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1話:最適解の提示

 石の冷たさが、指先から体の奥へと這い上がった。朝の廊下はまだ夜の残滓を抱えており、わずかな温度差さえ見逃さない。


 その先に、整いすぎた美貌と、内側から光る赤い瞳を持つ少女が立っていた。


 レンの胸元の星光石が、初めて熱を帯びる。世界が静止したように見え、空気そのものが彼女の一挙手一投足に従っている。


 小柄でありながら重心は安定し、視線も所作も無駄がない。意識して整えたのではなく、長い年月の中で矯正され、磨かれてきた型が呼吸のように現れている。

 銀の髪は光を受けて淡く揺れ、その存在だけで周囲の色彩から浮き上がり、近づくことをためらわせる距離を生んでいた。


 そして、赤い瞳がレンを捉え、少女は迷いなく歩き出した。


「レン・アステリア様でいらっしゃいますね」


 落ち着いた、平坦な声だった。感情の起伏をほとんど感じないが、声量の制御は精密で、必要な距離だけに届くよう調整されていた。


「お兄様、お初にお目にかかります。イリーナ・アステリアと申します。本日はご案内いただけるとのこと、よろしくお願いします」


 礼儀正しく、完璧な所作だった。頭の角度、言葉の選択、視線の収め方、長い時間をかけて染み込んだ型が、呼吸のように現れている。


 周囲の学生たちは一定の距離を保ちながら、その様子を静かに見守っていた。直接近づくことはなくとも、視線だけがそっと集まり、空気の端々に緊張の糸が張り巡らされている。


 アストレア家の令嬢が学院を訪れているという事実は、それだけで場の重心をわずかに傾けるほどの意味を持っていた。


「レンでいい。案内を始めよう。着いてきてくれ」


-----


 授業棟の東端に、来客用の小部屋がある。


 普段は使われておらず、鍵がかかっているが、家令から渡された書状に開錠の許可が含まれていた。


 訪問者との「私的な確認事項」のために使うように書き添えてあった。


 扉を開けると、長く閉め切られた部屋特有の古い空気の匂いに包まれ、そこには小さな机と椅子が二脚、向かい合っていた。


「どうぞ」


 レンが先に部屋へ入り、続いて扉を半開きにしようと手をかける。


「閉めていいわ」


 イリーナの声色が変わっていた。廊下で交わす礼儀を帯びた声音とは異なり、そこには装飾が削ぎ落とされたような平坦さと、意図を直接伝えるための簡潔さだけが残っている。


 扉が閉まる音と同時に、廊下の喧騒が消えた。


「……座るか」


「ありがとう」


 イリーナは椅子を引き、静かに腰を下ろした。その背筋はまっすぐに伸び、姿勢は一切の乱れがない。行儀が良いというよりも、他の座り方を知らないかのように固定されている印象だった。


「お父様から聞いていた通りね」


 文脈を繋ぐ前触れもなく、イリーナは唐突に言葉を落とした。


「一体、何を聞いていた」


「お兄様は無駄がない、って。話し方も、動き方も」


 赤い瞳がレンの全身を一度だけなぞるように動く。その視線には、対象を捉えて数値化するかのような冷ややかな精度だけが宿っていた。


「それと、思ったより静かな目をしているのね」


「……」


「お父様は異常なまでに、お兄様に執着しているわ。その理由が知りたいの」


 レンは椅子の背に体重を預けることも、姿勢を崩すこともなかった。わずかな変化すら観察の対象になり得ると理解しているからだ。


「だから、ずっとお兄様に会いたかった」


 イリーナはそう続けた。本来であれば、その一言には何らかの情や期待の揺らぎが滲むはずだが、そこにあるのは意味だけが抽出されたような平坦さだった。


「なぜだ?」


「確かめたかったから。お兄様が、お父様の言う通りの人かどうか」


 空気は動きを止めたのではなく、わずかに張り詰めた均衡を保っていた。


「それで、どう思ったんだ」


「まだわからないけれど、一つだけわかったことがあるの。お兄様は今、私のことを測っているでしょう」


 イリーナの答えには一切の迷いがなかった。言葉は淀みなく、結論として提示され、赤い瞳は逸れることなくレンを捉え続けていた。


「当たり前だろう。初めて会う人間を観察するのは、普通のことだ」


 イリーナは、わずかに首を傾けた。


「そうね。でも、普通の人なら、そこに感情が乗るわ。怖いとか、珍しいとか、なんとなく緊張するとか。お兄様からはそれを一切感じない」


「お前の方こそ、それがないように感じるが……」


「私には最初からないの」


 言葉が感情の揺らぎを伴わないまま、静かに置かれた。


 レンは、その軽さの奥に沈んでいる重さを測った。


 感情の欠如には、いくつかの型がある。先天的なものか、後天的に固定されたものか。どちらにせよ、回路そのものが変質している可能性が高い。


 イリーナは、そのどちらにも属しているように見えた。生来の性質が、繰り返された行動の蓄積によって、神経の道筋を書き換えていく。可塑性という言葉で説明できる現象が、この世界では別の形で現れている。


 マナへの高度な依存が、その変質を加速させる――そんな記述を、かつて読んだ文献の中に見た記憶がレンにはあった。曖昧だったはずの知識が、妙に輪郭を持って思い出されるのは、彼女があまりにもそれに合致しているからだった。


「そんなことより。ねえ、お兄様」


 イリーナの声の形が突如、甘やかな女の声に変貌する。


「私、お兄様の遺伝子が欲しいわ」


 その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに沈んだ。突飛であるはずの一文は、あまりにも自然な調子で発せられたために、現実感を削ぎ落としていた。


 レンはしばらく答えられなかった。言葉を探していたのではなく、イリーナの言葉が持つ意味を、余計な解釈を挟まずに正確に受け取ろうとしていた結果だった。


「……今、何と言った」


「聞こえたでしょう」


 イリーナの赤い瞳は微塵も揺れず、驚きも試そうとする色もなかった。


「お兄様の遺伝子が欲しい。お兄様と私の組み合わせは、最良のはずだから」


「何を言っているんだ? 俺たちは兄妹なんだろ」


「母親が違うだけよ。アステリア家ではそんなの珍しくもないことだわ」


 返答に淀みはなく、ためらいもない。その言葉の並びには、禁忌を踏み越えているという自覚すら含まれていなかった。


「お前、言っていることが倫理的に——」


「倫理?」


 イリーナはわずかに首を傾ける。その仕草はあくまで自然で、作為ではなく純粋な疑問として形を取っていた。


「それは何かしら。魔術の系統の話?」


 その言葉が落ちた瞬間、レンの胸元で星光石がじわりと熱を持つ。周囲のマナの密度がわずかに変化し、空気そのものが微細にざわめいたような感覚が走ったが、それ以上に目の前のやり取りの方が現実を歪めていた。


「……冗談で言っているのか」


「冗談は効率が悪いから、私は言わないわ」


「じゃあ、正気で言っているということか」


「そんなの当たり前じゃない」


 迷いのない返答だった。言葉は簡潔でありながら、その裏に揺らぎは一切ない。


「兄妹で愛し合うことはよくないって言う人がいるのは確かだけれど、心配いらないわ」


 イリーナは淡々と続ける。その声音には反論への構えも、相手を説得しようとする意図も感じられず、ただ事実を補足するように言葉を重ねているだけだった。


「だって私、お兄様を愛していないもの」


 その一文はあまりにも軽く、それでいて決定的だった。


 レンはその言葉を一度だけ内側で反芻する。愛していないという断定と、それでも遺伝子を求めるという目的、その二つは通常であれば結びつかないはずのものだが、イリーナの中では何の抵抗もなく並んでいる。


 愛情という過程を経由せず、最初から結果だけを選び取る思考には、逡巡も葛藤も存在せず、ただ目的と手段だけが、整然と配置されていた。


 彼女を変える方法が、レンには見えない。倫理を持たない者に倫理を説いても、言葉は届かない。届く回路を持たないからだ。


 怒りが芽生えるよりも早く、理解が先に到達していた。目の前の少女は、手を伸ばせば届く位置にいながら、すでに「救う」という枠組みの外側にいる——そんな確信が、冷たく思考の中に沈んでいく。


「断る」


 レンはそう言い切った。余計な言葉を削ぎ落としたその一音は、揺らぎを許さない硬さを帯びて、静まり返った空間にまっすぐ落ちる。


「どうして?」


「理由を説明する必要なんてあると思うか」


「あるわ。私はずっと、最良の選択肢を提示しているだけよ」


 イリーナの表情は、最後まで変わらなかった。計算結果が一致しないときに見せるような、わずかな停滞だけがそこに存在していた。


「俺には、お前の言う『合理的な判断』に従う理由がない」


「お兄様の遺伝子を残すことは、お兄様にとっても利点があるはずよ」


「俺はそう思わない。全くだ」


 短い沈黙が落ちた。


 それは言葉を探すための空白ではなく、会話そのものの終着点を見極めるための静かな測定だった。


「今日はお前を案内するためだけに来た。それ以外の話は、するつもりがない」


「……そう、残念だわ。良い話だと思っていたのに」


 イリーナは静かに椅子から立ち上がった。その動作には一切の迷いがなく、感情の影も読み取れない。整えられた表情を崩さぬまま扉へ向かい、その背で銀の髪が淡く揺れる。差し込む光を受けた一瞬だけ、白くほどけるようにきらめいた。


 扉の前で足を止めると、わずかな間を置いてから、ゆっくりと振り返る。


「でも、諦めてはいないわ」


 怒りも哀しみも滲ませない、抑揚のない声だった。


 レンが何も返さないことを確認すると、イリーナは静かに一歩だけこちらへ戻ってきた。続けて半歩、ためらいのない動きで距離を詰める。その接近はあまりにも自然で、拒む間を与えない。


 レンの呼吸がわずかに揺れ、無意識に息を呑む気配が生まれるが、イリーナはそれに一切、気を留めなかった。


 そしてレンのすぐ前で歩みを止め、わずかに顔を寄せる。その距離は傍目には不自然ではないはずなのに、声を落とせば耳元にだけ届くほどに近い。境界を越えてはいないはずの間合いが、静かに踏み込まれているような感覚だけが残る。


 淡い香りが、遅れて届いた。空気に溶けるようにほのかでありながら、確かにそこにあると意識させる距離の近さを伴っていた。


「お兄様はいつか必ず、私が必要になる」


 囁きは柔らかいが、確信に満ちている。


「その時まで待っているわね」


 最後の言葉は、吐息とほとんど区別がつかなかった。


 すぐに身を引き、何事もなかったかのように背筋を伸ばす。その一連の動作はあまりにも滑らかで、先ほどまでの距離の近ささえ錯覚だったかのように打ち消してしまう。視線も表情も最初と変わらず、整えられたまま揺らぎがない。


 イリーナが手をかけて扉を開くと、外のざわめきが一気に流れ込み、閉ざされていた空間に日常の音が戻ってきた。


 レンは椅子に座ったまま、一度だけ溜め息をついた。


 胸元の星光石がゆっくりと応答を収め、マナの密度が元に戻っていく。


 レンは答えを出さないまま、しばらく視線を落とした。血が繋がっているという事実が、切り捨てるための刃をわずかに鈍らせていた。


 だが同時に、どうすることもできないとも理解していた。同じ倫理を持たない者へ向けられる憐憫は、向けた瞬間に行き場を失い、ただ空転するだけの感情として残った。


 廊下の先に、白銀のしなやかな髪が揺れていた。光を受けて淡くほどけるその色は人の流れの中にありながらも決して埋もれず、むしろ周囲の景色から切り離されたように浮かび上がっている。


 そして彼女は、最初からそこに在ることが当然であるかのように、何の違和もなく静かに立っていた。


「では、続けてください。お兄様」


 礼儀正しい声が戻っていた。人目に触れる場にふさわしい、寸分の狂いもない整えられた響きで、先ほどまでの距離や気配をまるで最初から存在しなかったもののように覆い隠している。


 その落差こそが、この少女の本質を何より雄弁に物語っていた。外側に見せる完成と、内側に潜む空白とが、継ぎ目もなく同居しているという事実を。


 レンは何も言わずに、歩き出した。

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