3話:あなたが欲しい
数日後の午後、レンが図書館でミラベルとの研究を終えて廊下を歩いていた。
訓練場の方角から足音が届くたび、レンの首は無意識にそちらへ引かれていた。石を打つ靴音のひとつひとつを拾い上げるようなその反応に、当人だけが気づいていない。
――その先に、セラフィナが待っていた。
窓辺に立ち、外へ視線を流している。見慣れた訓練着ではなく、整えられた制服の姿で。
背を向けたままでも、肩にわずかな緊張が宿っているのが伝わってくる。呼吸に合わせて上下する背中は、普段よりもどこか頼りなく、光の中でひと回り小さく見えた。
「セラフィナ」
レンが声をかけると、彼女は勢いよく振り返った。琥珀色の瞳が一瞬大きく見開かれ、すぐに伏せられる。
「レン……」
喉が震え、息だけが浅く漏れる。
「今日、夕方……訓練場に来てほしいの」
ようやく絞り出された声は、かすれていた。
「どうしても、伝えたいことがあって」
セラフィナは、膝の上でそっとスカートの裾をつまんだ。その動きは無意識に近く、胸の内にある言葉にならないものが、指先へと逃げているかのようだった。
視線は落ち着かないまま、レンの顔を捉えようとして、直前で逸れる。離れたかと思えば、引き戻されるようにまた向かい、触れる前にほどけて、同じ場所を何度もなぞっていた。
「……わかった」
レンが頷くと、セラフィナは息を吐いた。安堵とも、諦めともつかない表情で、かすかに笑みを浮かべたが、その笑みはすぐに消え、口を引き結んだ。
「ありがとう。じゃあ、夕方に」
セラフィナは来た道を引き返し、そのまま廊下の奥へ歩いていった。その足取りはどこか頼りなく、今にも崩れそうに見えた。
***
夕暮れ、訓練場の石畳に長い影が伸びていた。
レンは木陰に身を潜め、門の方を見つめていた。数日前、セラフィナが「魔術は美しい」と言ったあの場所。あの時と同じ光が差し込み、同じ空気が漂っている。
だが今日は、木の葉が乾いた音を立てるたびに、何かが違うと感じた。
やがて門が開き、セラフィナが入ってきた。
制服の襟元を何度も整え、髪を耳にかけては、また指先からこぼす。そのたびに小さく息が揺れている。
ようやくレンの前までたどり着くと、三歩ほど手前で足を止めた。
セラフィナはまだ、踏み込めずにいる。
言葉にする前の気持ちが胸の内で行き場を探し、まだ形になりきらないまま、彼女をその場に立たせていた。
「来て……くれたのね」
掠れた声が、途切れ途切れにほどける。息は浅く、喉の奥で絡まり、うまく形にならないまま空気に溶けていく。
「どうした?」
レンの問いが低く落ちた。
セラフィナは顔を伏せると、視線を置く場所を見つけられないまま、ただ足元へと落とす。
「言わなきゃいけないことが……あるの」
胸の奥で抱え込んでいたものが、ようやく外へ触れたような、絞り出した言葉だった。
「何だ?」
促されても、セラフィナは答えられなかった。
呼吸を整えようとしたが、肺の奥まで届かない浅い息が重なり、わずかな震えを伴って抜けていった。
残されたのは、言葉になる寸前で止まり続ける沈黙と、まだ外へ出てこない想いの重さだけだった。
「私、あなたのことが好き」
その言葉が、静まり返った訓練場に落ちた。
レンは何も言わなかった。セラフィナも、レンの反応を確かめようとはしない。ただ次の言葉を手繰り寄せるように、少し間を置いてから続けた。
「でも、私の家には……呪いがあるの」
「呪いって?」
「身体に刻印を刻まれているの。だから抗えない——それだけじゃないの。お母さまから、小さい頃からずっと言われてきたの。何度も、何十回も……『優秀な血を手に入れなさい』って。刻印のせいなのか、幼い頃から頭に刻み込まれた言葉のせいなのか、もう……自分でも、わからないの」
その言葉はレンの耳に届き、音として消えることなく、内側へと沈み込んでいく。胸の奥で、何かがゆっくりと形を変えた。流動していたはずの思考が、温度を失ったように硬直していく。
「最初は……命令だったの」
セラフィナの声は、その一言を境にわずかに調子を変えた。抑えられていたものが内側から押し上げられ、心の奥底に積もっていた何かがほどけて形を持たないまま、こぼれ出していく。
「試験であなたを見かけたのは、偶然じゃなかった。あなたが『レン・アステリア』だって、知っていたから」
その名を耳にした瞬間、レンの顎がごくわずかに持ち上がる。反応は一瞬で、表情にまで届く前に押しとどめられたが、確かに内側にある何かに触れた。
しかし、セラフィナはそれに気づかず、顔を上げかけて、言葉の重さに引き戻されるように、再び視線を外した。
「でも、今は違うの。本当に違うの。あなたと一緒にいたい、魔術が美しいって思えたのも、感謝してるのも、全部、本当のことなの」
肩で息をしながら、胸の前で組まれた両手には力が込められ、指先は血の気を失って白く強張っていた。
「でも――」
声がわずかに沈む。
「あなたの血が欲しい。そう思ってしまう自分が、怖い」
その瞬間、セラフィナの身体がかすかに揺れた。自分の口から零れた言葉が、そのまま刃となって内側に触れたかのように。
「あなたに触れたくて、つながりたいって……心の底から、思うの」
額に汗が滲み、呼吸が乱れる。セラフィナ自身も何を言っているのかわからなくなっているようだった。しかし、濁流のように流れ出した言葉は止まらない。
「これは命令なの? 本心なの? 刻印のせい? 家族に言われたから? それとも本当に私が……わからないの、自分でも……」
言葉は次第に形を崩し、整った音を保てなくなっていく。問いと否定が絡まり合い、行き場を失ったまま内側でこすれ、最後には押し潰された息のようにこぼれ落ちた。
レンは何も挟まなかった。差し出す言葉が見つからなかった。
「……レン?」
セラフィナがようやく顔を上げると、その瞳は涙で潤んでいた。
「何か……言って……お願い……」
掠れた声が、かすかに空気を震わせていた。
そしてレンは、ゆっくりと息を吐いた。胸の奥に溜まっていたものが、温度を失ったまま外へ流れていく。
「お前も、同じなのか」
感情を削ぎ落としたはずの響きが、かえって鋭く残る。冷えた刃のように。
「……同じって、何のこと?」
「お前も『アステリア』の血統が欲しいだけだったんだろう。何が違うんだ」
セラフィナの頬から、さっと色が抜け落ちていった。つい先ほどまで宿っていた熱が引き、白さだけが残る。膝がかすかに揺れ、頼りなく軋んでいた。
「やっぱり、同じだったんだな」
「違う! 私は――」
レンが一歩踏み出すと、セラフィナは足がもつれ、後ずさりをした。
「何が違う?」
セラフィナの口が開くが、喉が引きつって言葉にならず、レンはその様子を一瞬見てから続けた。
「お前の『魔術が美しい』という言葉は、本心か。お前の『私も道具じゃない』という気づきは、本当か。それとも全部……俺を手に入れるための、演技だったのか」
「違……う……演技なんかじゃ……」
ひび割れたような声が、喉の奥からようやく押し出された。
「でも……わから……ないの……」
こぼれ落ちた声は、途中でほどけ、形を失ったまま空気に滲んだ。溜えきれなかった雫が頬を伝い、ぽたり、ぽたりと足元へ沈んでいく。その一滴ごとに、言葉にできなかったものが零れているようだった。
「本当に……わからない……本心なのか……刻印のせいなのか……自分でも……」
音になりきらない息が断片のようにこぼれる。掴もうとした意味は指の間からすり抜け、残るのは断ち切れた響きだけだった。
身体はかろうじて立っている形を保っているに過ぎない。力の抜けた膝がわずかに揺れ、そのまま崩れ落ちてもおかしくはなかった。支えを失いかけ、今にも途切れそうな細い糸で繋がれている。
レンはその姿を見つめながら、母の面影が脳裏をよぎるのを感じていた。
リディア・アステリア。
公爵に利用され続けた母。道具として扱われ続けた母。
彼女も、こんな風に苦しんだのだろうか。自分の意志と、周囲の期待の狭間で。
「俺には、関係ない」
――そう言い聞かせるように、レンは答えた。
「え……?」
「お前の想いが本心だろうが刻印だろうが、俺には関係ない。結果は同じだ。お前は血統が欲しいだけで、俺を人として見ていなかった。遺伝子の入れ物として見ていた。その事実だけで、もう十分だ」
「レン……!」
セラフィナが手を伸ばし、レンの背に触れそうになったが、指先は空を掴むだけだった。
レンの足がほんの一瞬だけ止まり、振り返りかけた。
「お前だけは、違うと——」
言葉は途中でほどけ、行き場を失ったまま沈んでいく。
レンは感情を削ぎ落とすように、次の一言を押し出す。
「もう、話しかけるな」
拒絶は短く、それ以上の余地を残さない形で置かれた。言い終えた後に残るのは、断ち切られた線の鋭さだった。
その言葉が、夕暮れの空気を切り裂いた。
レンは歩き出す。靴底が石畳を打つたび、乾いた音が規則的に刻まれ、その間隔の分だけ二人のあいだが確かに引き離されていく。背筋は崩れず、線を引いたように伸びたまま、ただ前だけを向いていた。ためらいも、名残も、その歩幅には現れない。やがて門をくぐり、光の届かない側へと溶けるように姿を消す。
セラフィナは、その場に取り残される。伸ばしかけた手は宙に留まり、行き場を失ったまま、形だけを保っていた。
やがて指先から力がほどけ、支えを失った糸のように頼りなく、腕がゆっくりと落ちていった。内側で何かが軋み、その震えが喉へと上がってくる。
「違う……」
押し殺した声は、空気に触れる前にほどけ、誰の耳にも届かないまま、ただ自分の内側だけをかすめていく。
「違うの……」
繰り返された言葉は、足元に崩れ落ちていった。
「レン……」
呼びかけるが、答えが返ってくることはなかった。
訓練場には、葉擦れの音だけが残っていた。
膝が折れ、セラフィナは石畳に崩れ落ち、制服の裾が地面に広がった。
あの日、胸の奥にかすかな灯がともった場所。
魔術は美しいと気づけた場所。
自分は使われるだけの器ではないのだと、ようやく思えた場所。
同じ場所で、積み上げたものは音もなく崩れ落ちた。
残されたのは、何もかもが失われた後の空白だけだった。




