5話:妥協点と隠匿
研究棟の地下室は、地上の季節を知らない。
石壁が冷気を閉じ込め、空気は年中同じ温度で淀んでいる。天井の魔術灯が蒼白い光を落とし、壁の染みが人の横顔のように浮き上がっては消えた。
ここは理論魔術学部の生徒に割り当てられた実験準備室で、普段は誰も使わない。使わないからこそ、レンとアルフレッドはここを選んでいた。
「……レン、これ。元の数式からだいぶ削ってないか? 最大出力の係数も、触媒の配合比率もないぞ」
アルフレッドが机の上に広げた羊皮紙を覗き込み、訝しげに眉を寄せた。
それは、昨晩二人が組み上げた完全な増幅理論から、レンが一夜かけて意図的に核心部分を削ぎ落とした『基礎理論』だった。
「安全装置だ。昨晩も言ったが、あれをそのまま世に出すのは早すぎる」
レンが淡々と答えると、アルフレッドは少し不満げに口を開きかけ――しかし、羊皮紙の数式を追ううちに、その瞳に驚愕の色が浮かび上がった。
「いや、待て……意図的に削られているのに、理論としては完璧に成立している。なんだこれは。基礎理論だけでも、ものすごい変換効率じゃないか……!」
アルフレッドの声が、地下室の冷気を押し退けるように響き渡る。
レンが「安全装置」と称して何重にもリミッターをかけた状態であっても、魔力の乏しい術者が中級魔術師に匹敵する出力を引き出せる可能性が、そこには示されていた。
「これならいける! レン、今日の実証がうまくいったら、この『基礎理論』を学院に発表しよう。教授に見せれば、絶対に価値を認めてくれるはずだ!」
アルフレッドの瞳には、一切の濁りがなかった。計算でも野心でもなく、もっと手前にあるもの――虐げられてきた者たちが自分の足で立てるようになる未来を、この男は本気で信じていた。
弟たちの顔がその瞳の奥にあることを、レンは知っている。アルフレッドにとって増幅理論は抽象的な学問ではなく、弟たちの足元に敷く道でもあった。
レンの背中を冷たい汗が伝った。
前世で繰り返された光景が、思考の表面に浮かんでくる。
核分裂の制御は都市に灯りをともしたが、その同じ数式の延長線上に何が横たわっていたのかを、彼は前世の暦の上で知っている。
一人の手に収まるはずの魔術が、いとも容易く上級魔術師に匹敵する域へと膨れ上がるのなら、それは個の力という枠を越え、秩序そのものに亀裂を走らせるだろう。
しかし、友の純粋な願いを冷淡に切り捨てることが、今のレンにはできなかった。
切り捨てるための言葉を持っていないのではない。前世の知識を使えば、いくらでも論理的に否定できる。
「悪用されるリスクが高い」
「発表すれば、それを利用しようと目論む連中に囲い込まれる」
「お前の善意は他者の悪意の燃料になる」
――どれも正しいが、正しい言葉が正しい効果を生むとは限らない。
アルフレッドは「正しさ」のみで動かない人間だ。
「納得」で動く人間だ。
「……アルフレッド、全部を公開するのは、あまりにリスクが高い」
レンは低く、釘を刺すような声を放った。自分でも意図していなかった鋭さが喉から響く。
アルフレッドの眉がわずかに寄った。
「でも、これは平和のための……だからいずれは――」
「いいか」
自分がアルフレッドを遮ったことに、レン自身は少し驚いた。普段はしないことだった。アルフレッドの言葉を途中で断つのは、研究中に仮説の方向が明らかに間違っている時だけだ。
今はそれと同じ。いや、それ以上の緊急性を体が先に判断していた。
「力には必ず毒が混じる。誰でも使えるということは誰でも殺せる力にもなり得るということだ」
その言葉が地下室の空気を叩いた。
そして、アルフレッドが黙った。
反論する術を探しているのではなく、レンの声の温度を測っているような顔で。レンがいつもとは違う様子であることを、アルフレッドは感じ取っている。
レンは机の上を見た。アルフレッドのノート――増幅係数の核心データが記された、使い込まれた革表紙のノートが羊皮紙の隣に置かれていた。表紙の角が擦り切れ、何百回と開閉した痕跡がある。
「……アルフレッド。発表するにしても、あくまでこの理論の『基礎』だけに留めるんだ」
レンはノートの表紙を指差したまま、言葉を重ねた。
「増幅が起きるという原理と、その概念図。それだけを見せるんだ。具体的な数値や係数――核心データは伏せる」
レンはノートの表紙に視線を置いたまま続けた。
「その核心データはお前のそのノートの中だけに残しておけ。外には出すな。まだ、早すぎるんだ」
アルフレッドの口が開きかけて、何か言おうとして、飲み込んだ。
飲み込んだものが何かは、レンには読めなかった。反論か、疑問か、あるいはレンの表情から何かを読み取って引いたのか。しばらくの間、地下室には魔術灯の微かなうなりだけが流れていた。石壁の冷気がじわりと足元から這い上がってくる。
「……わかった」
アルフレッドの声は折れていなかった。レンの目を見返す瞳には、まだ熱い灯が宿っていた。
「ただし、条件がある」
「言ってみろ」
「基礎だけ見せるなら、それでもこの理論に意味があることを、圧倒的な結果として証明したい。言葉だけでは誰も動かない。俺たちと同じように魔力が少ない連中に、『これは本物だ』と見せつけたいんだ」
アルフレッドは少しの間を置いた。それは迷いではなく、言葉の重みを自分の中で確かめるためのものだった。
「俺に、実証ではなく『実演』をさせてくれ」
アルフレッドの声が震えていた。
それは手柄を立てたいという野心ではなく、切実な響きだった。
「レン、お前にはわかるだろう。俺みたいに魔力が少ないせいで、最初から『諦めろ』と言われてきた連中が、この学院にも、外の世界にもどれだけいるか」
その純粋な瞳が、レンを真っ直ぐに射抜く。
「俺はそいつらに、この理論が――俺たちが作り上げたものが、ただの紙屑じゃないってことを示したいんだ。弟たちに、『お前たちの道は閉ざされていない』と胸を張って言いたいんだよ」
レンはアルフレッドから視線を外し、手元にある核心部分を削ぎ落とした理論の羊皮紙を見つめた。
アルフレッドが希望を灯そうとすればするほど、それを不完全な形でしか世に出さない自分の「正しさ」が、ひどく残酷な裏切りであるかのように感じられた。
「小規模で演習室を使う程度のもの。学院の生徒と教授陣にだけ見せる。それでいいか」
実演は発表とは違う。論文として提出すれば、文字の形で記録が残り、複製されて流通する。
実演ならば、その場にいた者だけが見る。記録は記憶に限定される。精密な数値は伝わらない。
それならば、核心データは守れる。
「……わかった。いいだろう」
レンが頷いた。妥協点として成立している。完璧ではないが、許容範囲の中にあった。
アルフレッドが息をついた。緊張が抜けたのではなく、方向が定まったことによる安堵だった。ノートを手に取り、革表紙を指で撫でた。その仕草に大切なものを確認するような丁寧さがあった。
「触媒の準備は俺がやる。アルフレッドは実演の方を頼む」
「わかった」
二人は立ち上がった。地下室の冷えた空気が、動いた体に纏わりつく。
階段を上がりながら、レンはアルフレッドの背中を見ていた。
彼が胸元に抱えているノートの中に、この世界の均衡を崩壊させうるデータが眠っている。そして、それを抱えている男は、弟たちの未来のことを第一に想っている。その非対称が、喉の奥に苦いものを残した。
レンが手放したのは「発表しない」という選択肢。
アルフレッドが手放したのは「全てを公開する」という理想。
二人の間には、核心データを隠したまま世界に問いかけるという、不完全な形が残った。




