4話:母の論理
使者が訪ねてきたのは、昼過ぎのことだった。
廊下を一人で歩いていたところを学院の事務職員に呼び止められ、「アステリア家のご関係者の方が、面会をご希望です」と告げられた。
「またイリーナか?」
「いいえ、別の方です。エレオノーラ様と名乗られました」
聞いたことのない名前だった。
家令から届いた書状には、イリーナの来訪だけが記されており、イリーナ以外の訪問については何一つ触れられていなかったはずだ。
「場所は来客応接室を用意しております」
来客応接室は授業棟の一階にある。学院が訪問者のために設けた部屋で、椅子が四脚、長机が一つ。壁には防音の術式が薄く刻まれている。
学院側の管理下に置かれた、正式な面会のための空間だ。
来客応接室の扉を開けると、一人の女が立っていた。
三十代の半ばか、後半か。年齢の読みにくい顔立ちをしている。
背筋が真っ直ぐで、その立ち方がイリーナに似ていた。いや、逆だ。イリーナがこの女に似ているのだ。
銀の髪ではなく、濃い茶色の髪だったが、目の色が薄い赤みを帯びている。イリーナの赤い瞳ほど鮮明ではない。薄く、くすんだ赤色だ。
「レン・アステリア様」
穏やかな声だった。感情が乗っていないのはイリーナと同じだが、質が根本的に異なる。イリーナの平坦さは欠如から生まれるものだが、この女の落ち着きは制御から来ている。何かを持っていて、それを表に出さないでいる。
「エレオノーラと申します。イリーナの母です」
礼儀正しく、正確な角度で頭を下げた。
「エレオノーラ様、座ってください」
レンに促され、エレオノーラは一瞬だけ間を置いてから椅子へ手をかけた。木製の脚が床を擦る低い音が、室内に細く走る。
それを確かめるように、レンも向かいの椅子を引く。正面に位置を定めて腰を下ろし、二人の間に机を挟んだ距離が生まれた。
「突然の面会を申し込み、失礼しました」
「別に構わないです。用件は何ですか?」
エレオノーラが、レンを見た。測る目ではなく、確認する目だ。
「今日、イリーナがご迷惑をおかけしたのではないかと思いまして」
穏やかな口調だったが、その視線はわずかも揺れていなかった。
「別に迷惑とは思わなかったですが」
「そうですか、ならよかった」
エレオノーラの口元がかすかに動いたが、笑みというより、相手の反応を確かめたときの微細な変化だった。
「あの子から、何か言われましたか」
「ええ、まぁ……色々と」
曖昧な返答は、その場にわずかな余白を落とした。
エレオノーラはその間を受け止めるように、一呼吸分だけ沈黙を挟んだ。
「あなたと、将来を見据えたお話も?」
直接的な言い方は避けているが、彼女の意図は明確だった。
家同士の結びつきではなく、血を繋ぐことを前提とした未来の話だ。個人の感情とは切り離された、家としての継承に関わる取り決めのことである。
レンは答えなかった。
沈黙が、そのまま答えになると理解していたからだ。
エレオノーラは小さく息を吐いた。
その息には驚きよりも、想定の範囲内だという諦観が混じっていた。
「跡を繋ぐことを視野に入れた約束を、あの子は口にしましたか」
言葉はさらに婉曲になるが、意味は一層具体的だった。
「イリーナのことを止めようとは思わないのですか」
選択の所在を確かめるように置かれた問いだった。
「はい、止める理由がありません」
「俺とイリーナは兄妹だ。あなたはこれが倫理的におかしいことだとは──」
「兄妹と言っても母体が違います。別に珍しいことでもないでしょう」
「あなたも、そう思っているのか……」
「私は――」
エレオノーラが、少し間を置いた。
「あの子の目的を、否定する立場にありません」
「それは母親として言っているのですか?」
「あの子の母親だからこそです」
レンは、その言葉の構造を確認した。
母親だから否定しない。その論理が成立する前提が、この女の中にある。
「あなたはイリーナのことをどう思っているのか、聞かせてもらえませんか」
エレオノーラが、レンを見た。
「なぜ、そんなことを聞くのですか」
「俺はイリーナの考えが理解できない。でも、イリーナのことを少しだけでも理解できれば――そう思っています」
「……理解して、どうするつもりですか」
「まだわかりません。でも、理解せずに判断するよりは、理解してから判断した方がいいでしょう」
エレオノーラは視線を机の上に落とした。
「あの子には、魔術師として生き残る方法を教えてきました」
「生き残る方法とは?」
「この世界で、アステリア家の子として生き残るための。感情は、その邪魔になることが多い。だから感情に振り回されないよう、論理で考えることを優先するよう教えました」
「本当にそれが正しいと思ったのですか」
「私の教えがすべて正しいとは思っていません。ただ、必要なことだと思いました」
正しさと必要性。エレオノーラは、その二つを同一視していない。その区別が、この女の中に残っている。
「リディア様のことは、ご存知ですか」
「俺の母だ」
「リディア様は、アステリア家の母体となることを自分で選ばなかった。選ぶ機会を与えられなかった。だから、あのような状態になったのでしょう」
言葉として選ばれたのは、その表現だった。
「あなたは選んだのか」
「はい。私は自ら選びました」
「それは何故ですか」
「アステリア家の子を産む機会を与えられることは、魔術師として最高の栄誉だと判断したからです。私の魔力は当時、中堅の水準でした。単独では、大きな業績を残せない。しかし、アステリア家の血と組み合わせることで、次の世代に最高の魔術師を生み出せる。それが、私が貢献できる最善の方法でした」
「貢献……? 誰に対して……?」
「魔術師社会への。そして、イリーナへの」
レンは、その言葉の着地を待った。
「イリーナを産んだことが、イリーナへの貢献だと言うんですか」
「最高の条件で生まれさせることが、私にできる最善でした」
「彼女に対して、愛情は持っていないのですか」
「愛情と、最善を尽くすことは、別のことですから」
エレオノーラが続けて言った。
「私はイリーナを愛しています。しかし、その愛情は感情的な執着ではありません。あの子が最高の魔術師として生きられるよう、必要なものを与えることが、私の愛情の形です」
エレオノーラの言葉は、整合している。論理的に崩れていない。
愛情の定義を変えることで、すべての行動が一貫した体系の中に収まっている。だが、その体系の中にイリーナの感情が入る余地がない。
「イリーナは今、何を望んでいるか。あなたにはわかりますか」
レンが問うと、エレオノーラはわずかに目を細めた。
「遺伝子の話ですか」
「ああ、そうだ」
「……あの子が、そこまで言いましたか」
エレオノーラの口元がかすかに動く。
先ほどとは違う、どこか苦味を含んだ変化だった。
「あの子らしい選択だと」
感想のようでいて、評価でもある声音だった。
「もう一度聞きます。止めようとは思わないのですか」
レンの問いに、彼女は即座には答えなかった。視線を伏せることも逸らすこともせず、ただ一度ゆっくりと瞬きをする。
「アステリア家の者として、優秀な次世代を生み出すことを望むのは当然のことです。血を繋ぎ、資質を選び、家の力を保つ。それはこの家に生まれた者が、幼い頃から教えられる前提です。あなたもまたアステリア家の者ですから、同じ価値観を共有しているはずだと、あの子は考えているのでしょう」
淡々とした説明だった。そこに羞恥も誇りもない。ただ構造を述べている。
「俺は、あなたやイリーナと同じような価値観を持っていない」
レンの声は低く、はっきりしていた。
エレオノーラは初めて真正面からレンを視界の内に捉え、探りを入れるような視線を向けた。
「なぜですか? 理解に苦しみます」
単なる好奇心ではない。
家の枠組みから外れる理由を確かめる問いだった。
「人間を遺伝子の組み合わせとして扱うことが、俺は正しいとは思えない」
言葉にすると単純だが、その単純さこそが立場の違いを明確にした。
「あなたも、そうして生まれてきたのに?」
指摘は冷静で、責める調子はない。ただ事実を突きつけるだけだった。
「だからこそです」
その答えから視線を外さないまま、部屋の空気がわずかに沈む。
壁の術式の刻み線が薄く光り、魔術灯の明かりが室内を均等に照らしていたが、その均質な光の中で、二人の間の距離は縮まらない。
「リディア様は、今も安定していますか」
「安定という言い方が正確かどうかわからないが――変わっていない様子でした」
「そうですか」
「あなたはリディアのことを、どう思っているのですか」
「哀れ……だと思っています」
迷いがなく、即答だった。
「気の毒なことだと思いますが、選ばなかった者が、あのような状態になったのは当然の結末でもあります。私が選んだのは、あのような状態を避けたかったから、という理由もあります」
「自分を守るために選んだということか」
「はい。当然の選択でしょう」
エレオノーラはあっさりと認める。
「イリーナへの情と、自分を守ること、あなたにとってはどちらが大事なのですか?」
「その二つを切り離して考えたことが、私にはありません」
整合した体系の中に生きている人間が、その体系の外側から来る問いに対して、初めて「わからない」と言った瞬間だった。
「一つだけ、聞かせてください。イリーナには幸せになって欲しいとは思わないのですか」
「幸せ……ね」
その言葉が空気に溶けるまでの間、エレオノーラは何かを探すように視線を動かさなかった。
「その言葉の意味を、あの子に教えたことがありませんでした」
その一言は、ただ事実を述べただけの形を取りながら、底に沈んだものをわずかに滲ませていた。
「なぜ教えなかったのか」
「必要ないと思っていたから」
「今も、そう思うか」
問いは低く置かれ、その余韻が室内にゆっくりと沈んでいく。
エレオノーラは言葉を探しているというより、形にならない何かをそのまま受け止めているようだった。
「……わかりません」
それは、これまで彼女の内側を支えてきた整然とした体系から零れ落ちた言葉だった。積み上げられた理の外側で、行き場を失った思考が、そのままの形で口にされたようでもある。
エレオノーラは視線を逸らさず、レンを見据えたまま答える。
その声には、これまで保たれていた均質さとは異なる揺らぎが、ほんのわずかに混じっていた。
「あなたに言われるまで、考えたことがなかった」
その告白は、理解の不足を示すものではなく、触れられてこなかった領域の存在を初めて認める響きを含んでいた。
「一つだけ、俺からも言わせてください」
「どうぞ」
「あなたがイリーナを想う気持ちが少しでもあるのならば、イリーナに幸せという言葉を一度だけでいい。あなたの口から教えてみてください」
エレオノーラが、レンを見た。意図を確認する目だ。
「あなたは、イリーナのことを、どう思っているのですか」
「俺の妹だ」
「それだけですか」
「俺にとって彼女は、それ以上でもそれ以下でもありません」
エレオノーラが、また口の端を動かす。
今度は、笑みに近い動きだった。
「そうですか」
それだけ言って立ち上がり、頭を下げた。
「面会の時間をいただいて、ありがとうございました」
扉が開かれると、エレオノーラは振り返ることなく外へ出る。
レンは椅子に座ったまま、身じろぎひとつしなかった。
リディアとエレオノーラ。
同じアステリア家の母体という立場に二人は存在している。
一人は自ら選ばず、そのまま意志を失った。
一人は自ら選び、誇りを持って生きている。
どちらが正しい選択なのかは、わからない。
どちらが幸せな選択なのかも、わからない。
ただ、どちらもこの世界の理の中で、それぞれの形に収まっている。
その理の外に出た者はまだ、いなかった。




