プロローグ:観測者は、死んだ
「……いける」
声が出ていたことに、後から気づいた。誰もいない研究室に、自分のかすれた声が落ちて、それきり消えた。
数値が動いていた。
三日間、蓮は眠っていなかった。瞼の裏に焼きついた粒子加速器の出力曲線が、ようやく、理論の要求する形に沿い始めている。
指先が震えているのは分かっていた。ただ、その原因が興奮なのか、疲労なのか、あるいはそれ以外の何かなのかを分類する気力は、もうどこにも残っていなかった。
虚数態物質。負のエネルギー密度を持つ仮想粒子。この宇宙の物理法則が「存在を許していない」物質。
それが今、蓮の手の届く距離にある。
「あと少し……」
囁きが出力指示と重なった。コントロールパネルの縁から、指が離れない。
モニターの曲線が沈む。もう一段、出力を上げる。また沈む。胃の裏側で何かが締まるような感覚があった。
「……来た」
ただの数値だ。そんなことは分かっている。
だが、蓮の目には、そのなだらかな曲線の向こうに、重力を縛る理屈が、時空をねじ曲げる手段が、そしてワームホールへと至る可能性までもが透けて見えていた。
人類が指先の一本すら届いていなかったものが全部、この部屋に存在している。
ピピピピピッ。突如、警告音が鳴り響く。
状況の読み取りに三秒もかからなかった。観測装置の干渉率が臨界を超えている。観測は対象を変える。これは量子論の初歩だ。
だが、今起きているのはそれだけではない。系が逆転している。測定しているはずの装置が、虚数態物質に取り込まれ、世界の法則に測られている。
緊急停止ボタンに手が伸びたが、指が触れた瞬間、「届く」という概念が崩れた。
ガラスに亀裂が走り、音よりも先に視界が割れた。正の質量と負の質量が境界で衝突し、「上」と「下」が意味を失い始める。内臓が正しい位置を忘れ、身体が浮いた。
その瞬間に、蓮は笑っていた。
笑おうとしたわけではなかった。ただ、散らばっていたすべての点が、崩壊の速度の中で一本の線になっていく感覚があった。
観測データが、最後の最後でようやく一つの形に結ばれていく。虚数態物質は存在と非存在の境界にある。
俺の理論は正しかった。正しかったから、この空間は終わりを迎えている。それだけのことだ。
白光が爆ぜると同時に、音が途切れた。
記憶が遠のいていく。初めて星を見上げた夜の空気の冷たさ、学会で名を呼ばれた瞬間の指先の震え、コーヒーの焦げた香り。好きだったレモンタルトの、酸味と甘さの境目。
それらが一枚ずつ剥がれ落ちていく速度の中で、蓮の意識はそれでもモニターの曲線のことを考えていた。
(いつか……この先を……)
白光がすべてを呑み込み、その願いだけが、世界の外側に残った。




