4話:完成の影
研究室の窓から見える木々が、少しずつ色を変え始めていた。
緑の中に黄が混じり、端から橙へと滲んでいく。
季節の変わり目を、レンは窓越しに眺めながら、アルフレッドの言葉を待っていた。
「……できた」
アルフレッドが、静かに言った。
ペンを置く音が響く。机の上には、これまでの研究成果がまとめられた羊皮紙が広がっている。
数式、術式の図、マナの循環経路を示した模式図――何十枚もの草稿を経て、ようやく一枚に収まった理論の全体像だ。
レンはその羊皮紙を手に取り、隅から隅まで確認した。
欠陥はない。論理の飛躍もない。少なくとも、紙の上では。マナの放出速度を段階的に制御することで、少ない魔力量でも最大限の術効果を引き出す――その仕組みが、完全な形で記述されている。
「ああ、やっとだ」
レンが言うと、アルフレッドは深く息を吐いた。緊張が解けた体が、椅子の背もたれに沈んでいく。
疲労と満足が入り混じった顔で、天井を仰いでいた。
「半年間で、よくここまで来たな」
「お前がいなかったら、絶対に無理だった」
「お前の直観がなければ、俺も詰まっていた」
しばらく、二人とも黙っていた。研究室に入り込んだ風が、羊皮紙の端をかすかに揺らす。レンは手元のノートに目を落とした。この数ヵ月で、アルフレッドとの議論によって書き直した箇所がいくつもある。 一人では辿り着かなかった形が、そこにはいくつも存在していた。
「これで、魔力が少ない術者も、この世界で戦える」
その言葉には、個人的な感情が滲んでいた。弟たちのことを思っているのかもしれない。あるいは、自分自身のことを。
魔力量に恵まれなかった者が、それでも魔術師として立てる――その可能性を、この理論は示している。
この理論は、魔力が少ない術者の役に立つ。アルフレッドの目的は正しい。
だが、レンは羊皮紙を机に戻した。指先が、数式の一部に触れて止まる。
放出速度の制御係数。この数値を、アルフレッドはまだ一方向にしか見ていない。係数を反転させれば、他者の魔力を強制的に引き剥がすことも理論上は可能となってしまう。実際、簡易計算では術式が人の手では制御できない域に達していた。
「……この係数、振り切ったらどうなる?」
アルフレッドが冗談めかして言い、すぐに笑って流した。
誰かに渡すには、まだ早すぎる理論だ。もし軍がその存在を知れば、すぐに囲い込まれてしまうだろう。魔術家系が耳にすれば、独占しようとするに違いない。
この理論が持つ可能性、それを手に入れる者が誰であるかが決まれば、世界のあり方すら変わってしまうかもしれない。
そして今、この理論を完全に理解しているのは、誰でもなく自分だけだ。
それがどれほど危険で、強力なものであるかも、他の誰も知らない。
誰かに渡すべき時が来たとしても、その時まで、自分がそれを正しく使う者を選び、導く責任を負わなければならない。今はまだ、それを使う者を決めるに足る者がいないことを、レンは深く理解していた。
「なあ、レン」
アルフレッドの声で、視線が引き戻される。
「どうした? なんか難しい顔してるぞ」
「……いや、何でもない」
「本当か?」
アルフレッドが身を乗り出す。その目には、純粋な心配があった。研究の完成を喜ぶ顔とは別の、友人としての顔だ。
「完成したのに、浮かない顔してる」
「ちょっと疲れているだけだ」
「そうか……」
アルフレッドは少し間を置いてから、また天井を仰いだ。
「なあ、レン。この研究、誰かに見せるべきか?」
「……どういう意味だ」
「論文にして発表するとか。せっかく完成したんだから、役立てた方がいいんじゃないかと思って。この理論があれば、救われるやつも増えるはずだ」
レンは答えなかった。すぐには。
研究室の時計が、小さく一度だけ鳴った。
「もう少し、検証してからにしよう」
「そうか。まあ、確かにまだ実証はしてないしな」
アルフレッドが頷く。それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、今日はここまでにしよう。飯、食いに行くか」
二人は研究室を出た。廊下を並んで歩きながら、アルフレッドが弟たちの話をしている。
レンは相槌を打ちながら、その声を半分だけ聞いていた。
研究室に残してきた羊皮紙のことを、頭の片隅で考えながら。
核心となる完全なデータは、まだアルフレッドのノートの中だけに留めさせる。そして、まずは安全な基礎理論だけを用いて「実証」を行い、制御式の一部を意図的に欠落させた「基礎理論」として整理し直すことにする。
それが、今夜レンが出した結論だった。




