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10話:閉じた流路

 その日、ミラベルは約束もなく研究室の扉を叩いた。


 音は二度だけ、控えめで、どこか遠慮を含んでいる。扉が開く前に、レンはその音で来訪者を識別した。ここに来る者の中で、あの叩き方をするのはミラベルだけだった。


 室内を見渡すミラベルの視線が、アルフレッドに触れた。少し躊躇う様子が指先の動きに表れ、膝の上で組んだ手が無意識に袖口を撫でる。


 アルフレッドが椅子を引き、立ち上がる動きが柔らかく空間を揺らした。レンはその反応を遮るように言葉を差し挟む。


「アルフレッドも、聞いてくれ」


 ミラベルは、促されるまま椅子に腰を下ろした。


 膝の上で手を組み直す。指先が長袖に触れている。口を開くまでに、少し間があった。


「定例の確認以外で来たのは、お二人に話したいことがあったからです。シルフィード家のことを」


 その声には、少しの震えがあった。


「子供の頃、定期的に連れて行かれる場所があったことを思い出したんです。白い塔のある大きな屋敷でした。そこで毎回、少しだけ採血されていました。それが何のためかは、聞かされていませんでしたが……」


 その規模の屋敷を持つ家は、そう多くない。いくつかの魔術家系の名が頭をよぎり、その一つに行き当たる。


 ――アステリア家。


 その固有名詞が頭の中に確定した瞬間、別の像がよみがえってきた。幼い頃の断片的な記憶だった。


 侍女たちが世話をしていた、レン以外の小さな子供たち。彼らの名前を知らなかった。そして、いつの間にかいなくなっていた。その事実に対して、今まで一切の疑問を向けたことがなかった。


「それは、いつ頃からだ」


「正確にはわかりません。物心ついた頃には、すでにありました」


 レンが次の問いをしようとした時、アルフレッドが先に口を開いた。


「なくなったのはいつかわかるか」


「3年ほど前だと思います」


 レンはその数字を、頭の片隅に置いた。


「儀式がなくなる少し前、家で何か変わったことはなかったか。人が来たとか、誰かがいなくなったとか」


 ミラベルはしばらく考え込んだ。無意識のうちに袖口を指先でつまみ、軽く握ったまま動かなかった。


「……人が来た、というより。誰かの話を聞かなくなった、という気がします」


「それは誰のことかわかるか」


「名前は知りません。家の者が、ある人のことを時々話していたのに、ある時期から全く話さなくなった。子供の頃の記憶なので、はっきりしないのですが」


「どんな話をしていた」


「……小さいとか、弱いとか。そういう言葉で、誰かのことを話していた気がします」


 レンはペンを持つ手を止めなかった。頭の別の部分で、計算が走っていた。


 血の契約。それが外部流路として機能していたなら——契約相手の消滅は、流路の閉鎖を意味する。

 閉じた回路の中でエネルギーが循環し始める。それが、効率化に見える。確証はないが、線がようやく同じ方角を向き始めていた。


「儀式がなくなってから、私のマナの流れが変わり始めた気がしています。でも、何が引き金になったのか、ずっとわからなかったのが今日、少しだけ……わかった気がします」


 羊皮紙を取り出す。数式ではなく、マナの流路を示す図だった。幾重もの矢印が円を描き、その外側には本来あるはずの流路が、途中で断ち切られていた。


 レンが図を受け取り、目を細める。マナが外部に流れず内部で増幅されている、異常な循環経路だった。通常の術者では外部への放出と内部循環の比率が保たれているが、ミラベルの図では外部への流路が閉じられ、すべてが内部に閉じ込められている。


「外部への流路が、ある時点で閉じたのだろう」


「はい。でも、なぜ閉じたのかは……」


「契約が切れた可能性があるんじゃないか」


 ミラベルの瞳が一瞬揺れ、羊皮紙を見つめる。アルフレッドの声が静かに続く。


「採血を通して、ミラベルのマナの一部は外部に流れていた。それが流路の役割を果たしていた。契約が切れてその流路が消えた時、マナは内部で迷い始めた。……その結果として、魔力の効率化に見えているのではないか」


 アルフレッドがレンに目を向けたが、レンは図から目を離さないままだった。


「ミラベル、この図をもらえるか」


「はい、どうぞ。持っていてください」


 少しの間を置いて、ミラベルが口を開いた。


「私の身体は、ずっと何かに使われていたのでしょうか……」


 声には怒りも恐怖もなかった。事実を確認しようとする静けさだけが、妙に冷たく残った。レンは視線を落とし、慎重に答える。


「使われていたという表現が正確かはわからない。ただ、お前の知らないところで、マナが何かのために使われていたことはほぼ確かだ」


「そうですか……」


「それについて、どう思う?」


「まだ、整理できていません」


 知識として受け取っただけで、実感がまだ追いついていない顔だった。レンは言葉を添える。


「整理できたら、また話してくれ。無理はしなくていい」


 ミラベルはすぐには立ち上がらなかった。膝の上の羊皮紙を、両手でゆっくりと折り畳んだ。角を揃えて、もう一度揃え直した。それから静かに立ち上がり、扉へ向かった。足音が廊下を遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 部屋に二人だけが取り残され、アルフレッドが溜め息をつく。レンは図を机に置き、慎重に言葉を選んだ。


「ミラベルの家と、アステリア家が繋がっている可能性がある。まだ仮説の段階で証明はできないが、俺の中では兄が二人いることしか確定していなかった。でも、もっと幼い頃、確かにいた。名前も知らない子どもたちが」


「そっか。それなら、可能性は十分にあるな……」


 夕暮れの光が傾き、中庭に長い影を落とす。アルフレッドが窓の外に目をやる。


「レン、この研究……増幅理論の構築だけ済まなくなってきたな」


 レンは答えず、代わりにミラベルの図をノートに挟む。


「マナの効率化と増幅理論は、同じ根を持つかもしれない」


「それ、詳しく聞いてもいい?」


「外部から流路を作ること、あるいは内部の流路を操作すること。ミラベルに起きている現象と、俺たちが設計している理論は現象としては近しい」


 アルフレッドは目を細め、納得の色を含む。


「つまり、ミラベルの体を解析すれば、増幅理論の実装に役立つ知見が得られる可能性がある」


「それはそうかもしれないが……」


「……ミラベルに話すべきか」


「まだ話さない。仮説の段階で話しても、不安を与えるだけだ」


「わかった、慎重にいこう」


 アルフレッドは頷き、追及はやめた。


 レンはノートを開き、今日の日付を書いた。ミラベルの図、外部流路の閉鎖という仮説、採血と契約の関係。事実だけを書いた。推測は書かなかった。


 書き終えてから、ペンを置いた。窓の外に目を向ける。石壁の向こうに、夕方の光が傾いていくのがわかった。


 自室に戻ってノートを閉じかけた時、扉の下から手紙が滑り込んできた。封蝋はアステリア家の紋章だった。公式の書状ではなく、家令の筆跡で書かれた事務的な通知だった。レンは静かに封を切り、紙を広げた。


"来週、イリーナ・アステリアが学院見学のため来訪する。案内役を務めるように"


 アステリアの姓を持つ女性の名前だった。


 3年前にいなくなった誰か。来週、初めて会うことになるイリーナ。別々の場所から来た情報が、同じ輪郭を示している。


 ノートにはまだ、空白のページが残っていた。

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