3話:彼女を象るもの
来客用の応接室が、授業棟の一角にある。
家令からの書状に「必要があれば使用せよ」と記されていた部屋だ。午前に使った小部屋より広く、椅子が四脚、長机が一つある。窓は一つだけあり、中庭に面している。外から人の目が入らない角度だった。
イリーナが先に入り、窓を背にする位置に座った。
光を背負う席だ。
彼女は、相手の表情をよく見える位置を自然に選んだ。
「座って、お兄様」
レンは向かいの椅子を引いた。
イリーナの顔は逆光で見えにくく、自分の顔が明るく照らされている。
(不利な位置をさりげなく押し付けたな……)
イリーナの策略には気づいていたが、何も言わずに座った。
「案内してくれて、ありがとう」
イリーナの声は既に、先ほどまでの礼儀正しい声ではなく、二人きりの時の平坦な声に変わっている。
「お前の目的は案内じゃないだろう」
「ずいぶん直接的ね」
「遠回りするのは好きじゃないからな」
「私もよ。話が早くて助かるわ」
赤い瞳がレンを見た。逆光の中でも、その色は消えない。むしろ光を吸収して、深くなる。
「ところでお兄様、一つ聞いていいかしら」
「聞くのは自由だ。それに答えるかはまた別の問題だが」
「お父様は、お兄様のことを何と言っていると思う?」
レンは、答えを急がなかった。
「財産……と言ったところだろう」
「正解よ」
感情の起伏がない声色でイリーナが綴っていく。
「私もそう聞いている。お兄様はアステリア家の至宝であり、財産だって。だから、価値がある」
「その"価値"がわかっていて、俺に近づいているということか」
「ええ、もちろん」
迷いのない返答だった。
「お兄様の遺伝子と私の魔力が合わされば、次の世代はきっと最高の魔術師になれる。それを成就させるのが私の目的よ」
この少女の言葉には、嘘がない。嘘をつく必要性を感じていない。目的を隠す理由がないから、そのまま言う。それが彼女の論理の構造だ。
「一つ、聞いていいか」
「ええ、どうぞ」
「お前は、自分の言っていることがおかしいと思わないのか」
イリーナが首を傾けた。
「おかしい?」
「俺たちは兄妹だ。倫理的に——」
「それ、さっきも聞いたわ」
感情的に遮ったのではなく、繰り返すことをさせない。そんな遮り方だった。
「倫理という概念が、お兄様の中では重要なのね。でも私には、それが何を意味するのか、まだよくわからないの」
「……本当に、わからないのか」
「わからないわ」
その答えには、一切の躊躇がなかった。
「魔術師の家系において、優秀な血を濃縮することは正しいことだと教わってきた。異母兄妹の間で子を成すことだって別に珍しくない。近親の交配が魔力を高めることは、アステリア家の歴史が証明している。それのどこが、おかしいの?」
レンは、その言葉を分解した。
近親交配が魔力を高める、という前提がある。
前世の遺伝学の知識で言えば、近親交配は特定の形質を固定する効果がある。一方で、有害な劣性遺伝子が顕在化するリスクが急増する。
集団の遺伝的多様性が失われれば、環境変化への適応力が下がる。短期的な形質の強化と、長期的な脆弱性の蓄積が、常に代償となる。
だがアステリア家は、短期的な強化だけを見てきた。長期的なコストを見ていないか、あるいは意図的に無視してきたのか。
そして、イリーナ自身がそのコストの一形態である可能性を考えた。
遺伝的多様性の喪失は、身体的な問題だけに現れるとは限らない。
神経系への影響、行動特性への影響——それがマナ汚染と組み合わさった時に何が起きるか、この世界ではまだ誰も体系的に調べていない。
「他者や歴史に教わってきたことが、すべて正しいとは限らない」
「そうかもしれないわね」
イリーナは否定することなく、頷いた。
「でも、正しくないと証明されていないものを否定する理由もないでしょう」
「リスクがある」
「どこにリスクがあると言うの?」
「近い血同士の交配は長期的に、系統を弱くする可能性がある。お前の目的が"アステリア家の血統強化"であるならば理に適っているとは言い難い」
イリーナは少し考える表情を見せ、間を置いた。
「面白い見方をするのね」
あくまでもそれを、一情報として受け取った反応だった。
「でも、アステリア家は何世代もかけてその方法を採ってきた。弱くなった形跡はない」
「あくまでも、今のところはだろ。先のことを考えれば──」
「先のことなんて誰にもわからないでしょう。私には関係ないわ」
論理的だった。反論として成立している。レンが言える「長期的なリスク」は、この世界では証明されていない。証明されていない危険性を根拠に現行の方法を否定することは、イリーナの論理の中では成立しない。
「大丈夫よ、安心して。悪いようにはしないわ」
イリーナは穏やかに続けた。その声音には揺らぎがない。感情を宥めるための優しさというより、事実を提示する冷静さだった。
「前も言ったでしょう? 私、お兄様を愛していないもの」
レンは、その一文を正確に聞き取った。
聞き流さず、曖昧にせず、言葉の形のまま受け取った。
愛していなければ、問題はない。
愛があれば、倫理になる。
つまり、そこに愛情が存在しなければ、目的と手段の話に還元できる。
彼女が述べる論理は、そういう構造だ。
続けて、イリーナはわずかに微笑んだ。
「愛し合っていなければ、営んではいけないのかしら?」
本気で問いを立てている目をしていた。倫理を揺さぶるためではなく、純粋に定義を確認することが彼女の目的だった。
「それはまだ──俺にもわからないが」
曖昧な返答になると理解したうえで、レンはそう答えた。断定できるだけの整理が、自分の中にまだ存在していなかった。
しかし、イリーナは一歩も引く様子を見せない。
「お兄様、あなたのことが必要なの」
静かに断言した。
「それに――」
そう続けて、彼女は自分の胸元に手を当てた。
誇示するでもなく、ただ事実を示すための仕草として。
「身体も、もう成熟している。子を成すのに十分」
自分自身を、条件の一つとして提示しているだけのような、あまりにも分析的な口調だった。
レンは視線を逸らした。
この女を見てはいけないと直感が告げている。容姿でも仕草でもなく、その発想の構造を、正面から受け止めてはいけないのだと。
「お兄様の遺伝子が、私には必要。愛情とは別の話よ。感情と目的を混同するから、複雑になるの。分けて考えれば、単純なこと」
単純なこと。その言葉が、胸の奥に沈んでいく。
理屈としては整っている。目的と手段は明確で、前提も一貫している。矛盾も飛躍もない。だが整いすぎているからこそ、そこに決定的に欠けているものが浮き彫りになる。
人間を条件の集合に還元しきることへの躊躇だ。その欠落こそが、レンの胸に抵抗を残していた。
単純かどうかは、理論の問題ではない。それを選ぶのが誰かという問題だ。
感情と目的を分ける。愛情を排除して、必要性だけを残す。
それが「合理的」だと、この少女は本気で信じている。
信じているというより、それ以外の考え方を知らないのだろう。
前世の言葉で言えば、感情的共感の欠如と呼ぶことができるかもしれない。
彼女はおそらく、他者の感情を自分の感情として受け取る回路が機能していない。
「お前は、自分が"普通とは違う"と思ったことはないか」
イリーナは珍しく、長い沈黙を置いた。
「……思ったことはあるわ」
「それはどんな時に感じたか、教えて欲しい」
「他の子供たちが理由もなく笑ったり、泣いたりする時かしら。私には、その理由がわからなかった」
「それを不思議に思ったのか」
「不思議というより、感情に振り回されるのは"効率が悪い"と思ったわね」
効率。その言葉の選択が、すべてを説明していた。
「お前が今の状態になったのは、いつ頃からだ」
「……? 私は最初から何も変わってなんかいないわ」
イリーナは、窓の外に視線を動かした。
「魔術の訓練を始めてから、より物の見え方が鮮明になった気がするの」
マナへの過度な依存と、それに伴う神経系への影響――胸中で積み上げてきた仮説が、また一段、重さを増して沈む。確かに符合はある。
だが、それでもなお決定打には届かない。掴みかけた糸は、指先をすり抜けるまま、因果ではなく、ただの相関として宙に留まり続けていた。
「お前は、今の自分がおかしいと思わないのか」
「おかしい……という言葉の定義がわからないの」
イリーナが、視線をレンに戻した。
「多数派と違うってこと? それなら、確かにそうかもしれない。でも、多数派がすべて正しいとも限らないでしょう」
「今は倫理の話をしているんじゃない」
「じゃあ、何の話?」
「お前が、何かを失っているかもしれないという話だ」
イリーナの赤い瞳の中で、何かが動いた気がした。
「失っている……何を?」
イリーナは、その言葉を反芻するように繰り返した。
「俺も断定できることではないが──お前が当然だと思っていることは、他者から見れば当然ではない可能性がある。その視点が欠落している」
イリーナが、わずかに首を傾けた。
「お兄様が私を哀れんでいる、ということ?」
レンは即座に否定の言葉を差し出しかける。だが、唇の内側でそれはほどけ、音になる直前で崩れた。
胸の奥で、曖昧な感触がわずかに広がる。否定できるだけの確信も、肯定してしまうだけの単純さも、どちらも見当たらない。
「哀れんでいるというより、それは勿体ないことだと思っている」
「勿体ない? 何が?」
「お前はそれだけのものを持っているにも関わらず、たった一つの目的だけに使っていることだ」
今度の沈黙は、以前のものとは質が違った。
「それは、お兄様にとって都合のいい評価ね。私の目的を変えさせたいから、そういう言い方をするんでしょう」
「違う、そういうことが言いたいんじゃない」
「じゃあ何?」
「ただ、思ったことを言っただけだ」
レンは少しだけ息をついた。
「お兄様の方こそ、変わっているわ」
「どうしてそう思うんだ」
「こういう話を、私にする人間なんて誰もいなかったから」
レンは視線を窓の外に移し、光と影が交錯する中庭を眺めた。自分が考えていることを言葉にして確認するように。
「おかしいと思わなかった周りの人間こそ、どうかしていると思うが……」
「言う意味がないと思うのでしょう。私の目的は誰に何と言われようと変わらないから」
「でも、お兄様の言葉は面白いとは思った」
この少女にとっての最大限の評価が、「面白い」という言語に収束している。
「……用件は終わったか」
レンは言った。
「今日のところはね」
イリーナが椅子から立ち上がった。銀の髪が、光の中で揺れた。
「またあとで話しましょう、お兄様」
イリーナは妹だ。血を分けた兄妹であり、その事実は動かしようがない。それ以上の意味も、それ以下の含みも、本来は存在しないはずだったが――
「身体も、もう成熟している」
感情を交えず、条件を提示するだけの声音が思考の奥に残って離れない。
その冷静さがかえって生々しく、余計な想像を排除するどころか、逆に輪郭をはっきりさせてしまう。
問題は、彼女の論理を「整合している」と評価してしまった瞬間が、確かにあったことだ。
感情と目的を分ける。愛情を排除して、必要性だけを残す。その構造を、理屈として一度でも「崩れていない」と処理してしまったこと自体が、ひどく不快だった。
相手を条件の集合に還元しながら、その論理の整合性を評価する。自分が今やったことは、まさにそれだった。
やめろ、と心の中で命じる。
論理の正しさと、倫理的に正しいことは別の問題だ。理屈で整理できる問題ではないとわかっているからこそ、なおさら厄介だった。
胸の奥に残るざらつきが、自然に薄れていくのを待つしかなかった。




