3話: 観察眼
研究棟から出たのは、夕方になってからだった。
アルフレッドとの議論が長引いた。魔力増幅理論の最終段階に入り、細部の検証に時間がかかっている。
それでも手応えはある。あと少しで、理論は完成に近づく。
廊下に出ると、夕陽が窓から斜めに差し込み、石床をオレンジ色に染めていた。
長い影が伸び、足音が規則正しく響く。
その上級生とすれ違ったのは、研究棟から寮へ向かう廊下の途中だった。
一度見れば忘れない、という印象の人間がいる。その上級生はそういう顔をしていた。
鋭い目が、常に何かを観測している。感情を表に出すでもなく、他者に関心を持つでもなく、ただ通り過ぎていく。
他の生徒と談笑しているのを見たことがない。いつも一人で、何かを測るように歩いている。
すれ違った瞬間、その上級生の足が止まった。
振り返る気配はない。ただ、廊下の真ん中で立ち止まり、少し間があった。
「一つ、確認していいかい」
問いでも命令でもない声音だった。抑揚が薄く、ただ言葉だけが空気を震わせる。
「……何だ」
「君が魔術を使った後の残滓、観測したことがある。先週の実技だ」
レンの呼吸が、わずかに浅くなる。表情は変えない。
「君のは、揺らぎ方が他と違う」
注意深く観察している目だ、とレンは思った。感情がわかりにくいというより、感情より先に分析が走っている。
今もそうだ。レンを見ているのではなく、レンという現象を観測している。
「他の生徒のマナ残滓には、それぞれ癖がある。魔力の質、放出の癖……術者によって全部違う。生きているマナには、揺らぎがある。一定ではない」
上級生が少し首を傾けた。言葉を選んでいる、というより、まだ自分の観測を整理しているような間だった。
「周期が、妙に一定だ。生体マナにしては、機械的すぎる。それと……わずかに、外側から来ている気がする」
断定ではなかった。疑問を、そのまま声に出しているだけだ。
確信があるなら、もっと直接的に問い詰めてくるはずだった。
これは報告だ。自分の観測結果を、当事者に伝えている。
「気のせいじゃないか」
レンが答えると、彼はわずかに目を細めた。
「かもしれない」
あっさりと認める。
「観測精度に限界はある。外側から、というのも、正確な表現じゃない可能性がある。ただ——」
「ただ?」
「同じ現象を、もう一度観測したい」
それが目的だった。追及でも告発でもなく、ただ再観測がしたい。
知的好奇心が、他のすべてより先に来ている人間の言葉だった。
「……好きにしろ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
上級生が歩き出す。その背中に、レンは声をかけた。
「名前は」
「ノエル・ハイデッカー。三年だ」
振り返らずに答え、廊下の奥へ消えていった。足音が遠ざかり、角を曲がり、やがて聞こえなくなる。
レンは、その場に立ったまま動かなかった。
夕陽が傾き、廊下の影が長くなっていく。窓の外では木々が風に揺れ、葉が擦れ合う音が静かに届いていた。
(外側から来ている)
星光石の放出パターン。環境中のマナを吸収し、再放出する仕組みだ。生体マナとは厳密に異なる。
その違いを、ノエルは感覚で拾った。証拠ではない。確信でもない。だが、最も危険な種類の「疑い」だった。
論理的な証明に近づいているのではなく、正しい方向を向いた勘が、核心の輪郭を捉えている。
証拠のない疑いは、反証もできない。
レンは歩き出した。靴音が石畳に響き、夕陽の中に長い影が伸びていた。




