1話:神様も知らない彼女
アステリア家での慌ただしい滞在を終え、ようやく王都への帰路についた矢先のことだった。
補給のために立ち寄ったこの宿場町で、レンは束の間の自由時間を手に入れていた。
石畳を焼く陽射しは、逃げ場のない暴力となって街を包んでいた。レンは額に滲む汗を拭い、雑踏の端にあるわずかな軒下の影を縫うようにして歩を進める。
手元の羊皮紙は、汗で少しふやけていた。
「……竜胆の根に、銀の粉末。あとは、魔力安定用の触媒か」
リストを指先でなぞりながら、軒先に並ぶ露店の品々へ視線を滑らせる。香辛料の鼻をつく匂いと、商人の野太い呼び声。いつも通りの喧騒が流れている。
しかし、その活気の中にひとつだけ異質な静寂が混じっていた。
背中に、針で刺されたような感覚レンは足を止め、無意識に肩越しに振り返る。
色とりどりの服がうごめく人波の中で、そこだけ色彩が欠落したような一角があった。
そこに立ち止まっていたのは、素朴な麻のワンピースを纏った少女だ。麦わら帽子の庇からは、無造作に編まれた白銀の三つ編みが覗いている。
一見すればどこにでもいる町娘だが、少し目が合った瞬間、彼女はわずかに顎を引き、逃げるように視線を石畳の隙間へと落とした。
行き過ぎようとして、レンの思考が急停止する。
伏せられた睫毛の影、通った鼻筋のなだらかな曲線。その質素な身なりには不釣り合いな、凛とした気品。
(……いや、まさか。こんな場所に?)
陽射しの下、人混みに紛れようとしているその後ろ姿には見覚えがある。
あの夜に見た孤独な少女、光の粒を浴びて祈りを捧げていた聖女の面影が、目の前の少女にぴったりと重なった。
「もしかして……エリシア、か?」
確信を込めて歩み寄り、名を呼んだ。
その瞬間、少女の肩がビクッと大きく跳ねた。
「――っ!」
彼女は弾かれたように顔を上げると、怯えるような手つきで周囲を素早く見回した。そして次の瞬間、レンが反応するよりも早く、その細い指先が彼の手首を強く掴む。
「あ、おい! 待ってくれ」
抗う間もなかった。見かけによらぬ力で引かれ、レンは建物の隙間に潜む薄暗い路地へと引きずり込まれる。
大通りの喧騒が遠のき、湿った風が抜ける日陰に、二人の足音だけが反響した。
レンが壁に背を預ける形になると、彼女は周囲の気配を警戒しながら、彼の胸元に顔をぐっと近づけた。
つま先立ち、その柔らかな唇がレンの耳介をかすめる。
「……静かに。お願い」
石鹸のような、どこか甘い香りのする吐息が少し震えていた。
「付き合って。今日は……聖女エリシアじゃなくて、町娘のリナよ」
悪戯っぽい表情で、至近距離で見つめてくる。その瞳には、今まで見たこともないような「生身の少女」の輝きが宿っていた。
「……正気か? 見つかれば、俺もお前もただじゃ済まないぞ」
レンが低く窘めると、リナは彼の腕を掴む力を強めた。
「わかってる。でも、今日だけ。今日、この瞬間を逃したら、私は一生……出られない気がするの」
レンは、自分の手首に伝わる彼女の熱を意識する。
今ここで彼女を突き放し、衛兵を呼ぶこともできる。それが正しい選択だが、彼女の瞳の奥にある切実な訴えが、レンの合理性を鈍らせた。
「……少しだけだ。その帽子、深く被ってろよ」
「ありがとう、レン!」
薄暗い路地を抜け、再び照りつける太陽の下へ躍り出た。
「リナ」としての彼女は、まるで初めて外界に触れた子供のように、街の景色をその瞳に焼き付けていく。
広場の中央では、極彩色の衣装を纏った吟遊詩人がリュートの弦を軽快に弾いていた。歌われているのは、古い伝承にある「駆け落ちする恋人たち」の物語だ。愛のためにすべてを捨て、追手から逃れ、自由を掴み取ろうとする情熱的な旋律。
その歌声が響いた瞬間、リナの足がぴたりと止まった。
彼女は胸の前で祈るように両手をきつく組み、瞬きすら忘れたかのように歌い手をうっとり見上げている。数歩先を歩いていたレンが足を止め、しばらく待っていても、彼女の靴の先は石畳の上で一ミリも動かなかった。
「……リナ?」
声をかけようとして、レンは言葉を飲み込んだ。
高貴な「聖女」として育てられた彼女にとって、これほどまでに生々しく、不謹慎で、それでいて美しい「愛」の歌を聞く機会など、一度もなかったのかもしれない。
「……あんな風に、誰かを想って泣いたっていいのね」
リナがぽつりと呟いた。その横顔には、慈愛の微笑みではなく、深い空虚が混じっていた。
「大聖堂では、愛は神に捧げるものだったから。聖女が誰かに心を動かすことは、不純で、汚らわしいことだと教えられてきたの」
彼女の指が、祈りの形を解き、所在なげに空を切る。レンは何も言えず、ただ彼女の小さな背中を見つめるしかなかった。
賑やかな大通りへ差し掛かったとき、予期せぬ騒ぎが起きた。
荷馬車を引いていた馬が何かに驚いたのか、突然激しくいななき、前脚を高く跳ね上げたのだ。
「うわっと! ちょっと……落ち着けって!」
手綱を握っていた御子の男が派手にバランスを崩し、べちゃりと音を立てて泥の上に尻もちをつく。その衝撃で、荷台に積まれていた真っ赤なリンゴが、まるで宝石をぶちまけたようにバラバラと路上を転がっていった。
周囲から「大丈夫か?」と声が上がる中、ふと隣を見ると、リナの肩が小刻みに震え始めていた。
彼女は両手で口元をきつく覆い、顔を真っ赤にしてうつむいている。指の隙間から漏れ出る息の音は、必死の堪えも虚しく次第に大きくなっていく。
やがて限界が来たのか、彼女はついに口元の手を離した。
「……っ、ふふ……っ! さっきのおじさんったら、お尻を真っ黒にしちゃって……!」
端正な顔をくしゃくしゃにして笑うその姿は、彫像のような聖女の面影を完全に塗り替えていた。
「ちょっ、おい、リナ! 声が大きい!」
レンが慌てて彼女の肩を抱き寄せ、人混みに隠れる。
「……だって、おかしくて! 私、こんなことで笑うなんて、生まれて初めてよ」
「いいから落ち着け。ほら、あそこの衛兵がこっちを見たぞ」
レンの言葉にリナは一瞬で表情を硬くし、彼の胸元に顔を埋めた。
周囲の喧騒が、急に牙を剥いたような威圧感を持って迫る。楽しい時間が、常に終わりと隣り合わせであることを、突きつけられた瞬間だった。
香ばしく焼けた肉と油の匂いが立ち込める屋台通りで、リナの足は再び止まった。
彼女が手にしているのは、自分の顔ほどもある巨大な串焼きだ。それを両手でしっかりと掴むと、彼女は迷うことなく大きく口を開け、豪快に肉を噛みちぎった。
「ん……おいひいっ」
咀嚼しながらレンを見上げ、満面の笑みで目尻を下げる。その口の右端には、照り焼きの茶色いソースがべっとりと張り付いたままだ。
「……おい、口についてるぞ」
レンが苦笑しながら指をさすと、リナは慌てて手の甲で口元を拭った。その仕草すらも、どこか楽しげだ。
ふと、レンは自分の頬の筋肉が緩んでいることに気がついた。
「リナ。次はあっちの果実水も飲んでみるか?」
「もちろん! 行ってみよう、レン!」
彼女が再び彼の手首を掴み、駆け出す。
レンは引かれるままに、夏の光に満ちた喧騒の中へと、再び足を踏み出した。
夕暮れが近づいているのか、石畳を吹き抜ける風が先ほどまでの熱を奪い、わずかな冷たさを帯び始めた。
喧騒から少し離れた路地の入り口で、リナの三つ編みが風に煽られて肩の上で揺れる。彼女の片方の口角が、自嘲気味にわずかに上がった。ふっと漏れたのは、熱に浮かされた時間を冷ますような、乾いた溜息だった。
「……こんな私、らしくないよね」
視線はレンの顔から外れ、迷子の子供のように足元の石の継ぎ目をなぞりながら落ちていく。その声には、楽しい魔法が解けるのを恐れるような、ひりついた寂しさが混じっていた。
「きっと神様に怒られちゃう。肉を頬張って、品もなく笑って……大聖堂の皆が見たら、『偽物』の聖女だって私に失望しちゃうかも」
彼女は、自分を縛り付けていた透明な鎖を、自ら締め直すように背筋を伸ばした。それは、あまりにも痛々しい聖女の仮面だった。
レンは一度、喉を鳴らした。
胸の奥に澱のように溜まっていた言葉を、無理やり肺の底から押し出すように、深く息を吸い込む。
「そっちのお前の方が、よっぽど本物に見える」
言葉が唇から滑り落ちた直後、レンは自分の失言を自覚して奥歯を強く噛み合わせた。
それは、大聖堂に鎮座する「聖女」という偶像を否定し、彼女が守り続けてきた日常を根底から揺るがしかねない残酷な肯定だった。
リナの瞳が、弾かれたように丸く見開かれた。
短く息を呑む音が、静まり返った二人の間に落ちる。
彼女の右手は、無意識に麻のワンピースの裾を強く握りしめていた。薄い生地に刻まれた皺は、彼女の胸の内で渦巻く、名づけようのない感情の形そのものだった。
「本物……」
彼女がその言葉を噛みしめるように呟く。
夕闇に染まり始めた街角で、彼女の瞳には、さっきまでよりもずっと深く、そして壊れそうなほどに瑞々しい光が宿っていた。
気がつけば、建物の影は槍のように長く伸び、街全体を燃えるようなオレンジ色に染め上げていた。遠くの教区から、夕暮れを告げる重厚な鐘の音が響き渡る。それは、魔法の時間が終わる合図のようでもあった。
「今日のことは、絶対に内緒にしてね」
悪戯っぽいが、どこか祈るような響きを残して、彼女は踵を返した。
西日に照らされた人波の中、麻のワンピースと麦わら帽子が小さくなっていく。やがてその背中は、黄金色の光の渦に溶け込み、跡形もなく消えてしまった。
レンは一人、赤く染まった路地の入り口に立ち尽くしていた。
喧騒が戻ってきた街の空気の中で、ポケットの中に手を滑り込ませる。指先が触れたのは、朝から持ち歩いているあの羊皮紙の、少しふやけた感触だけだった。
もう片方の手には、結局一度も開かれることのなかった空っぽの布袋が握られたままだ。
「……竜胆の根に、銀の粉末、か」
結局、何ひとつ買えていない。
レンは短く息を吐き出した。その吐息には、澄んだ軽さが混じっている。石畳に長く伸びた自分の影を踏みしめるようにして、ゆっくりと来た道を引き返し始めた。




