シーン2:化学が拓く道
生後六ヶ月を迎えたレンの視界は、日ごとに鮮明さを増していった。彼はこの新しい世界を、一心に観察し続けた。
人々が当たり前のように使う、不思議な力。それは魔法と呼ばれるものだった。侍女が手をかざすだけで、カーテンが滑るように開く。何もないところから火が灯り、水は瞬く間に沸騰する。前世の科学では説明のつかない現象が、この世界では日常として存在していた。
だが、レンにはその「感覚」がなかった。
他の赤子たちは、無意識のうちに魔力を漏らしている。
侍女たちが「この子は魔力が豊かね」と微笑みながら、その子を抱き上げる光景を何度も目にした。
しかし、レンの周囲には何もなかった。ただ静寂があるだけだった。もしかして、俺には魔力がないのではないか――そんな不安が、幼い胸の内に芽生え始めていた。
三歳になったある日のこと。レンはある会話を耳にした。
兄たちが父に叱責されている声だった。
「貴様ら、まだ魔力を制御できないのか!」
公爵ヴァルデリウスの怒声が廊下に響き渡る。
「も、申し訳ございません……」
兄たちの震える声がした。
「魔力を垂れ流すなど、赤子と同じだ! 恥を知れ!」
レンはその会話を聞きながら、ある仮説を立てた。つまり、魔力の気配が少ないのが意図的なものであれば、それは魔術師として優秀であるという評価になるのではないか、と。
年が巡り、王国の定めに従って、すべての子供が魔力測定を受ける日が訪れる。避けることのできない儀式として広く知られたその制度の前に、レンもまた例外なく立たされることになった。
大広間の高窓から差し込む光は床に幾何学模様の影を落とし、その中心に立つ大司教イグナティウスの白髪を淡く縁取っている。老人は静かな所作で水晶球を取り出すと、わずかに顎を引いてレンを壇上へと招いた。
「レン様、手を」
促されるまま水晶に触れた瞬間、広間に満ちていたざわめきがすっと引いていく。しかし期待を映すはずの透明な球体は、光を宿すことも色を帯びることもなく、ただ冷たい沈黙を保ったままだった。
「……おかしい」
イグナティウスが眉をひそめた。
「もう一度」
再び触れても、やはり何も起きない。
「三度目」
レンが両手を当てて集中する。しかし、水晶は沈黙したままだった。
「……これは」
イグナティウスが公爵を見た。その声は魔術で増幅されているわけでもないのに、広間に明瞭に響いた。
「魔力量……ゼロです」
静寂が訪れる。公爵の表情が、氷のように凍りついた。
レンは予想していた結果だった。他の子供たちと違い、魔力の感覚がなかったのだから。だが実際に宣告されると、膝が震えるのを止められなかった。
「……ゼロ、だと?」
公爵の声が低く沈む。
「はい。測定誤差の可能性を考慮し、三度測定しましたが、結果は同じです。レン様には……魔力がありません」
公爵がゆっくりと立ち上がった。靴底が石床を踏みしめるたび、その音が広間の空気を硬直させていく。処刑台へ続く階段のような、一歩一歩だった。
近づいてくる瞳の中に、レンは三つのものを読み取った。怒りだ。失望も見える。だが、俺が警戒すべきはその奥にある——父の瞳が、もう値踏みを始めている。
「……使えぬ」
公爵が呟く。
「リディアめ……失敗作を産んだか」
公爵の手がレンの頭を力強く掴んだ。痛みが走る。
「父上……!」
レンが声を上げるが、公爵は手を離さない。
「貴様は、アステリア家の恥だ。魔力もない子など……」
レンの心が凍りついた。
だが、公爵は何かを思案するように沈黙し、やがて侍女に命じた。
「……記録は封印せよ。外部への情報流出は一切許さん。イグナティウス、今日のことは忘れろ」
大司教が静かに去っていく。その背中が扉の向こうへ消えると、公爵が再びレンを見下ろした。
「レン」
「は、はい」
「十歳まで猶予をやる」
レンの目が見開かれた。
「五年の間に……何か価値を示せ。アステリア家に貢献できることを証明しろ。できなければ……」
言葉は途切れたが、その意味は明白だった。処分される、と。
「なぜ……猶予を?」
レンが震える声で問うと、公爵はわずかに目を細めた。
「……お前の魔力測定の記録。水晶は完全に無反応だった。普通、魔力が少ない者でも、水晶はわずかに反応する。だが、お前は……完全にゼロ。まるで……」
公爵が言葉を選ぶ。
「まるで、魔力を『完全に隠蔽』しているかのようだった」
「……!」
「おそらく違うだろう。だが……」
公爵の目が鋭くなる。
「このようなことは前例がない。万が一、お前が『森閑の魔術』の片鱗を持っている可能性が僅かでもあるなら……処分するには惜しい。だから、猶予をやる。五年で、何かを示せ」
レンは、わずかに眉を寄せた。
――森閑の魔術。
聞いたことのない名だった。
それが称号なのか、系統なのか、それとも忌避すべき禁忌なのかさえ分からない。
ただ、父の視線には、冷酷さだけではない何かが混じっていた。
「……わかりました」
レンが頷くと、公爵は手を離した。
「軟禁する。誰にも会わせるな」
侍女たちが頷き、公爵は去っていった。その足音が遠ざかり、扉が閉まる音が響いた。
一人残されたレンの周りで、侍女たちが冷たい目で囁き合う。
「魔力がないなんて、かわいそうね……」
「でも、五年も猶予を……」
「公爵様、何をお考えなのかしら」
「リディア様もお気の毒だわ」
声が遠い。レンは指の付け根が白くなるまで手を握りしめ、その感触だけを頼りに呼吸を整えた。
窓から差し込む光が、足元に長い影を作っている。まるでこれからの時間そのものが、細く伸びているかのようだった。
——あと、五年もある。何か見つけられるはずだ。
測定後、レンが部屋に戻ると、そこにはリディアが立っていた。
窓を背にして佇むその姿は、逆光で顔が見えない。無表情、無言のまま、レンを見下ろしている。一切の感情が読み取れなかった。
「母上……」
レンが呼びかけたが、リディアは踵を返した。その足取りに乱れはなく、感情の揺れが足元に滲むことすらない。まるで感情という概念を最初から持たない生き物のように、完璧で、静かだった。
扉が閉まる。
レンは、その場に立ち尽くした。呼びかけた自分の声が、まだ部屋の中に残っているような気がした。誰にも聞かれなかった声が。
余韻だけが、部屋に残った。




