2話:束の間の光明
夏の夕暮れ、訓練場には二人だけが残っていた。
他の生徒たちはすでに帰り、石畳には長い影が伸びている。夕陽が訓練場全体を橙色に染め、空気が柔らかな光に包まれていた。
セラフィナが的の前に立ち、深呼吸をする。レンは少し離れた場所で、その様子を見守っていた。
「炎よ、静かに灯れ」
詠唱が、静かな空気に溶け込むように響く。
手のひらから、炎が立ち上がった。
揺らぎがなく、安定していて、それでいて生命力に満ちている。橙色の光が夕陽を受けて、まるで宝石のように輝いていた。炎は静かに脈打ち、セラフィナの意志に従って形を保っている。
レンは、その炎を見つめていた。
——美しい、と思った。
何かを、美しいと思ったのは、あの時以来だった。
前世では、科学を美しいと思ったことがある。化学反応の精密さ、物理法則の普遍性。それらには、理性的な美しさがあった。
でもこの炎は、違う。
理性ではなく、感性に訴えかける美しさ。計算できない、説明できない、ただ心が動かされる美しさだ。
セラフィナが腕を振ると、火炎弾は迷いなく空気を裂き、的の中心へと吸い込まれるように進んだ。衝撃とともに炎が弾け、円形の焦げ跡を残す。立ち上る煙が夕風にさらわれ、淡くほどけていった。
「……やった」
セラフィナが小さく呟き、自分の手を見つめる。その声には、静かで深い満足が滲んでいた。
彼女がゆっくりと振り返り、レンへ視線を向ける。夕陽が彼女の髪を照らし、炎のように輝いていた。琥珀色の瞳が、光を宿している。
「見た? レン」
「ああ」
「上手くなったでしょう?」
「……ああ、上達しているな」
言葉を受け取ると、彼女の口元がゆっくりとほどける。その笑みには誇示よりも確かめるような響きがあった。
「ねえ、レン」
やがてセラフィナは歩み寄る。石畳に落ちる靴音が一定の間隔で近づき、やがてレンの前で止まった。
「私ね……ずっと、自分の炎が嫌いだった」
その声は静かで、でも確かな重みを持っていた。
「制御できなくて、暴走して、周りのものを壊して、魔術と向き合ったって、何も楽しさなんて感じなかったの」
「……そうか」
一度息を置き、夕陽に照らされた横顔がわずかにかげる。
「でも……あなたと出会って、変わった」
「何が変わった?」
「あなたの青緑の炎を見た時、初めて思ったの。魔術って、こんなに綺麗なんだって」
その言葉に、レンは少し驚いた。
「あんな色の炎、見たことなかった。神秘的で、美しい……って思ったの」
彼女の声は落ち着いているのに、言葉を選ぶたびに息が浅くなり、胸の奥に触れられた何かを確かめるようだった。
「それまで私、魔術なんて道具だと思ってた。家のため、血統のため、目的のために使うものだって、自分にも言い聞かせてきたの」
指先が無意識にローブの裾をつまみ、視線が足元へと落ちる。夕陽がその睫毛の影を長く引き伸ばし、石畳の上に淡い輪郭を描いていた。
「……」
レンは何も言わなかった。
セラフィナはもう一度息を吸い、今度は顔を上げる。
「でも、あなたの炎を見て……違うんだって気づいた。魔術は、美しいものなんだって。そして——」
「私も、道具じゃなくて、人として、生きていいんだって」
「あなたが……レンが教えてくれた」
名を呼ばれた瞬間、レンの喉はわずかに乾き、返すべき言葉が胸の奥でほどけきらないまま留まる。風が吹き抜け、どこからか舞い込んだ葉が二人のあいだを横切り、長く伸びた影を揺らした。
「ありがとう、レン」
「あなたのおかげで、私は変われた」
「自分の炎を、少しずつ誇れるようになった」
「私自身を、大切にできるようになった」
レンは胸の奥で静かに息を吐き、自分が灯した炎が、誰かの中で形を変えて残っていたことを思う。そして、彼女の言葉が確かに自分へ向けられていると感じると、足元の地面がわずかに柔らいだように思えた。
「……お前は、道具なんかじゃない」
ゆっくりと口を開く。
「一人の、立派な魔術師だ」
セラフィナのまぶたがわずかに震え、頬を伝う光が夕陽を受けて揺れたが、唇には笑みが残っている。
「ありがとう」
二人は、しばらく黙って立っていた。
夕陽が沈みかけ、空が藍色に染まっていく。訓練場の木々が風に揺れ、葉が擦れ合う音が静かに響く。
「ねえ、レン」
セラフィナが口を開く。
「これからも、一緒にいてくれる?」
「一緒に?」
聞き返した声は低く、慎重なものだった。
「訓練とか、研究とか……そういうの」
言葉の続きを探すように、セラフィナは一歩近づき、視線を外しかけてから、慌てて言い直した。
「まだ、知らないことがたくさんあるの。あなたの考え方も、炎の扱い方も……ちゃんと、自分のものにしたい」
彼女の声音は穏やかだったが、その奥にある切実さは隠されておらず、レンはそのまっすぐさから目を逸らせなくなる。彼女が求めているのは肩書きでも血筋でもなく、ただ隣で同じ景色を見続ける時間なのだと。
沈みかけた空の色がさらに濃くなり、二人の影がゆっくりと重なる。レンはわずかに視線を落とし、足元の石畳を見つめたあと、静かに息を吐いた。
「……ああ」
レンが頷くと、セラフィナは嬉しそうに笑った。
「よかった」
やがて完全に日が沈み、訓練場に灯りがともる。二人は並んで歩き出し、石畳に落ちる足音が夜の静けさに溶けていく。ときおりセラフィナが視線を向け、そのたびにレンはわずかに頷くだけだが、歩調は自然と揃っていた。
その夜、レンは自室の窓辺に立ち、遠く瞬く星をしばらく眺めた。胸の奥に残る感覚はまだ定まらないまま、しかし確かにそこにある。誰かの言葉が自分の内側を揺らし、その揺れが不快ではなかったことを、静かに受け止める。
レンは窓を閉め、ベッドに横になった。暗闇の中で目を閉じたとき、夕暮れの炎と彼女の声が、淡い残像のように胸の奥に浮かんでいた。
こんな気持ちになるのは、久しぶりだった。




