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2話:査定する赤い瞳

 廊下を歩くイリーナの気配は、どこまでも静謐だった。


 足音そのものが消えているわけではない。靴底が石を踏む硬質な響きは確かに存在するのに、それは周囲のざわめきに溶けず、ただ一つだけ切り離された線のように耳に残る。


 学生たちの足音が背景へと沈むのに対し、彼女のそれだけが独立して在り続ける、孤立した音の輪郭だ。


(マナの密度が、まだ高いままだ)


 胸元の星光石が、低く、絶え間なく応答を返していた。3歩分の距離を保っていてなお、その影響は薄れない。これほど安定してマナを放出し続ける存在を、レンはこれまで見たことがなかった。揺らぎでも暴走でもない、水が流れるように途切れない放出だ。


 彼女は魔力を抑えていない。少なくとも「絞る」という意味での制御は行っていなかった。だがそれは未熟さではなく、むしろ別種の完成に近い。漏れ出して空間を乱すでもなく、奔流のように荒れるでもない。ただ自然の形で一定の密度を保ち続けている。


 その存在だけで、空間の質がわずかに変わる。息苦しさではないが、重心が静かに下がるような圧。敵意も威嚇もないにもかかわらず、ただ「そこにある」という事実だけで伝わってくる威圧。


 本来なら幼少期に叩き込まれるはずの技術――魔力は抑えるものだという前提が、彼女には見当たらない。できないのではなく、必要とされなかったのか。それとも、抑える理由そのものが存在しなかったのか。


「授業棟の二階が、理論魔術の教室だ」


 レンは前を向いたまま告げる。


「三階が実技室。地下が魔術炉――実験用のマナ供給設備がある」


「地下も見られるの?」


「今日は難しい。管理の許可が要る」


「そう、それは残念」


 それだけで終わる反応は、感情ではなく処理の完了を示していた。


 階段を上がる途中、イリーナが再び口を開く。


「お兄様は、どの授業が得意なのかしら」


「基準が曖昧だが……理論は問題ない」


「実技の方は?」


「それなりに」


「謙遜しているの?」


「いや、事実だ」


 わずかな間が落ちる。


「お兄様の術を、少し見せてもらえる?」


 その一言に、レンは三歩分だけ思考を巡らせた。偽装には準備が要る。だがここで拒めば、それ自体が不自然になる。


「実技室が空いていればいいが……」


「ありがとう」


 礼は形式として置かれただけで、そこに温度はなかった。


 3階の実技室は空いていた。広い空間に薄く刻まれた観測結界、わずかに色の違う床面、整然と寄せられた標的。その全てを一瞥で把握しながら、レンは中央へと歩み出る。


「――解放」


 詠唱が流れる。意味を宿さない音の連なりが、表層ではただ滑らかに続き、その裏側で指先が正確な手順をなぞっていく。

 人差し指と中指、それぞれに忍ばせた異なる液体が、動作の終端でそっと触れ合い、境界が消える。


 次の瞬間、指先から青白い枝状の光が空気を引き裂いた。


 温度差と電位差。条件が揃えば、あとは現象が自ら進行する。計算も命令もいらない。世界がそのまま答えを選び取る。


 マナは介在していない。


 乾いた破裂音が閉じた実技室の壁に跳ね返る。遅れて、空気がわずかに変質し、鼻腔の奥に金属を含んだ匂いが残った。帯電した気配が、肌の上をかすめていく。


 沈黙の中で、イリーナは、光の消えた空間を見ていた。残像だけが、そこにまだ留まっているかのように。


「揺らぎを何も感じなかった……」


 それは感想ではなく、観測結果の整理だった。


 問いが重なり、検証が進む。再現性への着目、揺らぎの欠如への違和。彼女の視線は一貫して「確かめる」ためのものだった。


「もう一度、見せてくれる?」


 距離が、静かにほどけるように縮まっていく。触れはしない。それでも、互いの呼吸がかすかに触れ合うほどの間合いまで踏み込まれ、銀糸のような髪がさらりと揺れて、淡やかな香りが空気の層に溶け込んだ。


 しかし、その至近にあってなお、瞳だけは熱を持たない。揺らぐことなく据えられた視線は、情ではなく、ただ結果へと収束していく冷ややかな光を宿している。


 レンは断る理由を並べ、それが逆に疑問を深めると理解する。ならば、選択肢は初めから一つしかない。見せるほかにないのだと、思考は静かに結論へと沈んでいった。


「わかった」


 今度は指を変える。薬指と小指、別の組み合わせ。異なる二種が混合した瞬間――轟音が、身体に響いた。


 標的が吹き飛び、白煙が膨張する。風圧がイリーナの髪と外套の裾を後方へ流した。光ではない、衝撃が走る。一度目とは現象の種類が根本から違うものだ。


「さっきのとは少し違ったわね」


「マナの状態で結果は変わる」


「でも、お兄様の魔術から、揺らぎを感じないのは同じだった」


 その一言は、水面に落とされた針のように静かでありながら、確かに深部へと沈み、核心の層に触れていた。だがレンは、何も応じない。沈黙という薄い膜で応答を覆い、その下にある真実を、そっと伏せる。


 やがて、歩みが再びほどけるように動き出す。案内は何事もなかったかのように再開され、図書館、食堂と、あらかじめ引かれていた順路をなぞっていく。足取りは一定で、声もまた平坦に整えられている。だが、その均衡の裏側で、レンの思考だけは絶え間なく脈打っていた。


 再現性という檻。揺らがぬ色という楔。いまだ名を与えられぬ「なぜ」という空白。


 それらが絡み合い、彼の内側で軋みを立てる。


 イリーナは結論を出していない。ただし、それは停滞ではない。思考は止まらず、むしろ澄み切った刃のように研ぎ澄まされ、次の切断面を探している。


 廊下へ戻ると、魔術灯の光が石床に長く滲み、淡い影を引き伸ばしていた。二人の影は確かに並び、同じ方向へと伸びていく。


 それでもなお、決して触れ合うことはない。交わらぬまま、静かに、どこまでも。

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