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3話:あなたが欲しい

数日後の午後、レンが図書館でミラベルとの研究を終えて廊下を歩いていた。


訓練場の方向から、誰かの足音が聞こえるたびに、振り返る癖ができていたことに、レンは気づいていなかった。


——セラフィナが待っていた。


彼女は窓辺に立ち、外を眺めている。いつもの訓練着ではなく、制服姿だった。背中越しでも、その肩に力が入っているのがわかる。呼吸のたびにわずかに上下する背が、妙に小さく見えた。


最近、レンとの時間が減っていた。そのことが、セラフィナの胸にかすかな圧を生んでいた。


このままでは、離れてしまう。


その予感が、今日ここに立たせた。


「セラフィナ」


レンが声をかけると、彼女は勢いよく振り返った。琥珀色の瞳が一瞬大きく見開かれ、すぐに伏せられる。


「レン……」


喉が動いた。何度か息を吸い込んでは吐き出すが、言葉が続かない。


「今日、夕方……訓練場に来てほしいの」


ようやく絞り出された声は、かすれていた。


「話?」


「ええ。どうしても、伝えたいことがあって」


セラフィナの手が、スカートの布を掴む。布が皺になり、指の関節が浮き出ていた。目線がレンの顔を捉えようとしては外れ、また戻ろうとしては逸れる。


「……わかった」


レンが頷くと、セラフィナは息を吐いた。安堵とも、諦めともつかない表情で、かすかに笑みを浮かべる。だが、その笑みはすぐに消え、ただ唇を引き結んだ。


「ありがとう。じゃあ、夕方に」


踵を返し、廊下の奥へ歩き出す。その歩調は不規則で、時折よろめくように見えた。角を曲がる直前、一度だけ振り返りかけて、結局そのまま消えていった。




夕暮れ、訓練場の石畳に長い影が伸びていた。


レンは木陰に立ち、門の方を見ている。数日前、セラフィナが「魔術は美しい」と言ったあの場所。あの時と同じ光が差し込み、同じ空気が漂っている。だが今日は、木の葉が乾いた音を立てるたびに、何かが違うと感じた。


やがて門が開き、セラフィナが入ってきた。


制服の襟元を何度も直し、髪を耳にかけては下ろし、また直す。足が進んでは止まり、また進む。ようやくレンの前まで来ると、三歩ほど手前で立ち止まった。


「来て、くれたのね」


息が浅い。胸が小刻みに上下し、喉が引きつっている。


「どうした?」


レンが問いかけると、セラフィナは下を向いた。ただ視線の行き場を失っているだけのようで、口が開き、また閉じる。


「言わなきゃいけないことが、あるの」


「何だ?」


問いかけに、セラフィナは答えない。ただ呼吸を整えようとして、何度も空気を吸い込んでは吐き出す。遠くで鳥が鳴き、その声が消えていく。


「私、あなたのことが好き」


その言葉が、静かな訓練場に落ちた。


レンは何も言わなかった。セラフィナも、レンの反応を確かめようとはしない。ただ次の言葉を手繰り寄せるように、少し間を置いてから続けた。


「でも、私の家には……呪いがあるの」


「呪い?」


「身体に刻印を刻まれているの。だから抗えない——それだけじゃないの。お母さまから、小さい頃からずっと言われてきたの。何度も、何十回も……『優秀な血を手に入れなさい』って。刻印のせいなのか、幼い頃から頭に刻み込まれた言葉のせいなのか、もう……自分でも、わからないの」


その言葉が、レンの耳に届く。胸の奥で、何かが冷たく固まっていくのを感じた。


「最初は……命令だったの」


セラフィナの声が速くなる。堰を切ったように言葉が溢れ始め、自分でも止められない様子だった。


「試験であなたを見かけたのは、偶然じゃなかった。あなたが『レン・アステリア』だって、知っていたから」


レンの顎がわずかに上がる。だがセラフィナは気づかない。顔を上げかけて、また目を逸らす。


「でも今は違うの。本当に違うの。あなたと一緒にいたい、魔術が美しいって思えたのも、感謝してるのも、全部、本当のことなの」


肩で息をしている。両手が胸の前で組まれ、指が白くなるほど力が入っていた。そこで初めて、言葉が一瞬止まった。


「でも……」


声のトーンが落ちる。


「でも、私……あなたの血が欲しいって、思ってしまうの」


その瞬間、セラフィナの体が小さく震えた。自分の口から出た言葉に、自分自身が傷ついたかのように。


「あなたに触れたくて、つながりたくて、結ばれたいと……心の底から、思うの」


額に汗が滲み、呼吸が乱れていく。セラフィナ自身も、何を言っているのかわからなくなっているようだった。しかし言葉は止まらない。


「これは命令なの? 本心なの? 刻印のせい? 自分でも、わからない。家族に言われたから? それとも本当に私が……わからないの、自分でも全然、わからない……」


最後の方は、ほとんど呻きのようになっていた。


レンは、黙って聞いていた。


木の葉が擦れ合う音だけが、二人の間に流れる。遠くで誰かの笑い声が聞こえ、すぐに消えた。夕陽が傾き、訓練場を橙色に染めていく。


「……レン?」


セラフィナが、ようやく顔を上げる。その瞳は涙で潤んでいた。


「何か……言って……お願い……」


レンは、ゆっくりと息を吐いた。


「お前も、同じなのか」


声は静かだった。だからこそ、その冷たさが際立つ。


「……何、のこと?」


「お前も『アステリア』の血統が欲しいだけだったんだろう。何が違うんだ」


セラフィナの顔から、血の気が引いていく。膝がわずかに揺れ、それでも立ち続けようとしていた。


「やっぱり、同じだったんだな」


「違う! 私は——」


レンが一歩踏み出すと、セラフィナは足がもつれて後退した。


「何が違う?」


セラフィナの口が開くが、喉が引きつって言葉にならない。レンはその様子を一瞬見てから、続けた。


「お前の『魔術が美しい』という言葉は、本心か。お前の『私も道具じゃない』という気づきは、本当か。それとも全部……俺を手に入れるための、演技だったのか」


「違……う……演技なんかじゃ……」


かすれた声が、ようやく出た。


「でも……」


「でも、何だ?」


「わから……ないの……」


涙が溢れ、頬を伝う。声は途切れ途切れで、もはや言葉の形を保てていない。


「本当に……わからない……本心なのか……刻印のせいなのか……自分でも……」


立っているのがやっとのようで、膝が今にも折れそうだった。


レンはその姿を見つめながら、母の面影が脳裏をよぎるのを感じていた。


リディア・アステリア。


公爵に利用され続けた母。道具として扱われ続けた母。彼女も、こんな風に苦しんだのだろうか。自分の意志と、周囲の期待の狭間で。


でも。


「俺には、関係ない」


レンが背を向ける。その動作は静かで、躊躇がなかった。


「え……?」


「お前の想いが本心だろうが刻印だろうが、俺には関係ない。結果は同じだ。お前は血統が欲しい。俺を人として見ていない。遺伝子の入れ物として見ている。その事実だけで、もう十分だ」


「レン……!」


セラフィナが手を伸ばし、レンの背に触れそうになったが、指先は空を掴むだけだった。


レンの足が、ほんの一瞬だけ止まり、振り返りかけた。


「お前だけは、違うと——」


言いかけて、レンは言葉を切った。


「……違うと思いたかった」


「もう、話しかけるな」


言葉が、夕暮れの空気を切り裂いた。


レンは歩き出す。靴音が石畳に響き、一歩ごとに距離が開いていく。背中は真っ直ぐで、一度も振り返らなかった。門をくぐり、影の中へ消えていく。


セラフィナは、伸ばした手をそのままに立ち尽くしていた。


力が抜け、腕が下がる。喉の奥から、小さな嗚咽が漏れた。


「違う……」


誰にも聞こえない声で呟く。


「違うの……」


でも、何が違うのか。胸の奥で渦巻く想いが本心なのか呪いなのか、言葉にできない。ただわかるのは、もう手遅れだということだけ。


「レン……」


呼びかけるが、答えは返ってこない。訓練場には、葉擦れの音だけが残っていた。


膝が折れ、セラフィナは石畳に崩れ落ちた。制服の裾が地面に広がり、涙が落ちて染みを作る。


あの日、幸せだった場所。「魔術は美しい」と気づけた場所。「道具じゃない」と思えた場所。その同じ場所で、すべてが壊れた。


夕陽が沈み、空が深い色に変わっていく。訓練場の灯りが灯るが、その光は冷たく、セラフィナの影を長く伸ばすだけだった。


遠くで夕食の鐘が鳴る。でも、セラフィナは動けず、ただ泣くことしかできなかった。


夜が訪れ、訓練場は闇に包まれていく。石畳に落ちる涙が、星々の明かりを受けて小さく光っていた。

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