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7話:3メートルの境界線

 レンは、机に置いたガラス瓶の奥底を凝視し、瞬き一つすら拒んでいた。

 瓶の中では、無色透明の液体が円を描いて激しく対流している。


(9、10、11――)


 心臓の鼓動を秒針の代わりに、脳内で数値を刻み続ける。

 対流する液体の中心に、一滴の試薬を落とした。


 ピチャン、と静寂を切り裂くような音が響く。

 透明だった世界が、突如として泥のような濁りに支配された。そこからさらに、沈殿物が霧散し、鮮やかな琥珀色へと一気に転じる。


 その瞬間、レンは傍らに寝かせていた砂時計を弾くように水平に倒した。


「……まだ遅い」


 吐き出された声は、肺の奥に溜まった澱を吐き出すように重かった。

 砂時計の上半分には、未だ数十粒の砂が取り残されている。


 あの、高潔なまでに完璧なルシアン・ヴァレンティスの術式展開。その速度を脳裏に再現する。常人であれば視認することすら叶わない速度――そこに対抗するには、この反応速度では致命的に足りない。


(あと0.2秒。心臓の一拍分よりも短いこの隙間を埋めなければ、俺は再びあいつの前に立つことすら許されない)


 レンは冷え切った指先を、実験着の裾で一度強く拭った。

 湿った手の内を乾かし、再び天秤へと向かう。


 ミリグラム単位の粉末を秤で量り取り、慎重に液体へ投じる。


 数日前、ルシアンとの手合わせで刻まれた左肩の裂傷が衣服との摩擦に鋭く疼いたが、レンは眉一つ動かさず、ただ呼気を細く吐き出すことで、指先に伝わるわずかな震えを奥歯を噛み締めて強引に抑え込んだ。


 喉の奥が乾き、ヒリつくような緊張が胸を締め付ける。


 だが、レンの瞳に宿る熱は、冷たい夜気の中でも決して衰えることはなかった。魔力という「奇跡」に頼らず、物質が持つ純粋な「理」を暴き、それを自らの手足として手懐ける。その確信だけが、彼の孤独な作業を支えていた。


 震える指先をもう一方の手で抑え込み、彼は再び、新たなガラス瓶へと手を伸ばした。

 その突如、背後の闇が急激に密度を増し、巨大な「個」に塗り潰されたような圧迫感がレンを襲った。


 レンはガラス瓶を握る指先に意識を集中させたまま、視線だけをゆっくりと背後へ投げた。


 漆黒の髪が夜風にそよぎ、闇の中で重厚な影となって浮き上がっている。

 ルシアン・ヴァレンティス。

 学院随一の魔術師と謳われるその男は、レンのわずか数歩後ろで、彫像のように立ち尽くしていた。


 普段の彼が纏う、周囲を威圧するような鋭利な気配は、不思議なほどに影を潜めている。

 代わりにその瞳に宿っていたのは、深淵を覗き込む子供のような、剥き出しの驚愕と好奇だった。


 ルシアンの視線は、レンの顔ではなく、その手元――琥珀色の液体が揺れるガラス瓶の一点に、縫い付けられたように固定されている。


「……何一つ、理に触れていない」


 吐き出された声は、低く、湿り気を帯びていた。

 その響きには、これまでの人生で彼が築き上げてきた世界の形が、目の前で崩れ去っていくのを認めた時のような、危うい震えが混じっている。


「魔術式の起動に伴う大気の震動も、精霊との対話による残響も、無色の魔力の奔流すらも……何一つ、ここには存在していなかったはずですが――」


 ルシアンが僅かに身を乗り出した。

 その拍子に、彼の首元に掛けられた銀の装飾が、カチリと冷たい音を立てる。


「なのに、なぜその水は意志を持っているかのように色を変えるのですか?」


 問いかけるルシアンの瞳は、レンを射抜くような鋭さを持ちながらも、己の知らぬ世界の法則を突きつけられた者の、切実な渇望がそこにはあった。


「意志だと?」


 レンは手に持ったガラス瓶を、手首の返しだけで滑らかに回す。中の琥珀色の液体が渦を巻き、透明なガラスの壁面に薄い膜を張った。重力に従って液体が底へと帰っていくその軌跡には、一切の淀みも、迷いもない。


「笑わせるな。意志などという不確定なものが、これほど正確な結果を導き出すはずがないだろう」


「……ですが、現に色は変わった。媒介となる魔陣も、触媒となる魔石も用いずに。それは、世界に満ちるマナを精神の力で直接組み替えたのではないのですか」


 ルシアンにとって、世界は魔力という糸で編み上げられた巨大な織物だった。何かが起きるということは、誰かがその糸を引いたということに他ならない。


「これは単なる――酸化還元反応だ」


 レンは瓶を実験台へ置いた。コツ、という乾いた音が静寂に波紋を広げる。


「特定の条件を整えれば、物質は定められた結末へと向かう。そこに意志も、ましてやお前たちが崇める祝福など曖昧な力も介在する余地はない。これは世界そのものが最初から持っている『理』だ」


「サンカ……カンゲン……?」


 ルシアンの眉間に、深い溝が刻まれた。

 その瞳の奥で、強固に組み上げられていた常識という名の城壁が、砂の城のように崩落していくのが分かった。彼がこれまで「奇跡」と呼び、「神秘」と崇めてきた事象が、目の前の少年の手によって無機質な法則へと解体されていく。


 ルシアンの指先が微かに震えた。

 彼は逃がすまいとするように、手近にあった古い羊皮紙の切れ端を引き寄せる。


「もう一度……その、サンカという言葉を、教えていただけますか」


 ルシアンは、レンが吐き捨てるように発した未知の音節を、まるで神託でも受けるかのような真剣な眼差しで、歪な文字として羊皮紙に刻みつけていく。


「物質そのものが、法則を持つ……。マナを介さず、ただそこに在るだけで……」


 レンはその様子を一瞥し、鼻を鳴らす。


「理解できなくて当然だ。お前が見ているのは世界の表面に塗られた化粧に過ぎない。俺が見ているのは、その奥にある骨組みだ」


 ルシアンは顔を上げなかった。ただ、憑りつかれたようにレンの手元を見つめ、少しでもその骨の一部を盗み取ろうとする学徒の顔で、言葉にならない呻きを漏らしていた。


「もっと近くで……その『理』を、見せてはもらえませんか」


 ルシアンの瞳に宿る色が、熱を帯びて変質した。

 彼は吸い寄せられるように、音もなく一歩、足を踏み出した。


 その瞬間、机上のガラス瓶に異変が起きた。


「っ……!」


 レンの視界の端で、監視用の計器が狂ったように針を振った。

 琥珀色に澄んでいたはずの液体が、ルシアンの接近に呼応するように、内部から急速に黒ずみ始める。滑らかだった対流は不規則な渦へと乱れ、底からは不吉な泡が沸き立ち、硝子の壁面をどす黒い紫が侵食していった。


「止まれ。それ以上近づくな」


 レンの怒号が、冷え切った室内に叩きつけられた。

 ルシアンの身体が、氷漬けにされたかのようにその場で硬直する。浮かせた足が、床に触れる寸前で止まっていた。


「……私の、せいですか?」


 ルシアンの声は微かに掠れていた。上げたままの足が所在なげに空を切る。


「お前の存在そのものが、高密度のマナを帯びすぎている」


 レンは濁りきったガラス瓶を忌々しげに睨みつけ、荒々しく机を叩いた。


「ルシアン、お前の拍動に伴って漏れ出る魔力が周囲の空気の均衡を根底からかき乱しているんだ。今のこの実験にとって、お前はただの――不純物だ」


 その容赦のない断定が、ルシアンの胸を貫いた。

 最強と謳われ、誰もがその力を、その存在を、神の如き完璧なものとして崇めてきた。だが今、この狭い実習室において、ルシアン・ヴァレンティスという存在は、真理を導き出すための障害として定義された。


 ルシアンの肩が、微かに震えた。

 だが、その唇に浮かんだのは苦渋ではなく、どこか憑き物が落ちたような笑みだった。


「ふふっ……なるほど……。不純物ですか。私の存在が、君の美しい法則を歪めてしまうのか。ヴァレンティスの魔術を誇ってきた私が、君の『理』の前ではただの雑音に過ぎないとは――皮肉なものだ」


 ルシアンは、静かに、そして慎重に後ずさりした。

 レンとの間に、正確に3メートルほどの距離を置く。彼は冷たい石壁に背を預け、自らの存在を闇に溶け込ませるように身を沈めた。


「……ここなら、邪魔にはならないだろう。君がその『法則』を完成させるまで、遠くから学ばせてもらいたい。これ以上、君の世界を汚さぬように」


 ルシアンは膝の上で固く拳を握りしめ、そこから一歩も動かないという沈黙の誓いを立てる。その眼差しは、自分の存在を「不純物」として明確に定義してくれたことへの、奇妙な充足感に満ちていた。


「……これほど救われた気持ちになったのは、生まれて初めてだよ」


 背後の闇から、銀貨が転がるような澄んだ声が響いた。


「救われた……? お前、そういう特殊な趣味でもあるのか」


「……? そういう趣味、とはなんだ?」


 ルシアンの純粋に困惑した声が返ってくる。レンは一瞬だけ背後を振り返り、壁際で首を傾げる「最強」の男を、底知れないものを見るような目で見つめた。


「いや、なんでもない。……お前って、意外と変な奴だなって思っただけだ」


「変な奴、か。ふふ……そうかもしれないね」


 ルシアンは目を細め、境界線を越えないよう細心の注意を払いながら、レンの背中に視線を戻した。


「だが、レン。私にこれほど『対等』に接してくれる人は、他にはいなくてね」


 最強という冠。それは彼を神格化させ、同時に他者との境界を「断絶」へと変えてきた。誰もが彼を敬い、遠ざかり、あるいは跪く。だが、一人の人間として、その存在を「そこに在る不純物」として等身大に扱った者は、かつて一人もいなかったのだ。


「まだここで、見ていてもいいかな?」


 レンはふん、と鼻を鳴らし、再び琥珀色の液体へと意識を向ける。


「勝手にしろ。あまり変なこと言うと、次は追い出すぞ」


 吐き捨てた言葉は冷淡だったが、そこには以前のような毒は含まれていなかった。


 ルシアンは、そのぶっきらぼうな一言に今日一番の深い安堵を滲ませて口角を上げた。

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