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5話:ヴァレンティスの流儀

 エレオノーラと別れた後、レンは一人で中庭に佇んでいた。石畳の上には魔術灯の橙色の光が伸びている。気付けば建物の影が長くなる時間帯になっていた。


「レン・アステリア殿」


 不意に差し込まれた声が、空気の流れを変えた。それは聞いたことのない声だった。感情の起伏が抑えられていたが、抑えているというより、もともと穏やかな声質なのだろう。


 振り返ると、一人の少年が立っていた。


 年齢は自分と同じか、一つ上か。背が高く、レンより頭一つ分ほど上にある。体格は細身だが、姿勢が正しい。制服の着こなしが整っていて、袖口の折り返しまで均等だ。


 深い紺色の髪が揺れ、その下で赤い瞳がこちらを見ていた。整った顔立ちをしているが、端正という言葉よりも「均整が取れている」という表現の方が近く、すべてが適切な位置に収まっていた。


 彼が近づいても、胸元の星光石の反応に変化が一切なかった。


 イリーナと三歩離れていても常に応答し続けていたことを考えれば、この少年の魔力の制御精度の精巧さがわかる。


「ルシアン・ヴァレンティスと申します」


 頭を下げた。その所作は刃物のように正確で、寸分の狂いもなく空間を切り取る。礼という形を借りながら、そこには長い年月で叩き込まれた規律と揺るぎない信念が宿っていた。


 ヴァレンティス――三大魔術家門の一つ。その名はただの家系ではなく、幾代にもわたり積み上げられた威光そのものだ。触れるだけで焼かれるような重みを持ち、学院という小さな世界さえ、その影の内に収めている。


「……何か用か?」


「本日、イリーナ様がこちらに来訪されていると聞きまして。ご挨拶の機会をいただければと思い参りました」


 ルシアンがわずかに間を置いた。


「よろしければ、先にレン殿と少しお話ししたいと思いまして。イリーナ様にお会いする前に」


「俺と話したい理由が何かある……ということか」


「はい。この学院に在籍して一年になりますが、アステリア家のご子息とはまだ言葉を交わす機会がありませんでした。今日はその良い機会だと思いまして」


 これまで接触がなく、この学院内に三大魔術家紋であるヴァレンティス家の人間がいることをレンは把握していなかった。


「話そう。中庭の端でいいか」


 中庭の端には石造りのベンチがあった。訓練の合間に学生が使う場所で、今の時間は誰も使う者はいない。そこへルシアンが先に座り、レンは立ったまま向かいに位置した。


「アステリア家のことを聞きたいのか」


「はい。イリーナ様が今日ここに来た理由について、レン殿はどこまでご存知ですか」


 ルシアンが最初に口を開いた理由はイリーナのことだったが、実際に確かめたかったのは別のことだった。


「先日、案内役を頼まれた。それ以上の事情は聞いていない」


 イリーナから直接聞いた内容を、初対面の相手に開示する理由はないと判断した。


「そうですか……」


 少しの間があったが、その間は焦りを含んだものではなかった。


「それより、その呼び方は……やめてくれないか」


 ルシアンは一瞬だけ目を細め、それから軽く頷いた。


「では失礼。レンと呼ばせていただこう」


 丁寧さは崩さないが、距離は半歩だけ縮まった。その変化を確認しながら、レンは次の言葉を待った。


「私はイリーナ様のことを案じています。彼女は非常に優秀な方です。魔力も、知性も、観察力も。しかし、アステリア家が彼女に与えている目的が、その能力に見合っていないと、そう感じています」


「それは一体、どういう意味だ」


「血統強化と遺伝子の管理。それだけのために、あれほどの能力を持つ方が存在することが、もったいないと感じています」


 その言葉に、レンは静かに反応した。


 自身がイリーナに言った言葉と同じだった。しかし、出所が違っていた。レンがイリーナに言った言葉は彼女自身への問いかけだった。


 ルシアンが使う時、それはイリーナを外側から評価する言葉として機能していた。内側から言うか外側から言うか、それによって言葉の重みに違いが出る。


「ヴァレンティス家は、アステリア家の血統管理について、家としてどう見ているのか教えて欲しい」


「家としての立場と、私個人の考えは異なります。個人としては人を遺伝子の器として扱うことに、少し違和感を覚えます」


「だが、ヴァレンティス家も魔術家系であるなら、代々同じことをしているのではないか」


 ルシアンが、わずかに視線を落とした。


「……おっしゃる通りです」


「矛盾を自覚しながら、その矛盾の中に留まっている、ということか」


「留まっている、というより出る方法がまだわからない、という方が正確です」


 方法がわからないのか、方法を探していないのか、それとも出ようとする意志が本当はないのか。外側からは判断できない。レンはその3つの可能性を並べたまま、次の問いを選んだ。


「イリーナを案じている、と言ったな。具体的に何をだ」


「彼女の行動の方向が、彼女自身を消耗させる方向に向かっている気がします。アステリア家の目的を果たすために自分を使い切ろうとしている。その先に、イリーナ様という個人が残るのかどうか」


「それは、個人的な感情からくる心配か」


「そうかも……しれません」


 ルシアンが認めた。


「イリーナ様とは、幼い頃から何度かお会いしています。その頃の彼女と、今の彼女が変わっていないのかを確かめたいと思っていました」


 その言葉は静かだったが、底に沈む響きは重かった。幼き日のイリーナ。その像をレンは持たない。彼の知る彼女は、今日出会ったときの姿だけだ。


 だからこそ、ルシアンの言葉は微かな歪みを帯びて胸に残る。今の彼女は変わった後なのか、それとも最初からこの形だったのか。ルシアンの言葉は確かに一つの示唆を持っていた。


「今日、直接確かめるつもりはないのか」


「そのつもりで来たのですが――」


 ルシアンは言葉を切り、わずかな沈黙を挟む。その間は短いはずなのに、空気は妙に重く、何かを選び取るような静けさがあった。


「あなたと話をして、先に確認すべきことがあると思いました」


 そう告げて、彼の視線がレンへと向けられる。その眼差しは穏やかでありながら、内側を覗き込むように鋭かった。


「あなたの話し方は――アステリア家の論理を内面化した者のものではない。家の価値観を前提とせず、外側から世界を見ているようだ。それがどこから来るのかを確かめたい」


 静かな断定だった。だがその言葉は、皮膚の下へと入り込むような温度を持っている。


「そんなこと、何のために確かめるんだ」


「この世界について、いつか話せる相手かどうかを判断するためです」


 淡々とした声だった。それでいて、その言葉だけを不思議と重く残した。


 中庭の魔術灯が、ふっと明るさを増した。夕刻はすでに沈みかけ、空の色は深い群青へと移ろっている。光と影の境界が、ゆっくりと滲んでいった。


 そのとき、ルシアンが立ち上がる。動きは滑らかで無駄がなく、まるで次の段階へ移行する合図のようだった。


「一つ、お願いがあります」


 声の調子がわずかに変わる。礼儀を保ったままだが、明確に何かを求める響きだった。


「魔術の手合わせをお願いできますか」


 レンはその申し出に、思わず固唾を飲んだ。


「今日、初めて会った相手に手合わせを申し込むのか。珍しいな」


「ヴァレンティス家では、言葉より先に手を合わせることを重視します。相手の力量を知ってから、改めて言葉を交わす、という習慣です」


 ここで申し出を断れば、「アステリア家の人間が手合わせを拒む理由」を探られ、魔力ゼロという最大の隠蔽事項に踏み込まれる危険がある。だからこそ、疑いの目を逸らすために退路を断つために選ぶべき選択肢はひとつしかなかった。


「……わかった、手合わせをしよう」


 レンの承諾を聞いた瞬間、ルシアンの瞳の奥で静かな熱が弾けた。


 二人は中庭へと移動する。月明かりに照らされた石畳の上で、数メートルの距離を置いて対峙した。


 夜の冷気が肌を刺すが、ルシアンの周囲だけは大気が細かく震え、陽炎のような歪みが生じている。彼はゆっくりと右手を掲げ、指先をレンに向けた。


「では――容赦はいたしません」


 その宣言と同時に、ルシアンの足元から漆黒の幾何学模様が展開され、凄まじい密度の魔力が大気を押し潰した。


 レンが防御の構えをとる暇さえ与えず、空間そのものが軋みを上げて断裂し、そこから溢れ出した「未知の光」が視界を真っ白に染め上げる。


「ヴァレンティスの流儀、その真髄をお見せしましょう」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ルシアンの影が生き物のように膨れ上がり、レンの足元を瞬く間に侵食した。


 レンが地を蹴って回避しようとしたその刹那、背後から突きつけられたのは冷たい刃の感触ではなく、逃げ場を完全に封じるように展開された多重の魔術障壁だった。


 さらに、ルシアンが掲げた手の中に凝縮された魔力は、およそ「手合わせ」の範疇を逸脱した、周囲の空間そのものを崩壊させかねないほどの激しい咆哮を上げ始める。


 レンは直感した。目の前の男が今放とうとしているのは、自分を試すための小細工などではなく、この一撃で全てを終わらせるための「本気」であるということを。


 レンの背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。


 「手合わせ」という言葉から、初撃は互いの力量を測るための牽制が来ると計算していた。


 しかし、目の前で展開されているのは、小手調べなどという生易しいものではない。ただの理不尽な災害だった。


 学院随一の魔術師、ルシアン・ヴァレンティス。その名が伊達ではないことを、肌を焼くような魔力の圧が容赦なく教えてくる。


 魔力を一切持たないレンの身体にとって、それは文字通り、身一つで暴風雨の中心に放り出されたような絶対的な無力感だった。実力差などという言葉では生ぬるい。ただそこに立っているだけで、すり潰されそうになる。


(どう凌ぐ? 何をぶつければいい……?)


 心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに渇く。多重障壁で退路は完全に断たれた。回避は不可能。防ぐしかない。だが、レンに魔力による障壁など張れるはずもない。


 視界を覆い尽くすほどの光。あの熱量、波長、そして大気の震え。魔法という非科学的な事象を、無理やり自身の知る科学の土俵へと引きずり下ろす。


(光の収束……なら、屈折と拡散でエネルギーの指向性を散らす。使えるのは――)


 袖の奥、隠し持った数種類の試薬の小瓶に指先を這わせる。ガラスの冷たい感触だけが、狂いそうな恐怖を現実に繋ぎ止めていた。


 一つでも計算を間違えれば、文字通り消し炭になる。それでも、生き残るためには「拮抗するだけの魔力を持つ者」として振る舞い、化学反応で奇跡を装うしかない。


 震えそうになる膝を意志の力で縫い止め、レンは迫り来る死の光を見据えた。

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