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5話:母という女

 夏季休暇の前日、レンは机の引き出しを一つずつ閉じながら、必要なものだけを鞄に収めていった。着替えを重ね、その上に数冊の本と研究ノートを置く。


 最後に胸元の布袋を確かめると、指先にかすかな振動が返ってくる。星光石は今日も静かに脈動し、異常の兆しはない。その規則正しさが、かえって彼の心を静めた。


 翌朝、学院の正門をくぐると、門前の石畳にアステリア家の馬車が待っている。紋章を刻んだ車体は磨き上げられ、夏の光を受けて鈍く光っていた。御者が無言で扉を開けた。レンは一礼し、車内へ身を滑り込ませた。


 車輪が回り始め、学院の尖塔がゆっくりと遠ざかっていく。窓越しに揺れる景色を追いながら、彼は思い出す。アルフレッドは故郷へ戻ると言っていた。一ヶ月後、また学院で顔を合わせる。その事実だけを、意識の中央に据える。


 三日をかけて馬車は北へ進み、やがて見慣れた鉄門が視界に現れる。アステリア家の屋敷は変わらぬ威容で彼を迎えた。手入れの行き届いた庭園も、白い外壁も、何ひとつ変わっていないはずなのに、学院から戻るたび、そこにはわずかな距離が生まれているように感じられる。


 出迎えた執事は淡々と告げた。公爵は王都へ出向いており、しばらく戻らないという。


 静まり返った玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、レンは自分の呼吸がほんのわずかに深くなったことに気づく。緊張か、安堵か。そのどちらともつかぬ感覚を胸に抱えたまま、彼は長い廊下の奥へと歩みを進めた。


 廊下を曲がった先、普段は閉じているはずの別棟の扉が、わずかに開いていた。使用人が小さく会釈し、素早く扉を閉めながら「お客様がいらっしゃいます」と囁いた。レンは何も聞き返さず、そのまま通り過ぎた。




 帰省して三日目の朝、レンは屋敷の中庭へ出た。早朝の空気はまだ冷たさを残し、石畳は朝露に濡れて淡く光っている。手には研究ノートを持っていたが、開く気にはなれなかった。ただ、胸の底に沈んだ何かを薄めるように、外の空気を吸いたかっただけだ。


 柱廊の陰に、人影があった。椅子を出して静かに腰かける女性——リディア・アステリア。薄い色の髪が朝の光を受けて淡く透け、膝の上には開かれた本が置かれている。だが頁は進んでいない。ただ庭を眺め、ときおり視線を落とす。その繰り返し。


 レンは反射的に踵を返し、足を止めた。


 その瞬間、差し込む光がわずかに角度を変えた。陰に包まれていた横顔がやわらかく照らし出され、衣の輪郭がくっきりと浮かび上がった。


 腹部の、わずかなふくらみ。緩やかな生地に隠されて、普段なら気づかないほどの変化。それが、今だけははっきりと目に入った。


 リディアはまだ気づいていない。本に視線を落とし、やがてまた庭へ向ける。その穏やかな動きの中に、どこか遠く冷たい静けさが漂っていた。


 レンは、その場で立ち尽くしたまま、動けずにいた。身体の奥で何かが軋み、朝の澄んだ空気がやけに冷たく感じられた。


 翌日、残された静寂の中、レンは窓辺へ歩み寄った。中庭のベンチに、今日もリディアが座っている。昨日と同じ場所、同じ椅子。膝の上には本があるが、頁はめくられない。視線は庭の一点に落ちたまま、風に揺れる木々をただ眺めている。


 その背中を見つめながら、レンの脳内で問いが渦巻いていた。

 あれは何度目なのか。

 自分が生まれた時を一度目とするなら、今は何度目なのか。


 答えを持つ者は、誰もいない。ただ、窓越しの光だけが、静かに彼女の肩を照らしていた。


 五日目の夕方、レンは中庭へ出た。

 意図したわけではなかった。部屋にいるのが息苦しくて、外へ出ただけだ。


 リディアは今日も柱廊の椅子にいた。夕暮れの光の中で、本を膝に置いたまま目を閉じていた。眠っているわけではない。ただ、目を閉じていた。


 足音を立てないようにしながら、レンは近くの石段に腰を下ろした。


 しばらくして、リディアは静かに目を開けた。レンに気づいても、驚かなかった。ただ静かに、視線を庭へ向けた。


「……すこし、涼しくなりましたね」


 リディアが言った。


「そうですね」


 レンは次に言うべき言葉を必死に探した。聞こうとしていたことがある。でも、どう切り出せばいいのかわからない。直接聞くのは無礼だろうか。でも、遠回しにする言葉も持っていない。


「……体の具合は」


 ようやく出てきた言葉が、それだった。


 リディアは少し間を置いてから、レンを見た。表情は変わらない。


「問題ありません」


「そうですか」


 また沈黙。


 レンは庭を見た。石畳の端に、小さな雑草が生えている。魔術で整備された庭にも、ここだけは見落とされているらしい。


「……もし、子供が生まれたら」


 気づいたら口から出ていた。


 リディアの視線が、再び戻ってきた。


「どうするんですか」


 その問いが何を意味するのか、自分でもよく分かっていなかった。ただ、口をついて出た言葉だった。何かを決める必要があるのは分かっていたが、答えは出なかった。だからこそ、リディアに問う他の方法が見当たらなかった。


 リディアはしばらく黙ったまま、空を見つめていた。その間、時間だけが無情に流れ、彼女の返事を待つレンの胸の中で不安が膨らんでいく。


 やがて、リディアが口を開いた。その声は、まるで遠くから響いてくるように、少しだけ遅れて耳に届いた。


「……わかりません」


 その言葉に、レンは思わず息を呑み、腹の底から冷たいものが這い上がった。


 庭の木が、風に揺れた。葉の擦れる音が静かに広がり、その音がまるで答えのように、どこまでも遠くへと消えていった。


「考えたことも、ないので」


 レンはただ言葉を失い、動けなくなった。その言葉を聞き、胸の奥で何かがひび割れ、静かに崩れ落ちる音が鳴り響いた。


 セラフィナは「わからない」と言った。本心なのか刻印のせいなのか、自分でも判別できないと言って、泣いた。——あれは、苦しんでいる人間の言葉だった。


 リディアの「わからない」は、違った。


 苦しんでいない。問いすら立てていない。考える回路そのものが、最初から存在していない。


「そうですか」


 レンが言えたのは、それだけだった。


 リディアは小さく頷き、また目を閉じた。


 レンは石段に座ったまま、しばらくそこにいた。帰ろうとしたが、足が動かなかった。


 この人は、俺が生まれた時もこうだったのだろう。生まれた子に何を感じるのか、考えたことがない。だから何も感じなかった。悪意ではなく、欠如として。


 それを作ったのは、誰か。


 この屋敷か。公爵か。それとも、もっと前か。リディアを「栄誉として」送り出した、リディア自身の家族か。


 レンは立ち上がった。


「……おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 リディアは目を閉じたまま答えた。


 レンは屋敷の中へ戻った。廊下を歩きながら、足音が石に響くのを聞いていた。規則正しく、機械的に。




 休暇の中頃、レンは外出許可を得て街へ出た。


 市場で硫黄の結晶と乾燥薬草、金属粉を手に入れた。必要なものは揃った。帰路についた。


 市場の出口近く、立ち止まった。


 小さな雑貨店の店先に並ぶ陶器の一つに、乾燥させた花が詰められていた。淡い花びらが縁からこぼれ、かすかな香りが風に混じる。


 試薬でも研究材料でもない。それでも、指先が自然に伸びていた。


 値を確かめ、硬貨を渡す。包まれていく小さな品を見つめながら、これは誰に渡すのかと自問する。答えは明白だった。わかっていながら、思考を浅いところで打ち切る。


 屋敷に戻り、廊下で使用人を呼び止める。


「これを母上……リディア様に渡してくれ」


 差し出した声が、わずかにぶっきらぼうになる。


「渡すだけでいい。俺からだとは言わなくていい」


 使用人は一瞬だけ目を伏せ、「かしこまりました」と静かに頭を下げた。去っていく背を見送りながら、レンは包みを握っていた自分の手を見下ろす。


 馬鹿げている、と奥歯を噛みしめた。受け取っても何も感じないかもしれない。誰が置いたのかも知らぬまま、部屋の隅に置かれるだけかもしれない。それでも、捨てて帰ることはできなかった。


 翌日、「お受け取りになりました」とだけ報告があった。礼も言葉もない。


 当然だと理解しているのに、その夜、レンはベッドに横たわり、しばらく天井を見つめ続けていた。




 休暇の最終日、荷物をまとめていると、廊下でリディアとすれ違った。


「行ってらっしゃい」


 彼女が静かに言った。帰省初日の「お帰りなさい」と同じ声音だった。穏やかで、そこには責める色も、寂しがる色もなかった。


「……行ってきます」


 レンが答えると、リディアがわずかに微笑んだように見えた。


 その笑顔は、どこか遠くから届いてきたような気がした。しかし、その瞬間はあまりにも短かった。


 レンはその笑顔が幻だったのか、本物だったのか、確かめようもなくただ目を閉じた。しばらくの間、その感覚だけが胸に残り、現実と夢が混ざり合っているような錯覚に陥っていた。



 ふと、耳の奥で馬車の揺れを感じ取った。静かに閉じた目を開けると、目の前にはすでに広がる道と遠ざかる屋敷があった。


 まるで、あの微笑みも同じように、遠くの記憶の中に消え去っていくようだった。レンはその景色を見つめながら、心の中で確かなものを探し続けていた。


 アルフレッドが故郷から戻っているはずだ。学院に戻れば、やるべきことがある。


 それでも、窓の外を見つめながら、レンはひとつの思いに囚われていた。


「考えたことも、ないので」


 あの言葉が、また浮かんだ。


 セラフィナは「わからない」と言って泣いた。わからないながらも、問い続けていた。


 リディアは「わからない」と言って、目を閉じた。問いを立てることすら、しなかった。


 どちらが深い傷なのか、レンにはわからない。ただ、同じ言葉が、まったく違う場所から来ていると感じた。


 学院が近づくにつれて、考えは霧散した。でも完全には消えなかった。体のどこか、指先では触れられない場所に、小さく残り続けた。

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