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1話:研究対象

春が過ぎ、初夏の陽光が学院の窓を照らす頃、レンは図書館にいた。


高い天井から差し込む光が、埃を照らして白く浮かび上がらせている。古い本の匂いが満ち、ページをめくる音だけが静かに響いていた。レンは窓際の席に座り、分厚い魔術理論の本を開いている。


魔力増幅の理論について書かれた古い文献だ。アルフレッドと進めている共同研究のための資料だった。


ページをめくり、マナの循環について書かれた章に目を留める。触媒を使えば、少ない魔力でも効率的に術を行使できる可能性がある。化学反応における触媒と、似た概念だ。興味深かった。


そこへ、小さな物音が聞こえた。


レンが顔を上げると、数メートル離れた席に、一人の少女が座っていた。いつからいたのか、気づかなかった。茶色の髪を後ろで結び、質素な制服を着ている。その制服は洗い古され、袖口がわずかに擦り切れていた。


少女は薄い本を開き、眉間に皺を寄せながら読んでいた。ページを行きつ戻りつし、同じ箇所を何度も読み返している。やがて小さなため息をつき、ノートに何かを書き込んだ。すぐに止まり、首を振って書いたものを消す。


その繰り返しだった。


レンは、少女が読んでいる本のタイトルを確認した。


『魔術基礎理論 入門編』


しばらく観察していると、少女がため息をついて本を閉じた。目を閉じ、何かを思い返すように口元をわずかに動かしている。詠唱の確認だろうか。それから目を開き、また本を開く。


「……読んでも、わからない」


小さな独り言が、静かな図書館に漏れた。少女はすぐに口を押さえ、周囲を見回す。レンと目が合い、彼女はびくりと肩を竦めた。


「す、すみません。独り言で……」


「気にしない」


レンが答えると、少女は小さく頭を下げた。そして、また本に視線を落とそうとする。


「どこがわからない?」


レンが問うと、少女は顔を上げた。大きな青い瞳が、戸惑いを映している。


「え……?」


「その本、どこがわからないのかと聞いた」


少女は少し躊躇したが、やがて本を開いた。


「ここです。マナの流れについての説明が……何度読んでも、言葉の意味はわかるんですが、実際どういうことなのか、ピンとこなくて」


「実技は?」


「え?」


「実際に魔術を使う時は、どうだ? 感覚でわかるか?」


「それは……できます。先生にも、制御が上手いと言われるんですが、理論の方が……」


レンは、少し考えた。実技はできるのに、理論がわからない。通常は逆だ。理論を学んでから実技で苦労する。


「実技を見せてもらえないか」


「え? 私の、ですか?」


「ああ」


ミラベルは困惑した顔をした。


「で、でも、なぜ……私なんかの実技を……」


「興味があるから」


「……私のような者の魔術に、興味を持っていただけるんですか?」


その問いには、自分を低く見る響きがあった。不思議そうというより、信じられない、という感じだった。


「お前の名前は?」


「……ミラベル・シルフィードです」


シルフィード。かつては名を馳せた貴族家だが、今は没落している一族だ。


「レン・アステリアだ」


レンが名乗ると、ミラベルの顔色が変わった。椅子を引いて立ち上がりかけ、慌てて止まる。


「ア、アステリア家の……失礼しました、こんなところにお声がけしてしまって」


「お前が声をかけたわけじゃないだろ…」


「でも、お時間を取らせてしまって……私のような者が、レン様のお手を煩わせるわけには……」


「ミラベル」


レンが遮ると、ミラベルは口を閉じた。


「外で実技を見せてくれ。それだけでいい」


ミラベルはしばらく迷っていた。視線を落とし、手の中の本を見つめる。やがて、小さく頷いた。


「……わかりました」


二人は図書館を出て、人気のない中庭の隅へ向かった。陽光が降り注ぎ、石畳が熱を帯びている。


並んで歩きながら、レンは胸元にわずかな違和感を覚えた。星光石だ。いつもの一定した放出とは異なる、ごくかすかな揺らぎがある。ミラベルの歩調に合わせて生じ、彼女が立ち止まると収まる。


気のせいだろう、とレンは思った。特に変わったことは何もない。


「簡単な術でいい。何でも」


レンが言うと、ミラベルは頷いた。深呼吸をして、手をかざす。


「炎よ、灯れ」


詠唱が響く。手のひらから、炎が立ち上がった。


レンの目が、鋭くなる。


小さな炎だ。だが、その揺らぎが、異様に少ない。安定していて、無駄がない。まるで、必要最小限のマナだけで維持されているかのようだ。


「次、火炎弾を」


ミラベルは頷き、炎を放った。軌道は安定し、速度も一定だった。遠くの木に当たり、小さな焦げ跡を残して消える。


レンは息を呑んだ。


普通の術者なら、あの距離を飛ばすのに、もっと消費するはずだ。でもミラベルは、最小限のマナで、最大限の効果を出していた。それも、無意識に。


「もう一度」


レンが前に出る。その足取りが速くなり、ミラベルとの距離が一気に縮まった。


「あ、はい」


ミラベルがわずかに戸惑いながら、もう一度詠唱を始める。レンはその声に合わせるように歩み寄り、彼女の手元から数十センチの距離で足を止めた。


「レン様……?」


「動くな」


低く抑えた声だった。視線は炎に固定されている。手のひらから立ち上る火の揺らぎ、その色合いの変化、熱の偏り――細部を追う目に、迷いはない。


次の瞬間、レンは無意識のままミラベルの手首に触れていた。


「え?」


小さな声が漏れる。その瞬間、長袖の袖口がわずかにずれた。レンの視線が一瞬そこへ向く。


手首の内側に、薄い線が走っていた。古い傷跡にしては妙に整っていて、自然には生じない種類の痕跡だった。ミラベルは素早く袖を引き下ろし、何事もなかったように顔を逸らす。その動作は、あまりにも慣れていた。


「少し、角度を変えてくれ」


レンはそれ以上触れなかった。ミラベルの手首を支点にして、わずかに向きを調整する。


「こ、こうですか……?」


「ああ。そのまま、もう一度詠唱を」


触れられていることを意識しているのは、どうやらミラベルだけらしい。


「え、えっと……炎よ……」


詠唱がわずかに揺れる。


「集中しろ」


変わらぬ声音でレンが言う。手首を掴んでいる事実は、彼の意識の外にあるようだった。


ミラベルは小さく息を吸い込み、改めて言葉を紡ぐ。


「炎よ、灯れ」


火が立ち上がる。レンはその変化を逃すまいとするように目を凝らし、わずかな波形の違いを見比べていた。


「……そうか。角度を変えても、マナの流れは変わらない。身体の動きとは独立している」


ひとりごとのような結論が落ちる。ミラベルはまだ顔を伏せたままだ。


「あの、レン様……」


「様はいらない。レンでいい」


「……では、レン、様……あの」


「何だ」


ためらいののち、かすれた声が続く。


「もう少し、距離を……」


その言葉でようやく、レンは自分の手の位置を認識した。視線が炎から外れ、指先へ落ちる。


ミラベルは身をすくめるようにしている。


「……すまん」


一歩退く。それでも目だけは、まだ彼女の手元を離れなかった。


「お前の魔術、無意識にマナを効率化している」


「え……?」


「ほとんどの術者は、マナを一気に放出する。でもお前は違う。少しずつ、必要な分だけを放出している。意識せずに」


ミラベルは、自分の手を見つめた。


「私が……そんなことを?」


「ああ」


「……全然、気づきませんでした」


ミラベルが呟く。その目が、自分の手元からゆっくりと袖口へ動いた。ほんの一瞬。すぐに視線を戻したが、その間に何かを確かめようとしたようにも見えた。


「どうして……私にそんなことができるのか……」


「それが知りたい」


レンが言うと、ミラベルは顔を上げた。


「え……?」


「お前がなぜそれをできるのかが、知りたい。協力してくれないか」


ミラベルは戸惑った顔をしていた。しばらく俯いて考えている。


「……私でお役に立てるなら」


「お役に立てるなら、じゃない。お前の研究だ」


「私の……?」


「お前自身が、なぜそれができるのかを理解することだ。俺が知りたいのは、そのためだ」


ミラベルはしばらく沈黙していた。


「……わかりました」


小さく、でも確かな声だった。


「でも……本当に、私なんかで、よかったんですか?」


レンは、その問いに少し面食らった。


「お前以外に、この現象が起きている術者を俺は知らない」


「そう……ですか」


ミラベルは少し俯いた。それが褒め言葉なのか、そうでないのか、まだ掴みかねているようだった。


二人は中庭のベンチに座り、話を始めた。


レンが質問し、ミラベルが答える。彼女はいつも少し遠慮がちで、自分の意見を述べる前に「間違っていたら申し訳ないのですが」と前置きする。レンが何かを指摘すると過度に謝り、褒めると信じられないという顔をした。


そのたびに、レンは少し煩わしさを感じた。遠慮は美徳かもしれないが、行き過ぎると話が進まない。


「お前、もう少し自分の意見を言え」


「え……?」


「遠慮しすぎだ。俺が聞きたいのは、お前が実際にどう感じているかだ。謝罪じゃない」


ミラベルは、少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりと頷く。


「……わかりました。努力します」


その返事も、どこか遠慮がちだったが、レンはそれ以上言わなかった。


気づけば、日が傾いていた。


いつの間にか身を乗り出していたレンは、ベンチの背もたれから離れ、少し姿勢を正した。ミラベルのノートには、二人のやり取りが細かく書き込まれている。こんなに時間が経っていたとは、思っていなかった。


ミラベルが荷物をまとめ、軽く頭を下げて中庭を去っていく。その背中が木陰に消えるのを見届けてから、レンは初めて姿勢を戻した。肩が鳴り、背中が張っている。いつの間にかずいぶん前のめりになっていたらしい。


帰り際、ミラベルは片手でもう一方の袖口をそっと引き下げた。誰かに見せるためでも、隠すためでもなく、ただ確かめるような仕草だった。その動作に気づいたのはレンだけだったが、彼も何も言わなかった。


廊下の方へ歩き出しながら、頭の中でミラベルのマナの流れを反芻する。身体の動きと独立している。ならば、意識の問題か。それとも、もっと根本的な何かがあるのか。


考えごとをしながら廊下を曲がったところで、角に立つ人影が目に入った。


──セラフィナだった。


訓練着のまま壁に背を預けていたが、レンに気づくとわずかに身体を起こし、そのまま何事もないように立ち直る。だが整えられた姿勢に反して、表情はいつもより硬い。


「セラフィナ」


「……ちょうど訓練の帰りで」


その声が落ち着いている分だけ、わずかな間が目立った。


「誰かと、いたの?」


問いかけは軽い調子を装っていたが、視線は一瞬だけレンの後方へ逸れ、ミラベルが消えていった中庭の方角を確かめるようにかすめてから戻ってくる。


「ああ、魔術の研究で少し話していた」


「そう」


短い返事をした。しかし、そこで言葉を閉じたあとに残る沈黙が、先ほどまでの空気をわずかに変えていた。


「訓練、終わったのか」


「ええ」


「じゃあ、また明日」


すれ違うようにレンが歩き出すと、足音が一定の間隔で遠ざかっていく。セラフィナは小さく頷き、その背中を見送ったが、やがて視線は自然に中庭へと落ちていった。


木陰のベンチには、つい先ほどまでそこに並んでいた二人の距離が、形を失いきらぬまま残っているように思われる。その距離の近さが意味するものを、彼女はまだはっきりとは考えない。


胸の奥にかすかな圧がある。それが何に由来するのかを確かめる前に、セラフィナはゆっくりと息を吐いた。


それでも、足はすぐには前へ出なかった。

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