2話:文献の先客
アルフレッドが廊下の向こうから手を振っている。夏の間に少し背が伸びたようで、その分だけ駆けてくる足音も大きくなっていた。
茶色の髪が魔術灯の光を受けてやわらかく揺れ、顔には相変わらずの笑顔がある。作ったものではなく、呼吸のように自然に出てくる笑顔だ。
「休暇はどうだった?」
「まぁ、普通……だったな」
「俺は弟たちに会えてよかった。ユリースはもう俺より本をたくさん読んでるし、エドガーは最近炎系の術を練習し始めたって言ってた。すごく嬉しそうに話すんだ、あいつ」
アルフレッドが並んで歩き始める。レンはその半歩後ろに収まる形になった。歩きながら話すアルフレッドの横顔を、斜め後ろから観察する。
彼は家族の話をする時だけ、言葉のリズムが変わる。
普段は問い返すような間を置くが、こういう話題の時は澱みなく言葉が続く。感情と記憶が直接繋がっている。そのような回路とでも呼ぶべきものが、アルフレッドの内に存在している。
レンにも似たようなものがあるが、対象は違った。
それは前世の研究室の匂いを思い出す瞬間、学院の近くで売っているルナリス・フルーツのタルトを食べた時だ。
その甘酸っぱさは、かつて前世の研究室で、実験の合間に啜った安物の缶コーヒーの苦みと、なぜか対になって記憶の底に沈んでいる。
あの苦みはもう二度と手に入らない。
だからこそ、今の世界にあるこのタルトの甘みだけが、自分の輪郭をこの世界に繋ぎ止めている唯一の錨のように感じられた。
それは、ただの「九条蓮」として、戻れない場所を惜しむ、ひどく個人的で湿った感触だった。
「そういえば、増幅理論のことだけど、もう必要な情報は揃っている。あとは実装して、実証するだけだ。次は提出できる段階まで持っていきたい。レンはどう思う?」
レンは一瞬だけ足を止めかけて、ふと自分の心に浮かんだ気持ちを整理しようとしたが、すぐにその思いを振り払った。わずかな迷いの後、歩調を変えずにいつも通りの口調で答えた。
「提出するなら、もう少し検証してからのが良いんじゃないか」
「そうかな? でも、もう十分なんじゃないかと俺は思うんだけど」
「急ぐ必要はない。慎重にやろう」
アルフレッドが、歩調を崩さぬまま横目でレンを捉えた。その視線は一瞬でありながら、言葉にされなかったものを確かに含んでいる。空気の中にわずかな間が差し込まれた。
「……わかった。お前が言うなら」
疑いを挟まない、個人への純粋な信頼がそこにあった。
***
翌日の午後。
レンはアルフレッドと別れた後、図書館へ向かった。
その目的は、アルフレッドとの共同研究でもなければ、ミラベルの観察記録でもない。レン個人の純粋な疑問から始まった調査だった。
この世界に在る、マナは一体どこから来るのか。
魔術理論の授業では「世界に遍在する」と教わったのみだ。
グレイ教授も、どの文献も、同じことを述べている。
だが、それは説明として足るものではない。エネルギーには必ず起源があり、変換される前の形がある。それを誰も問わないことに、レンはずっと疑問を残していた。
「当たり前」の裏側を疑い、「そういうものだ」という答えを、答えとして受け取らない。これは前世の化学者としての思考の癖だった。
書架の前に立ち、背表紙を指でなぞりながら、魔術史の古い記録、術式の変遷、各時代の魔術体系の比較――それらを順番に手に取り、目当ての記述を探していた。
マナの起源に踏み込んだ文献は、意図的に避けられているかのように少なかった。どれも「神の恵み」「祝福」「世界の摂理」という言葉で結論づけて終わっている。
3冊目を棚に戻した時、視界の端に人影が映った。
書架の奥、少し薄暗い区画に漆黒の髪を後ろで結んだ女性が、背の高い書架の上段に手を伸ばしていた。彼女は司書の上着を纏っている。
「珍しい組み合わせね」
振り返ると、彼女がレンの手元を見ていた。
レンが今まで手に取った3冊の本が腕の中に重なっている。
「関連があると思って調べているんです」
レンが答えると、司書はわずかに間を置いた。
その間が計算されたものなのか、自然なものなのか、レンには読めなかった。
「もう一冊、合わせた方がいいかもしれない」
差し出されたそれを見て、レンは眉をわずかに動かす。
魔術が体系化される以前の時代、各地に点在していた術者たちの記録を集めた文献だ。
「……なぜこれを?」
「その問いを立てるなら、もう少し前の時代から始めるべきよ」
示された内容は、問いに対する解としては届いていないが――
「正式な術式が存在しなかった頃、マナがどのように扱われていたのか。そういった記述がその文献に少しだけ残っているの」
その届かなさ自体が一つの意味を纏っていた。言葉の外側に置かれた部分こそが、むしろ多くを語っているようだ。
「……あなたの名前は」
「イザベラ・フォンテーヌ。王立図書館の司書よ」
彼女はそれだけ言い残し、振り返らずにカウンターへ戻っていった。
レンは差し出された一冊を手に取り、いつもの窓際の席へ向かった。
体系化以前の術者たちの記録。詠唱も術式も存在しなかった時代、彼らはマナをどのように捉えていたか。記述は断片的で、地域によって言葉も概念も異なるが、共通している部分が一つあった。
マナは「与えられるもの」として記述されている。
世界に遍在しているのではなく、どこかから「流れてくる」ものとして。
それは、起点があるということの裏付けになり得た。
「面白いでしょう」
いつの間にかイザベラが隣の書架の整理をしていた。本を棚に戻しながら、視線だけをこちらへ向けている。
「体系化された後の文献には、マナの起点に関する記述がない。……違いますか?」
イザベラは本を一冊棚に戻し、手を止めた。
「そうね。それが何故なのか、私にもまだわからないのだけれど」
「あなたも同じことを調べているんですか」
「ええ、似たようなことを少しね……」
踏み込めば距離を取り、距離を置けばそのまま保たれる。これ以上は踏み込ませないという線引きだけが、はっきりと示されていた。
レンは文献に視線を戻し、マナは「与えられるもの」という記述の周辺をもう一度読み返す。
流れてくる。注がれる。降り注ぐ。
書いた術者によって言葉は違うが、いずれも能動的な起点の存在を示唆していた。
マナは大気のように湧き出すものではなく、どこかで生み落とされ、世界へと流し込まれている。文献に記された断片をつなぎ合わせれば、その前提は揺らぎようのない事実として立ち上がっている。
ならば、その源は一体どこにあるのか。
思考は深く潜り込み、問いだけが重さを増していく。起点の見えない流れを、逆に辿ろうとするように。
紙の縁に触れたまま、次へ進む動きを忘れていた。文字はそこに並んでいるのに、視線はすでにその先にあった。
帰り際、レンは借りた文献をカウンターへ持っていった。イザベラが受け取り、貸出記録に何かを書き込む。その筆先が一瞬だけ止まり、ページの端に小さな符号を付け加えた。
「またおいでなさい。あなたが次に手を伸ばす棚は、だいたい見当がつくから」
異なる道を選びながらも、同じ問いの周りを巡っているような感覚があった。交わらず、しかし遠ざかることもない軌道の上で、二人はかすかな接点を探り続けていた。




