狂わされていたのは視覚でも、指先の筋肉でもない。

 それらを統括する認識、その「前提」そのものだ。


 脳がありもしない波紋を見せ、ありもしない震えを体感させ、そのリズムを心地よい熱として解釈するよう、何者かに内側から書き換えられていたのだ。


「……精神干渉。認識系への、直接介入か」


 ようやく絞り出した言葉は戦慄を通り越し、虚脱に近かった。


 感情を物質の濃度で上書きされた。

 物理定数が歪められたのではない。自分という存在の根幹、その「世界を映す窓」を汚されたのだ。


 レンは震える手で自身の眼を覆った。

 今、ようやく本当の「震え」が、冷たい汗とともに背筋を駆け抜けていった。

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