4話:星は冷たく、炎は遠く
セラフィナの涙と、震える声。
好きという言葉。
何度も波のように押し寄せては引いていく。
レンは胸元の布袋に手を当て、星光石から微かな温もりを感じた。
今日も変わらずマナを吸収し、放出し続けている。
彼女自身がわかっていないことが、自分にわかるはずもない。
そこまで考えたところで、レンは思考を断ち切ろうとしたが、一度動き出した考えは簡単には止まらず、気づけばまた同じ場所をぐるぐると回っていた。
彼女の笑顔には、いつも嘘が見えなかった。心からの純粋な喜びが溢れていた。刻印に操られていたとしても、その瞬間の感情は本物だったのかもしれない。
だが、それがどうした。
結局、彼女もアステリアの血統を求めていたのだと、そう思ってしまう自分がいる。その疑いだけは、どうしても消えなかった。
レンは窓を閉め、外の音を遮断した。
ベッドに横になって天井を見上げると、星明かりに照らされた木目が淡く浮かび上がり、まるで答えの出ない思考のように、どこまでも絡み合っていた。
翌朝、図書館の扉を開けると、ミラベルがいつもの席で待っていた。ノートを広げ、何かを書き込んでいる。その横顔は真剣で、ペンを走らせる手が規則正しく動いていた。
ミラベルがこちらに気付くと顔を上げ、笑顔を見せる。その笑顔は純粋で打算がない。朝の光を受けた彼女の姿が、どこか透き通って見えた。
「おはようございます。これ、今日のデータなんですけど」
レンは席に座り、ノートを開いた。
理論を積み上げ、仮説を検証し、矛盾を切り捨てる。世界は式に還元できる。誤差は数値で処理できる。だからこそ、そこには感情の入り込む余地がない。
そう思い込んでいる間だけ、心の問題も整理されたような錯覚に浸れるが、解の出ない感情だけは、どこにも代入できなかった。
その一方で、ミラベルはグラフを指差しながら、目を輝かせていた。
「この結果、すごく面白くないですか? マナの放出パターンが、詠唱の種類に関わらず一定になっていて──」
彼女は自分の発見を、まるで宝物のように語る。
最初は向かい合って座っていたはずなのに、気づけば同じ紙を覗き込み、肩が触れ合う距離になっても、どちらも身を引かなかった。
ミラベルは何度もノートをめくりながら、時折レンに目を向け、その鋭いまなざしで次々と新たな発見を語った。その声には、少し疲れたような安堵の色も混じっていた。
「今日も、ありがとうございました」
ミラベルは微笑み、ノートを閉じるとペンを指先で整え、いつものように丁寧に仕舞っていた。
「こちらこそ、いつも協力してくれてありがとう」
レンは視線だけをノートへ落としながらそう言ったが、指先はその流れに乗りきれず、途中で立ち止まったままだった。
ミラベルはそのわずかな停滞を見逃さなかった。こちらの気配をそっと拾い上げるように視線を寄せ、ほんの少しだけ首を傾げる。
「あの、どうかされましたか?」
その問いに思惑の欠片が含まれていないことをレンは理解していたが、こうやって自然に言葉を向けられる感覚に、レンはまだ慣れていなかった。
「……いや、何も」
「そうですか」
それ以上は追及しなかった。ミラベルがノートに視線を戻す。その引き際の軽さが、逆にレンの胸に小さな余韻を残した。
「余計なことを聞いてしまったなら、ごめんなさい」
しかし、翡翠のように深く鮮やかな緑の瞳は、まるでレンの心の中を見透かすようにじっとこちらを見つめたままだった。
「もし、話したくなったら……私でよければ、いつでも話し相手になりますから」
その優しさが、レンの胸に染みた。彼女はセラフィナのことも、レンが抱える秘密も、何も知らないが、ただひとりの友人として心配してくれていた。
「またここに、来てくださいね」
「……ありがとう」
レンが立ち上がると、ミラベルも静かに頷き、穏やかな微笑みを浮かべた。その瞬間、レンは心の中で小さいため息が漏れた。
彼女の優しさに触れるたび、ますます自分には隠しきれないことが多すぎると実感させられるからだ。
窓の外で一瞬、炎色の光が揺らいだ気がして振り返ってみたが、ただ夕陽が石壁を染めているだけだった。
***
数日後、レンは研究室でアルフレッドと会った。
魔力増幅理論の最終確認をするためだ。机の上には、これまでの研究成果がまとめられた資料が積み上げられている。
「レン、調子はどうだ?」
アルフレッドが声をかけてきた。いつもの調子の、明るい声だった。
彼は机の上の資料をまとめながら、こちらに軽く視線を向ける。口元には、見慣れた笑みが浮かんでいた。
「……いつもどおりだが」
「そうか、ならいいんだけど」
アルフレッドはレンの様子を一度だけ見た。何かに気づいた様子だが、特に言葉にはしなかった。
そのまま資料を広げ、いつもの調子で議論を始める。問いただすでも、気を遣うでもない。ただ普段通りに振る舞う。その距離の取り方が、かえってありがたかった。
二人の研究は順調に進んでいた。アルフレッドがペンを走らせて図を描き、レンがそれを覗き込みながら細部に修正を入れる。言葉を多く交わさなくても手順は自然に噛み合い、共同作業は途切れることなく、続いていった。
「これで、魔力が少ない術者でも強力な魔術が使えるようになる」
アルフレッドが満足そうに言う。
「お前のおかげだよ、レン。俺たち、いいコンビだな」
「お前との議論があったからこそ、こうして形になった」
レンが答えると、アルフレッドは屈託のない笑顔を見せた。それは彼にとって、心からの喜びそのもので、彼の世界には何の暗雲もないように感じられた。
「そういえば──」
アルフレッドがペンを置き、窓の外をぼんやり見つめながら呟いた。
「セラフィナ、最近見かけないな。どうしたんだろう」
レンの手が一瞬止まった。すぐに気づき、慌てて資料に視線を戻す。
「……知らない」
短すぎる答えだった。アルフレッドはしばらく窓の外を見続けていたが、振り返った顔には何も表情が浮かんでいなかった。
「そうか。まあ、訓練が忙しいんだろうな」
それだけ言って、そっとペンを取り直す。話題は自然に研究に戻った。
押し込もうとして、できなかった問いが胸の奥に沈む。知られるたびに、レンはまた一つ、嘘を重ねることになる。知らないままでいいと思うしかなかった。
研究を終えると、二人は研究室を出た。廊下に足を踏み出すと、夕陽が差し込み、床に柔らかい光を落としていた。
「じゃあ、また明日な」
アルフレッドが手を振り、去っていく。その背中はいつもと変わらず、明るく前向きだった。レンはその背中を見送った。
その夜、レンは自室でベッドに横になり、天井を見つめていた。彼らがどれだけ気にかけ、心配してくれていても、レンは答えを出すことができなかった。
セラフィナの言葉は、どこまでが本心なのか、自分はどうしたいのか。考えるほど輪郭は崩れ、掴もうとする指先から零れ落ちていく。心の中でその問いが繰り返されるだけで、ますます答えが遠のいていく。
目を閉じると、夢の中で青緑の炎が揺れていた。その隣には赤い炎が燃えている。二つの炎は触れ合うことなく、ただ並んで揺れていた。




