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5話:青い揺らぎ

 初夏の訓練場は、朝から熱気に包まれていた。石畳が光を跳ね返し、空気が白く揺らめいている。生徒たちの汗が光り、水を求める声があちこちから聞こえる。


 レンとセラフィナは、いつもの場所で訓練を続けていた。あれから2ヶ月が経ち、セラフィナの制御は目に見えて向上していた。


「炎よ、静かに灯れ」


 セラフィナの詠唱が、落ち着いた声音で響く。以前のような力みはない。ただ静かに、言葉を紡ぐ。手のひらから炎が立ち上がり、穏やかに揺らめきながら形を保つ。彼女はゆっくりと息を吐き、火炎弾を放った。


 炎は唸りを上げ、空気を焦がしながら一直線に的へと突き進んだ。


 そして、小さな破裂音とともに的の中心で炎が弾け、焦げた匂いが立ち上る。的の中央が黒く染まり、煙がゆらりと立ち昇っていった。完璧な命中だった。


「やった!」


 セラフィナが勢いよく振り返り、その顔を輝かせる。抑えきれない喜びが表情全体に溢れ、琥珀色の瞳が光を受けて煌めいていた。


「見た? レン、見てた? 中心に当たったわ!」


「ああ、見ていた」


 レンが静かに頷いた瞬間、セラフィナの表情がぱっと明るくなった。胸の奥からこぼれ出たようなその表情は、あまりにまっすぐで、レンは正面から受け止め続けることができず、わずかに視線を逸らした。


 周囲の生徒たちもほどなく気づき始めていた。訓練の手を止めて振り返る者、何事かと目を見開く者、隣の仲間と小声で言葉を交わす者。そうした視線が、次第に一つの場所へ集まっていく。気づけば、いくつもの視線がこちらへ向けられていた。


 セラフィナは照れくさそうに少し頬を染めながらも、その表情には誇らしさが滲んでいた。以前のように、周囲の評価を恐れる様子はもうない。


 訓練が終わると、二人は木陰へ移動した。石のベンチに腰を下ろし、水筒を傾けて冷たい水を喉に流し込む。風が吹き抜けると、汗ばんだ肌が冷えていった。


「レン、本当にありがとう」


 セラフィナが水筒を膝に置き、レンへ視線を向けた。


「あなたのおかげで、ここまで来られた」


 その声には、心からの感謝が込められていた。レンは視線を逸らし、遠くの木々を眺める。風に揺れる枝葉が、さざ波のように光を弾いていた。


「俺は何もしていない」


「そんなことないわ」


 レンがそう言うと、セラフィナはすぐに小さく首を振り、揺れた髪が肩の上でやわらかく弧を描いていた。


「あなたが教えてくれたから、私は変われた。制御の仕方も、詠唱の方法も、全部」


 その言葉が、妙に重く感じられた。


 実際のところ、何かを授けたわけではない。時折、思いついたことを口にしただけだ。セラフィナがここまで来たのは、紛れもなく彼女自身が積み重ねてきた努力の結果だ。


 それでも彼女は、ためらいなく感謝を向けてくる。まるで自分の変化のすべてをレンに預けてしまっているかのように。


 その無垢な信頼が、胸の奥をじわりと締めつけた。


「お前が、自分で頑張ったんだ」


 レンが小さく呟く。


「俺は、ただ見ていただけだ」


「でも――」


「お前の努力だ」


 レンの声がいつもより強い調子で遮る。セラフィナははっとした顔でレンを見つめたが、やがて表情を和らげ、小さく微笑んだ。


「そう言ってくれるなら、私も素直に誇りに思うわ」


 彼女はゆっくりと顔を上げ、空を見上げた。高く広がる蒼穹には白い雲がゆるやかに流れ、そのあいだを一羽の鳥が風に乗って横切っていく。遠ざかる羽音はかすかで、ただ広い空が、静かに広がっていた。


「でも、あなたがいなければ、ここまで来られなかった。それだけは確かよ」


 その言葉は軽やかに発せられたはずなのに、風に乗ったあとも消えずに残り、レンの内側へ静かに沈んでいく。


 レンは何も答えられず、視線を木立へと逃がした。風に揺れる枝葉が擦れ合い、ざわり、ざわりと音を重ねながら、光と影のまだらな揺らぎを地面へと落としていた。


 重なり合う葉の隙間から差し込む光は一定ではなく、揺れるたびに形を変え、まるで言葉になり損ねた思考のように、はっきりとした形を持たないままそこにあった。


 セラフィナは、レンの横顔をじっと見つめていた。彼の表情はいつも何かを考え込んでいるように見える。遠くを見つめる瞳は、どこか寂しげで、手の届かないものを追いかけているようだった。


 そのとき、風が訓練場を横切る。二人のあいだをすり抜けていき、木々の葉が擦れ合って乾いた音を立てた。


 そして、ふと気づく。


 セラフィナを見ている視線が、以前とは少し違っていることに。


 彼女の笑顔も、ここまで積み重ねてきた成長も、ただ隣に並んで立っているという事実でさえ、気づけば胸の奥に静かな温度を残していた。まるで消えずに灯り続ける小さな火のように、その感覚はゆっくりと、確かな形を持ち始めていた。


 これを分類しようとすると、既存の枠が全部ずれる。友情とは違う。恋愛とも違う。前世で知っている言葉を当てはめるたびに、何かが余る。そんな感覚だった。


 レンはセラフィナから視線を外した。


 訓練場の空を見ると、炎の軌跡がまだ熱の残滓として揺らいでいた。


 前世の記憶を持つ自分が、まだあどけなさを残した少女の存在に心を揺らされている。その事実に気づくたび、胸の奥に小さな戸惑いが生まれた。理屈では状況を整理しようとするのに、感情のほうが先に動いてしまう。


 制御の利かない反応が、じんわりと湧き出してくるようだった。


「レン?」


 セラフィナの声が、レンの思考を引き戻す。


「どうかしたの?」


「……何でもない」


 レンは椅子からゆっくりと腰を上げ、固まっていた身体をほぐすように背筋を伸ばした。ようやく身体の奥に溜まっていたこわばりがほどけていくのを感じた。


「そろそろ戻ろう」


 レンがそう言うと、セラフィナも静かに立ち上がった。夕暮れに包まれた訓練場を振り返ることもなく、二人は並んで歩き出す。


 石畳の上を進む足音が、一定の間隔で重なった。レンはその歩調を意識しながら、ほんのわずかに距離を取って歩く。


 近づきすぎれば、何かが変わってしまう気がした。

 まだ言葉にならない何かが、形を保てなくなるような、そんな予感だけが胸の奥にあった。


 セラフィナはふと足を止め、静かに振り返る。夕闇へと溶けかけた淡い光の中、その一連の動きは時間に引き延ばされたかのように、いつもよりゆるやかに映った。


「じゃあ、また明日ね」


 セラフィナは寮の方へ歩き出し、レンは研究棟へ向かう。背を向けてからも、しばらく足音だけが同じ静けさの中に残っていた。


 部屋に戻り、すぐにノートを広げた。数式と化学式が整然と並び、この世界の言語で書き直した反応式が頁を埋めている。アルフレッドと共有している理論の草稿。今夜も、詰めなければならない箇所がある。


 その隣に、誰にも見せていない頁がある。


 ペンを取り上げ、再び計算へと没入する。紙の上に走る軌跡は途切れることなく、星光石の放出速度を縛るための触媒配合へと収束していく。

 共同研究で扱った系統に近い素材ではあるが、目指す方向は正反対であり、こちらは流れそのものを抑え込むための設計だった。


 視線はある数値で止まった。


 脳内の数式が、まるで物理的な歯車のように音を立てて噛み合う。この符号をたった一つ、負から正へと反転させる。それだけで、魔力の均衡は一瞬で崩壊し、穏やかな抑制は狂暴な増幅へと転じるはずだ。


 その帰結を理解した瞬間、思考より先に、指先が熱を帯びた。


 無意識のうちに引き出しを開けていた。中から取り出した星光石の粉末を、ごく少量、紙の端に乗せる。指先に残る配合の記憶――前世の実験室で、幾千回と繰り返した精密な秤量の感覚が、今この異世界の体へと途切れることなく流れ込んでくる。


(……ああ、そうだ。この配合比なら、励起れいき反応は秒読みで始まる)


 レンは、ぴたりと手を止めた。


 心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴っている。

 震えを抑え、粉末を瓶に戻した。引き出しを、ゆっくりと押し戻す。


 乾いた木の滑る音。そして、カチリという小さな閉塞音。


 だが、レンは手を離せなかった。指先は、まだその感触を求めて引き出しの縁に吸い付いている。木目の僅かな凹凸が、極限まで鋭敏になった神経に刺さるように伝わってくる。


「――やれば、できるのか」


 独り言が、熱を帯びて空気に溶けた。

 つい数分前まで、それは「理屈の上では可能」という、遠い銀河の観測データのような手触りだったが、今は違う。理論と現実を隔てていた分厚い壁が、いまや薄氷にすら満たない。


 指先をひと振りすれば、この世界の理を上書きできる。

 その万能感の疼きを、レンは深く、重く、噛み締めていた。

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