第6話:スオウの居場所
その後、スオウは茶葉を一袋買い、店を出ようとした。
ミエルはカウンターで釣り銭を渡しながら、次に入荷する予定の茶葉について少し話した。スオウは興味があるのかないのか曖昧な顔をしていたが、銘柄と入荷日だけはきちんと覚えたようだった。
「じゃあ、またどうぞ」
「うん」
スオウが扉へ向かったとき、外から旅装をした、一人の年配の男が入ってきた。
濃い色の外套を着込み、肩には革の鞄を掛けている。服の仕立てや履物の形から、東方の出身らしいことが見て取れた。
男は店内へ一歩踏み込んだところで、スオウとすれ違ったところで、足を止めた。
「……失礼」
声をかけられ、スオウが振り返る。男はその顔を見て、わずかに目を見開いた。
「あなたは、もしかして――」
スオウは黙って相手を見た。先ほどまでの眠たげな表情は、ほとんど変わっていない。
けれど、ミエルには、その場の空気が硬くなったように感じられた。
「どこかでお会いしたことがあるような」
男はそう続け、スオウの角と顔立ちへ視線を向けた。
「東方の方でしょう。もしや、あちらの――」
「人違いだと思います」
スオウは穏やかに答えた。声は静かで落ち着いていたし、言葉遣いも丁寧だった。
だが、それ以上の会話を許さないような、はっきりとした区切りがあった。男は口を閉じ、困惑したように眉を寄せた。
「そうですか。いや、失礼しました。よく似ていらしたものですから」
「いえ」
スオウは軽く頭を下げると、そのまま扉を開け、外へ出ていく。
入口の鈴が鳴り、扉が閉まった。
男はしばらくその背中を目で追っていたが、やがて何事もなかったようにカウンターへ向き直った。
「すみません。茶葉を少し見せていただきたいのですが」
「ああ、はい。どうぞ」
ミエルはいつもの調子で応じ、棚へ案内した。男は何種類かの茶葉を確かめ、ひとつを買って帰っていったが、その間、先ほどの青年について話題にすることはなかった。
ミエルも、自分からは尋ねなかった。
男が帰ったあと、ふと窓の外へ目を向ける。スオウの姿は、もう見えない。
あの青年がどこから来たのか、何をしていたのか、ミエルはほとんど知らなかった。
東方の出身で、商売の知識があり、礼儀正しく、少し無愛想。知っているのは、それくらいだ。
それでも、あの男に声をかけられた瞬間のスオウの様子が、妙に気にかかる。
恐怖や怒りは感じなかった。何かを遠ざけようとしているような、そんな印象だけが残っていた。
◆
夕方近くになって、再び入口の鈴が鳴った。ミエルが顔を上げると、スオウが立っている。
「あれ。何か忘れ物?」
「いや。ちょっと、聞きたいことがあって」
「何かな。俺で答えられることなら、何でも聞いて?」
「この辺、住むところある?」
スオウは店内へ入り、扉を閉めた。唐突な質問に、ミエルは少し驚いた。
「住むところ?」
「うん。今、宿にいるから」
「あ、そうなんだね。長くいる予定なの?」
「まだ決めてない」
スオウはそう答え、店内を見回した。その視線が、窓際の小さな椅子で止まる。
ミエルは少し考えてから、カウンターの下にしまっていた紙を取り出した。
「この辺なら、何軒か下宿屋があるよ。駅のほうは高いけど、こっちの住宅街ならそんなでもないし」
「そうなんだ」
「ひとつ、知り合いがやってるところがあるんだ。部屋が空いてるかどうかはわからないけど、聞いてみよっか?」
「……うん。お願いできると嬉しい」
「いいよ。ちょっと待ってね」
ミエルは紙に簡単な地図を書き始めた。
店の前の通りを西へ進み、二つ目の角を曲がる。そこから小さな広場を抜け、坂を少し上がったところに、古い煉瓦造りの下宿屋がある。
女将は年配の女性で、気さくだが、生活態度には少々厳しい。
ただ、きちんと家賃を払い、近所に迷惑をかけなければ、出身や家柄を詮索するような人ではなかった。
「ここ。名前は『白樺荘』。女将さんに俺の店で聞いたって言えば、話は通じると思う」
地図を差し出すと、スオウはそれを受け取り、しばらく眺めた。
「ありがとう」
「どういたしまして。いいところ見つかるといいね」
スオウは頷き、紙を丁寧に折り畳むと、視線を動かした。
ミエルはその、何かに迷ったような様子に気づき、何か言いたいことがあるのだろうかと言葉を待った。
「……ここ、座っててもいい?」
スオウが指したのは、窓際の椅子だ。ミエルは目を丸くしたが、笑って答えた。
「いいよ。別に喫茶店じゃないから、大したものは出せないけど」
「茶が飲めればいい」
「じゃあ、さっきのやつ、もう一杯淹れようか」
「うん」
スオウは、椅子へ腰を下ろした。窓から差し込む夕方の光が、灰色の髪と短い角を、柔らかく照らしている。
ミエルは湯を沸かしながら、ちらりとその姿を見た。
あの行商人のことを聞こうかと思ったけれど、結局やめた。
スオウが自分から話さないのなら、聞く必要もないように思えた。ミエルは茶を淹れ、カップを持って窓際へ向かった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
スオウは受け取り、静かに口をつけた。
ミエルはカウンターへ戻り、残っていた伝票の整理を始めたが、スオウが黙って座っていても、不思議なほど気にならなかった。
やがてカップが空になった頃、スオウが立ち上がった。
「ごちそうさま」
「うん。下宿、見に行くんだろ?」
「そうする」
「じゃあ、気をつけてね」
スオウは軽く頷き、扉へ向かった。
その背中を見送りながら、ミエルはふと思った。
この青年はもしかしたら、何かから逃げてきたのかもしれない。けれど、逃げてきた先で何をしたいのかは、まだ決めていないのだろうと。
◆
日が沈み、店を閉める支度を始めた頃。入口の鈴が鳴り、今度は見慣れた年配の女性が顔を出した。
「あら、ミエルちゃん。まだ開いてた?」
「こんばんは。ちょうど閉めるところ。どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあってね」
女性は白樺荘の女将だった。
ふっくらとした体格で、いつもきちんと髪を結い上げている。近所では世話好きで知られ、下宿人の食事や生活態度について、本人以上に気を配ることもあるらしい。
「今日、うちに若いカモシカの子が来たんだけど」
「ああ、スオウくん?」
「そうそう。その子。あんたの紹介だって言ってたから」
「うん。部屋、空いてた?」
「空いてたよ。本人も気に入ったみたいでね。明日から入ることになった」
「へえ、早いな」
ミエルは少し驚いたが、彼が腰を落ち着ける場所ができたことが嬉しくなった。
「そっか。よかった」
「ずいぶん礼儀正しい子だったよ。若いのに、言葉遣いもきちんとしてるし」
「そうだろ? 俺も思った」
「ただねえ」
女将はそこで少し、声を落とした。
「妙なことを聞かれたんだよ」
「妙なこと?」
「ここに住むのに、身元を保証してくれる人は必要かって」
この街では、遠方から来た者が下宿を借りることは珍しくない。仕事を探している者もいれば、家族と離れて暮らす者もいるし、保証人を立てられない者だっている。
だから、それ自体は不思議な質問ではなかった。それでもスオウの顔を思い浮かべると、少しだけ引っかかるものがある。
「それで?」
「うちは要らないって。家賃さえ払って、ちゃんと暮らしてくれりゃ、それでいいからね」
「そっか」
「そしたら、安心したみたいだったよ。まあ、何か事情があるんだろうけどさ。あたしゃ、余計なことを聞くつもりはないよ」
「うん、良かった」
「じゃあ、そういうことだから。紹介してくれてありがとね」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
女将が帰っていくと、店内は再び静かになる。ミエルは入口の鍵を掛け、カウンターへ戻った。
昼間、東方の行商人に声をかけられたときのスオウの様子を思い出す。そして、夕方に戻ってきて、下宿を探していると告げたときのことも。
彼はまだ、この街に長くいるかどうか決めていないと言っていた。それなのに、もう部屋を借りたらしい。
ミエルはカウンターの上に置かれた空のカップを手に取り、奥の流しへ運んだ。
スオウがこの街に何を求めているのかは、わからない。どこから来て、何を置いてきたのかも知らない。
けれど少なくとも今夜からは、帰る部屋ができたらしいことが喜ばしかった。
明日も、スオウは店へ来るだろうか。新しく借りた部屋で、今日買った茶葉を淹れるのかもしれない。
それとも、また何かを買いに来るのだろうか。そんなことを考えながら、ミエルはカップを棚へ戻した。
窓の外では、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。
この街には、毎日のように新しい人間がやってくる。誰もが何かを求めていて、誰もがどこかへ向かっている。
中には、まだ行き先を決められない者もいる。
ミエルは最後に店内を見回し、窓際の椅子へ目を向けた。今日、スオウが座っていた場所だ。まだ、陽射しの名残のような温かさが残っている気がした。
ミエルは椅子の上に置きっぱなしだった布袋を持ち上げ、棚の下へ片づけた。
次にスオウが来たとき、また座れるように。




