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2話:風のゆくえ

 それからというもの、レンとミラベルは、週に幾度となく図書館の静寂へと足を運ぶようになった。


 ページの擦れるかすかな音と、インクの匂いが沈殿するその場所は、二人にとっていつしか、思考を交わすための空間となっていた。


 初夏の気配が日に日に濃さを増し、陽光が柔らかさの奥に熱を忍ばせ始めた頃、二人はいつもの席で向かい合っていた。


 机上には、ミラベルのノートと分厚い魔術理論書が幾層にも重なり、まるで思考の地層のように広がっている。


「昨日、試してみたんです」


 そう告げる声は控えめでありながら、どこか内側に灯を抱いているようだった。


 ミラベルはノートを開き、そっと差し出す。その頁には、几帳面な筆致で刻まれた実践の軌跡が、静かに息づいていた。


「風術を10回連続で放ってみました。毎回どのくらい疲れるか、記録して」


 レンは身を寄せるようにして覗き込む。整然と並ぶ数値、滑らかな曲線を描くグラフ。それらは単なる記録ではなく、彼女の身体が語る証言だった。


「10回目でも、疲労はほとんど変わらなかったと?」


「はい。5回目以降は、ほとんど同じでした」


 内心で、別の誰かの限界を測る声がかすかに響く――三度で尽きる炎術。その比較は口には出さず、思考の奥に沈める。


 消費の異様な低さ。結論は、静かに収束していく。


「もう一度、実技を見せてくれないか」


 言葉は穏やかだったが、その裏で観測者の目が鋭く開かれている。


 二人は図書館を後にし、中庭の木陰へと歩み出た。石畳は陽を蓄えてじんわりと熱を返し、風は葉の隙間をすり抜けて、かすかなざわめきを運んでくる。


「前と同じように」


 ミラベルは小さく頷き、掌を空へとかざした。


「風よ、舞え」


 そのひと声が落ちた瞬間、沈黙していた空気が目を覚ます。掌の上に凝縮された見えない流れが、かすかな歪みを孕みながら膨張し、やがて弾けるように解き放たれた。


 放たれた風は迷いを知らず、ためらいもなく一直線に空間を裂き、軌跡だけを静かに刻みながら走り抜けていく。


 レンの視線は、そのすべてを縫い留めるように追っていた。マナの流動、風の生成、その軌道に潜む微細な癖――どれを切り取っても、過不足という言葉が入り込む余地はない。


「ミラベルは詠唱の時に何を意識してるんだ?」


「特に何も……意識していないです」


「風力の強さとか、勢いとか」


「それは意識してます。でも、それ以外は……ただ、自然に出る感じです」


 自然に――。


 その言葉は紙の上に落ちる前にレンの思考の中で転がり、ノートに記された。意識の外側で最適化が進み、身体が先に答えへ辿り着いている。


「子供の頃から、よく練習してたか?」


「はい。私ができることは魔術だけだったので」


 ほんのわずかな沈黙が、言葉の隙間に落ちた。


「毎日練習してました。朝も、夜もずっと」


 その響きは淡々としているのに、どこか削れた時間の重みを含んでいた。


 レンは、ペンを置くことを忘れていた。


「……ミラベルはすごいな」


 思わず零れた言葉に、ミラベルの表情が揺れる。


「え?」


「お前の身体は最適な方法を学習してる。意識せずに、効率的な魔術を行使できる。それは紛れもなく才能だ」


 断言は静かだったが、揺るがない芯を持っていた。


 ミラベルの頬が、夕焼けのようにじわりと染まる。


「そんな……才能なんて……」


「いや、これは才能だ。ミラベルの努力があってのことは勿論だが、それだけで届くものじゃない」


 その言葉は、否定の余地を与えない。


「普通の術者は、何年かけても辿り着けない。お前の身体が特別なんだ」


 ミラベルは俯き、耳まで紅く染めながら言葉を探す。


「……ありがとうございます」


 その一言には、これまで誰にも触れられなかった部分に初めて光が当たったような、かすかな揺らぎがあった。


 レンは何も返せない。ただ、風に揺れる木々と、その横顔を見つめている。葉擦れの音が、二人の間に静かな幕を下ろす。


 やがてミラベルが顔を上げる。潤んだ瞳の奥に、それでも消えない光を宿して。


「もっと、調べましょう。私の魔術が、なぜこうなるのか。私も知りたいです」


「ああ、わかった」


 その短い応答の中に、同じ方向を向く意志があった。


 二人は再び図書館へ戻る。向かい合い、ページをめくり、ペンを走らせる。その繰り返しの中で、言葉にならない理解が静かに積み重なっていく。


 ミラベルはときおりレンの横顔を盗み見る。レンはその視線に気づかぬまま、何かを呟き、書き続けている。

 その姿に、自分が「見られている」ことの意味を、彼女はまだうまく言葉にできない。


 研究対象と呼ばれても構わなかった。ただ、自分がここにあると認識されていることが、なぜか温かかった。


 ふと、レンは気づく。


 自分の口元が、わずかに緩んでいることに。すぐに引き締めるが、その一瞬は確かに存在した。

 言葉を探さなくてもいい静けさの中にいる自分が、不思議と安らいでいることに、まだ慣れていないまま。


***


 翌日の午後、レンは研究棟でアルフレッドと落ち合った。


「ちょうどよかった。今日の研究、時間あるか?」


「ああ、問題ない」


 二人は研究室へと足を向ける。紙とインクの匂いが満ちる空間で、アルフレッドが資料を広げ、複雑に絡み合う理論図を指し示した。


「ここなんだが、どうしても効率が上がらなくてな」


「少し待て」


 レンは即座にノートを開く。

 そこには観察の蓄積が、秩序だった形で刻まれていた。


「マナの放出速度を一定に保てば、循環も安定する可能性がある」


 アルフレッドが身を乗り出し、視線を滑り込ませる。


「一気に放出するんじゃなく、細く、均一に流す」


 指先でグラフをなぞりながら、レンは思考を言葉へと変換していく。ミラベルの無意識の効率化を理論の骨格へと編み直すように。


「それ、増幅理論に応用できるんじゃないか?」


「できると思う」


 その瞬間、アルフレッドの目が光を帯びる。思考が跳ねる時、彼は周囲を忘れる。その無防備さが、どこか心地よかった。


「増幅だけじゃなく、効率も重ねれば、少ない魔力で強力な術が使える」


「すごいな、レン……! お前といると、いつも新しい発見があるよ」


 その刹那、脳裏に蘇ったのは、前世の研究室。かすかな試薬の匂い、夜更けまで続いた実験、閉ざされた空間に満ちた熱だった。


 肩を並べ、思考を積層していくあの感覚。言葉かけずとも、繋がっていく理解の流れ。

 その既視感が、前世という遠い水底からふと浮かび上がると、胸の奥へひとしずくの冷たい雫が落ちた。


 それでもなお、二人の議論は途切れない。思考は呼吸のように往復し、言葉は最小限の形で交わされる。

 やがて新たな循環経路が、白紙の上に現れ、ゆっくりと確かな意志をもって、形を結んでいった。


「試してみていいか」


 重い沈黙を破り、レンは羊皮紙から目を上げずに言った。鞄の内ポケットに手を入れる。取り出したのは小さな布袋が二つ。片方はいつもより粗い粒子、もう片方はその半分ほどに挽いてある。どちらも星光石の粉末だが、配合の比率が違う。


 机の端を指で拭い、間隔を空けて、それぞれの粉末を細く伸ばした。


「何をするんだ? もうその素材は……」


 疲労の滲む顔でアルフレッドが身を乗り出す。レンは答えず、羊皮紙の複雑な計算式を指先でなぞってから、左の粉末の列の端に魔術灯の光をかざした。


左が灯った。


 細い線が端から端まで、淀みなく、ただ静かに進んでいく。まるで氷の上を滑るようにほぼ均一な速度で、一点の濁りもない淡く青白い光の線を引いた。


 対して、右はばらついた。大粒の粉末が先に強く発光し、間を埋める細粒が続こうとするが、密度の差が流れを乱す。光の進行が波打ち、途中でむせ返るように一度消えかけてから、また戻った。


「……片方だけ、きれいに続いてる」


 アルフレッドの声は問いではなかった。限界まで見開かれた目が、光の軌跡を追っている。ただ目の前で起きていることを口に出しただけの声だったが、その声には明らかな熱が宿り始めていた。


 左の列が最後まで光り終わり、端の粉末が静かに、完璧な伝導を証明するように残光を落として消える。


「増幅の循環経路に、これを組み込めるか?」


「設計次第では……いや、いける」


 その答えを聞くや否や、アルフレッドは弾かれたようにノートを引き寄せた。先ほどまでどれだけ睨みつけても出口の見えなかった循環経路の図の余白に、新しい線を引き始める。その手が一切の迷いなく動いているのを、レンは横目で見ていた。


 机の上に残る、二本の粉末の跡。それは、彼らがようやく乗り越えた壁と、新たに開かれた道の象徴だった。

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