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4話:言えない距離

 梅雨の気配が漂い始めた頃になっても、二人の訓練は途切れることなく続いていた。湿り気を含んだ風が肌にまとわりつき、空気はどこか重く、遠くで雨を孕んだ雲がゆるやかに流れている。


 訓練を終えた午後、二人は中庭の石段に並んで腰を下ろしていた。木々の影がまだらに石畳へ落ち、葉を揺らす風の音だけが、場を満たす静かな余韻として残っている。汗はゆっくりと冷え、荒れていた呼吸も次第に落ち着きを取り戻していく。


 セラフィナは水筒を傾け、小さく息をついた。その横顔には、緩やかな満足が滲んでいる。やがて顔を上げ、空を見つめると、流れていく雲の切れ間を、鳥が一羽、音もなく横切っていく。


「今日も、いい調子だったな」


 レンが言うと、セラフィナは嬉しそうに頷いた。


「ええ。あなたのおかげよ」


 彼女の声には素直な喜びが滲んでいた。的に命中する回数は日に日に増え、制御の感覚が身体に染み込んできたのだろう。


「もう、俺がいなくても大丈夫だろう」


「そんなことないわ」


 セラフィナが即座に否定した。その反応の速さにレンは少し驚いた。


「あなたがいるから、頑張れるの。一人だったら……」


 言葉は途中でほどけるように弱まり、セラフィナの視線がゆっくり逸れていく。足元へ落ちたまなざしは、石段の隙間にひっそりと根を張る苔へと留まり、その小さな緑をなぞるように揺れていた。


「やっぱり何でもないわ」


 続くはずだった言葉は飲み込まれ、形を持たないまま消えていく。

 笑顔の奥に、わずかな翳りが差していた。その裏に何かを隠している気配をはレンは見逃さなかった。


「なあ、セラフィナ」


 レンが口を開く。


「お前って、自分の家族の話をしないな」


 セラフィナの肩が、ごくわずかに強張った。ほんの刹那、呼吸の継ぎ目に紛れるほどの変化だったが、確かに身体の奥から滲み出たものだった。


 表情は崩れていない。視線も揺れていない。それでも、意識の届かない深部で走った小さな軋みを、レンは見逃さなかった。


「……別に、話すようなこともないし」


「そうか」


 レンはそれ以上追及しなかったが、セラフィナは自ら続けた。


「父は忙しいの。任務に出ることが多くて、家にはあまりいない。母は……」


 彼女が言葉を切る。視線が遠くを見ていた。


「母は厳しい人よ。いつも、『もっと強くなりなさい』『恥をかかせないで』って言うの」


 その声には、わずかな疲れが滲んでいた。


「成り上がりだから、他の魔術師から馬鹿にされないように。実力で証明しなきゃいけないって。いつも、そう言われてきた」


 セラフィナがそっと膝の上に手を置く。指先にはわずかな揺れが残っていた。力を込めて押さえつけようとしても消えきらない震えが、内側にある動揺を隠しきれずに溢れ出している。


「だから、私……失敗できないの。弱い顔を見せたら、全部崩れるから」


 レンは黙って聞いていた。


「でも、ここでは……」


 セラフィナがレンへと視線を向ける。その瞳の奥には、張り詰めていたものがわずかにほどけたような、かすかな安堵の色が浮かんでいた。


「あなたの前では、弱いところを見せられる。制御できず暴れた炎も、的を焼き焦がしたあの日の失敗も、あなただけは決して馬鹿にしなかった」


 彼女が小さく微笑む。


「だから、ここにいると……楽なの」


 レンは視線を逸らし、遠くの木々を見つめた。


「……俺もだ」


「あなたも、なの?」


「俺も、ずっと何かから逃れようとしている」


 セラフィナが驚いた顔でレンを見る。


「でも、あなたはアステリア家の――」


「だからこそだ」


 レンが遮る。


「アステリア家の息子だからこそ、期待されるし、求められる。でも、俺は……」


 レンの言葉はそこで切れた。これ以上は言えない。魔力がゼロであること、化学で偽装していること、それは誰にも明かせない。


「俺もセラフィナと同じなんだ。本音を飲み込むのが、もう癖になっている」


 セラフィナが静かに頷く。


「そう……あなたも」


 二人のあいだに、音を失った水面のような沈黙が静かに降りてきた。


 それは触れれば波紋となって崩れてしまいそうな、かろうじて均衡を保った薄い膜のようなものだった。セラフィナは言葉を掬い上げかけて、指先から零すように飲み込み、レンもまた問いを形にする直前で思考を閉じる。


 互いに踏み込まないまま、それでも背を向けることもなく、ただそこに在る気配だけを確かめ合う。言葉にならないものの輪郭が、沈黙の底で淡く揺れながら、二人のあいだに息を潜め続けていた。


「でも、いいのよ。全部話さなくたって。秘密があったって。それでも、一緒にいられるなら」


 レンは彼女へと目を向ける。傾いた夕陽がその髪を掬い上げ、燃えるような赤をやわらかく揺らしていた。光と影のあわいに浮かぶ横顔は、どこか寂しさを秘めながらも、静かな水面のように穏やかに整っていた。


「……ああ」


 レンが頷く。


「それでいい」


 風がそっと通り抜け、木々の枝葉を揺らしていく。重なり合う葉が擦れ合い、さやさやと柔らかな音を紡ぎながら、二人のあいだを静かに包み込んでいた。


「明日も、訓練するわよ」


 セラフィナが立ち上がる。


「ああ、わかった」


「じゃあ、また明日ね」


 彼女が手を振り、歩き出す。その背中を見送りながら、レンの意識は一瞬だけ別の方向へと引き寄せられた。


(いつか、真実を知ったら――)


 そこまで思考が届いたところで、不意に途切れる。続きを組み立てるよりも先に、今夜処理すべき計算式が脳裏に浮かび上がった。アルフレッドと詰めるはずの仮説、机の上に広げたままのノート、その未完のままの行が思考を現実へと引き戻す。


 夕陽が傾き、石畳に長い影を落としていく。並んでいたはずの二つの影は、ほんの一瞬だけ交わり、やがて何事もなかったかのようにほどけて、それぞれ別の方向へと静かに伸びていった。


***


 その夜、研究室の扉を開けると、魔術灯の柔らかな光がすでに部屋を満たしていた。 アルフレッドが机に向かっている。広げているのは無骨な羊皮紙ではなく、質が良く使い慣れた様子の薄い便箋だった。レンの足音に気づくと、彼は書きかけの行を丁寧に埋めてから顔を上げた。


「お疲れ様。……外は冷えていたろ」


 アルフレッドは椅子にかけていた予備の毛布を、レンの席へとかけなおした。それから手元の便箋を二度、三度と折りたたむ。角をきっちりと合わせ、貴重品でも扱うような慎重さで上着の内ポケットに収めた。


「弟に送る手紙だよ。月に一度、必ず書くと決めていてさ」


 聞かれる前に、彼は少しだけ照れを隠すように言った。


「魔術師としての生活はどんなかって伝えてやりたくてな。……あいつには『諦めるな』と偉そうなことばかり言ってきたから。兄が先に折れるわけにはいかないだろ?」


 レンは椅子を引き、毛布を膝に置いてノートを開いた。アルフレッドの手紙がどんな言葉で綴られているのか、問う必要はなかった。ただ、彼が胸に手を当て、ポケットの中の便箋が折れ曲がっていないか確かめる穏やかな仕草を、レンの瞳は静かに捉えていた。


「仮説の続き、やるか」


 アルフレッドが羊皮紙を広げる。その指先は、先ほどまで家族を想いペンを走らせていた温もりを纏ったまま、迷いなく峻烈な計算式の海へと戻っていった。

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